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winter(後編)

  ◇/サラン、現在 


 【サラン、君がどんなに君自身の過去を知りたいと願っても、僕にはそれを教えることはどうしても出来なかった。僕にそれを隠す権利はなく、思い出して受け止める作業は君には本来必要なことだったのかも知れない。だからこれは僕のエゴだ。どうか許してほしい。


 僕と君が出会ったのは、M市の戦争孤児救済施設だった。君は一人で路上生活を送っているところを保護されたと聞いている。

 保護されてしばらくは、君は夜中に突然泣き叫んでパニック状態に陥ることがあった。誰かを捜すと言っては突発的に施設を飛び出しもした。のちに僕は、君が捜しているのは〝スー〟という少女なのだと知るのだが、何年経っても彼女の痕跡は見つかることがなかった。君はその少女と自分は無理矢理引き離されてしまった、自分が油断していたのだと何度も言っては取り乱していた。君が今も大切にしている片耳だけのピアス、あれは彼女の落としていった宝物だそうだ。


 戦争が終わり、僕が職に就いたころ君と結婚した。

 君の発作は少しずつ治まってはいたが、まだ油断ならない状態だった。でも君には武器があった。文章だ。

 後悔と悲しみは消えずとも、スーとの美しい思い出もまた、消えるわけではない。思い出を綴ると幾らか落ち着きを取り戻し、原点に帰ることができるのだと君は教えてくれた。「彼女が私の物語の最初の読者でファンだったの」と穏やかな笑顔で君が言ったとき、僕は君から書くことを決して奪ってはいけないのだと悟った。サラン、君は生まれながらの作家なのだと気がついたからだ。

 作家というのは、厳密にいえば職業ではないのだろうと僕は思う。作家というのは、あれは性質だ。職にしているいないに(かかわ)らず、作家は「なる」とか「ならない」というものではない。書くことで動揺しようがパニックになろうが、君は書かずにいられない。禁じられれば(かえ)って苦しくなるものなのだろう。だから僕は君に作家で居続けて欲しかった。

 君の書き終えたスーとの日々の記録は、美しかった。戦時中にあんな学院が極秘扱いで存在していたことを、僕は知らなかった。君の十代は理不尽と不穏、美しさと輝きに満ちていた。サラン、君がスーを救おうと学院を脱出するために必死に取った行動を、僕は罪だとは思わない。悪いのは君を都合よく扱おうとした大人たちだ。

 手記を完成させると次第と君の心は安定していった。夜中の発作も治まりかけた頃、僕はそれと反比例するように君の十代の記憶が徐々に失われていることに気がついた。書き残して安堵したことで、君の脳は記憶を手放すことを選んだのではないかと思う。君がひとりで抱えるにはあまりにも重過ぎる体験、そして罪悪感がのしかかって辛かったのだろう。

 次第に明るさを取り戻し、作家としても軌道に乗った君を見て、僕は君の記憶を無理矢理呼び覚ますべきではないと思った。またあの地獄のような悪夢を追体験させるのはあまりに惨い。悪夢の中に美しい思い出も混じっているのを承知していながら……僕はスーなる少女が無事でいるとはどうしても思えず、それも含めて……君の少女期を君に思い出して欲しくなかった。君が記憶を取り戻したいと望んでいるのを知っていながら、曖昧にかわし続けてしまった。


 君が若い頃書いた手記は長らく僕の手元で保管していた。ただ、僕もいつまで元気でいられるか分からない。僕が先に死んだ場合、若い頃の自分の手記を君が不意に見つけて読んでしまったら、どれほど君にショックを与え傷つけるか。ようやくそこに思い至って、君に手紙をしたためている。


 この手紙と君の書いた手記を、君と長年並走してきた編集のY氏に託そうと思う。彼には随分重たいものを背負わせてしまって申し訳ないが。「もし君が独りになった後、自分の過去をどうしても知りたいと相談してきたら渡してほしい」とお願いしている。

 君にとってスーと過ごした日々がどんなに印象深く素晴らしいものだったか、僕もよく分かっているつもりだ。ただ、僕にはその素晴らしい思い出ごと君に忘れてもらうこと以上の最適解を見つけることが出来なかった。ずっと黙っていてすまなかった。


君の幸福を願っているよ。】


 手紙の最後には夫の見慣れた字体でサインが記してあった。



「ご主人がこれを私に託されたのは四年ほど前です」

 読み終えたタイミングでY氏はそう補足した。夫の亡くなる二年前。夫もまた、ずっと重たいものを心に抱えていたのか。

「先生のご事情は前担当者から少々ですがお聞きしていました。ご主人は託したものは全て読んでもらっても構わないと仰っていましたが、私は読むべきではないと判断しました。ですから、預かりものの重要性の程度が分からず、すぐに先生にご報告できずにいました。申し訳ありません」

「いいえ……」

 予想もしていなかった夫からの手紙。確かに、決して話すまいとした夫の優しさのおかげで、私の数十年間は幸福と穏やかさで満たされていたのだ。今このタイミングで、自然と自分の人生にまるごと向き合う時がやってきたのだろう。

「私も同じ状況に立たされたら、本人に渡すかどうかとても迷ったと思います。ずいぶんご負担だったでしょう」

 改めて封筒を手に取る。手紙と共に渡されたその原稿はずっしりと重い。この中に、過去の私が今の私のために書いた記録が──森の中の学院のこと、スーにまつわること、そして多くの後悔──が詰まっているのか。



     *



 Y氏が帰った後、私はすぐに自分の手記を読み始めた。


〝大抵の女の子は蝶々結びの結び方を覚えるのと同じ年頃に、三つ編みの編み方を覚える……〟

 書き出しはそう始まっていた。読み始めてすぐ、意識は驚くほどすんなりと過去に飛んだ。私は深い森の女学院で過ごす十三歳のサランだった。その手で誰かの髪を編んでいる。細く淡色をした子どもの髪。その子がじっとしていられずこちらを振り返る。屈託のない笑顔。

「スー……」

 今までぼんやりとフォーカスの合っていなかったスーの顔を、私はその時はっきりと思い出した。恐ろしいくらい整っていて、測ったように左右対称で、その美しさゆえに翻弄された無邪気で純粋な。


 私のスーだ。


 途端に、土石流のような激しさで記憶がなだれ込んできた。秘密裏に営まれた、贅沢で閉じられた暮らし。新しい暮らしに馴染もうと奮闘した似たような境遇の少女たち。ダンスレッスン、あの大食堂。物語を紡ぐときめき。読み進める。二重振り子のピアス。私の物語とスーのダンスの融合。そして、スーを救おうと私が強引に決行したあの脱出、そしてそれらを書き綴っていた二十代の私。読んで読んで……いけない。溺れそうだ。


 ああ、スーと私は何とか学院と森から抜け出せたものの、あのとき街は空爆を受けた直後で何もかもが混乱していたのだった。頼みにしていた私の実家も粉々になっていて、家族は消息不明だった。スーの実家は行き方すら分からなかった。涙すら忘れるほど途方に暮れた。

 役所はごった返していて確認も手続きもできないままたらい回しにされた。飼い猫が急に外の世界に放り出されたみたいに、今まで守られていた私とスーはタフに生き抜く知識を持ち合わせてはいなかったのだ。混乱と無秩序の街には奪略と犯罪が横行する。私たちは、悪い意味で浮いていたのだろう。そして、一際目立つスーが狙われた。


 スーと数日、家を失った市民たちに混ざって屋根のある野外で寒さを凌ぎながら寝起きした。片時も離れないように気をつけていたのだが、私が寝ている時にスーが知らない男たちに連れ去られそうになった。しばらく揉み合いになった後、スーはなんとか男たちの隙を抜けて走り出す。一拍遅れて何人かが追いかける。私も追いかけたいのに残った仲間に押さえつけられて動けない。

 もがきながら、まるで世界が夢中(ゆめなか)みたいにスローモーションで動くように感じられた。早朝なのに光景の色合いもひとりひとりの動きも表情もはっきりと見て取れる。ダンスで培った柔軟性でスーが巧みに男の腕をすり抜けたのも、男が驚いて一瞬フリーズしたのも、たまたま周りで寝ていた人々が起き出して慌てる表情も。スーのフードに隠したひとつ編みの長いおさげが露わになり、駆けるたびに左右に揺れるのを私はただ見つめていた。

 周りが起きだしたので、私を押さえていた男は諦めて逃走を試みるも周囲の群衆に揉みくちゃにされて捕らえられたようだった。自由になった私はその結末を見届けもせずスーを救いに走り出す。身体が思ったように動いてくれない。ただひたすら駆けて見渡してをいつまでも繰り返した。

 家がなくなっても家族の所在が不明でも、スーがいたから私はなんとか持ちこたえられていた。なのに、あの子まで失ってしまったら。


 目を閉じる。夫が真実を伝えられなかったのは無理もない。私はほんとうにたくさん、間違えた。







 気持ちの整理をつけようとコートを着込んで外に出る。 まだ陽は高いが風は冷たい。歩くたびに右耳のピアスが揺れて、存在を主張した。


 ──十五歳の私はスーを見つけ出せないまま夕暮れになっても、現実を受け止めきれなかった。私は何のために女学院脱走を企てた? 汚い大人からスーを救うため。皆に迷惑をかけて強引に脱走して、スーをとにかく辛い目に遭わせたくはないという心だけで、私は結局あの子をもっと不幸にしてしまったの?

  もしかしたらと一塁の望みをかけて戻ってきた寝床にもスーの姿はなく、何も考えられなくなった。座り込むと、そばで数日寝起きしていた婦人が布に包んだ何かをそっと手渡してくれた。片方だけの二重振り子のピアスだった。

「あの子のでしょう? 」

 婦人はそれだけ言ってひたすら背中をさすってくれた。

 戦争は、経済も人の心も貧しくする。心が荒みきって捨て鉢になる人もいる一方で、この婦人のように変わらず優しく凛とした人もいる。惨めだった。私は、凛とできなかった側の人間だ。


 もう、受け止めなければならないのだと思う。「君のしたことは罪ではない」と手紙の中の夫は言う。他人の体験談として聞けば、私もそう言って慰めるだろう。時代のせい。境遇のせい。あの年齢で精一杯よくやった。けれど、スー本人も同じようにそう言ってくれるだろうか。


 気が付いた。私はずっとスーに許されたかったのではないか。


 いつの間にかカフェの近くに来ていた。そばの広場のベンチに腰掛ける。あの頃の私はずっとスーと一緒にいられると思っていた。いつかあの学院を出て行くことになるということすら頭になかった。無邪気に頭を占めていたのはただ、スーとの永遠だった。


 永遠などないと、今の私ははっきりと言い切れる。 誰かが攫われたり虐げられたり。


 死んだり。

 殺されたり。


 そういう幾つもの分断を通過して今の私がいる。


















 ふ、と風が動いた。掛けているベンチの隣に誰かが腰をおろしたのだ。

 何の気なしにそちらを見て、息を止める。


 無邪気に振り返ったあの子の笑顔。芸術品のようなあの子の額のなめらかな曲線。白桃のような産毛が光り、産毛は耳までも続き、その左耳に。


 私が無意識に自分の右耳のピアスを確かめると、視線に気がついたスーは不敵に笑った。立ち上がった彼女は私の手を取り軽やかに駆け出す。私たちの耳元でそれぞれの黄金のピアスが踊るように跳ねる。





 子どもの頃に持っていたあれこれは、(うしな)ったのではない。

 喪ったのではなく──。




 了

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