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winter(前編)

  ◇/サラン、現在


 もう随分と沢山のことを忘れてしまった。どんなに鮮烈で、重大な記憶さえも。

 忘れているから生きていけるのだろう。

 永遠などない、と私ははっきりと言い切れる。何かの絆が永遠に変わらないことなどあるだろうか。重なり重なる傷に、少しずつ諦念が入り込み熱意が薄れていく方が自然なのではないか。




     *




 今夏から、私は思いつく限り自分の記憶を呼び覚ませそうなあれこれを試みてきた。今まで記憶が微かにでも呼び覚まされた状況を書き並べてみたり、再現できるものは再現したり、もう一度その場所へ行ってみたり。

 けれど何を試しても記憶の(もや)は晴れてくれない。二、三度Y氏から近況を窺う連絡が来たりしたが、私はなにひとつ進展を報告できないでいた。


「私の作品は、無意識の記憶を反映していたりするのかしらね」

 Y氏は何かと私を気にかけてくれる。仕事に情も半分混じっているのか、彼は冷たい風のなか他の用事のついでだと言って訪ねてきてくれた。他愛なく呟いた私の言葉にY氏はああ、と唸る。

「記憶という観点で考えたことはなかったのですが、先生の作品を初めて拝読したとき、どこか浮世離れしているなと感じたんです。お気に障られたなら申し訳ありません」

「いいえ。でもどういうことでしょう」

「先生はこの現実世界とは微妙に違う、パラレルワールドのような設定を多く書かれますよね。主人公は十代の少年少女が多い。十代の記憶のない先生が十代の主人公を描かれる──でもそこに不自然さは全くない。それで、くだらない夢想なのですが」

 冗談です、と笑いながら前置きしてY氏は続ける。

「実は私は、先生は本当に現実世界から隔離されて過ごした経験がおありなのでは、と考えていたところがあります」

 突拍子もないその言葉に私も思わず笑ってしまったが、一瞬胸をちくりと刺された思いがした。

「先生が以前話された女学院の話も、あながち妄想ではないと思っています。私も調べてみたのですが、一般的な記録にはそういった施設の存在は出てきませんでした。でも、裏を返せば戦争ってそういうものですから。極秘情報やら隠蔽やら記録の抹消やら。とはいえ体験した個人の記憶は残ります。でも、年月が経てばそれもかなり朧げなものになってしまいます」

「記憶の中にしか存在しない歴史──」

「記録や記憶になくとも、なかったことにはなり得ません」

 忘れていても。

「事実は変わらないのだからそれでいいんじゃないでしょうかと、私はお伝えしようと思っていました。でも」

 迷いました──ほとんど溜息のような声を発してY氏は俯き、鞄の中を探り出した。

「先生が記憶を取り戻したいと仰られたとき、正直動揺しました。先生にずっとお知らせできずにいたことがあります。ご主人からの預かりものです」


 彼が鞄から物々しく取り出したのは、原稿を入れるのにいつも使う、見慣れた分厚い封筒だった。









  ◇◇/サラン、過去


 この静かな森で暮らしていると、今が戦時下だということをうっかり忘れてしまいそうになることがある。特にこの時期、雪が降る直前の森は神聖なほど(おごそ)かだ。寒さは厳しいけれど思考は研ぎ澄まされる。私は未だ自分の物語とスーの披露したダンスの素晴らしさを噛み締め、余韻に浸っていた。


 今まで私たちは世間から隔離されたように平和で恵まれた生活を享受していた。

 はじめこそ罪悪感を感じたけれどやがて慣れた。でも、その豊かさもひと月ほど前から急激に失われつつあるのを感じる。それははじめ食事のメニュー内容だとか、リネン類の交換頻度だとかに表れた。やがて立て続けに職員の離職、それに伴う予定変更、余裕のなさから来る苛立ちの空気へと波及していった。

 無秩序、混乱、雑駁(ざっぱく)。教師たちの顔にも次第に翳りが見えはじめる。戦況は思わしくないらしい。私は街にいる自分の家族のことが気掛かりで堪らなかった。


 ある日、私はふと食事の時によく言葉を交わしていた同級生の少女を何日か見ていないことに気がついた。不安になって見渡すと、大食堂に集う生徒の数が明らかに(まば)らになっている。

 どうして? いつから? 

 自分の鈍さに愕然としながら、私は暫し立ち尽くした。まさか。

 ──「連れて行かれた」?

 恐ろしさがぞっと私を包んだ。

 生活の余裕のなさ。教師たちの憔悴。悪化したであろう戦況。そしてその今になって数を増す、理由も知らされず去っていく少女たち。きっと全部繋がっている。どう考えても彼女たちのその先の、幸せな姿は想像しがたい。


 この学院には卒業生がいない。生徒の出入りは在校生に知らされることなく、いつの間にかどこからともなく少女がひとりふたり加わって生活を共にしいつの間にか誰かがいなくなっている……というのが常であったから、幾らか慣れているつもりだった。でも、これほどあからさまに幾人もの少女たちが居なくなることなどなかった。

 罰が下ったのだ、と思った。みんなが必死に生き繋いでいる時期に、こんなところで何の心配もなく遊び暮らしていたから。私も罰を受けるだろう。罪悪感に満たされ誰にともなく叱責されているようで、落ち着かない。


 スーの引き取り手が決まったことを知ったのはそんなときだった。


 私がそれをいち早く知れたのは幸運なことだった。レッスン中、トイレに立った際に事務室から漏れ聞こえた声に聞き耳をたてながら、私は怒りに燃えていた。

 ──来月にはあの子も。あの一番小さな子。

 ──まさか、だって……。あの子まだ九つでしょう。

 九つ、というところでスーのことを言っているのだと分かった。

 ──なりふり構っていられないんでしょ、みんな自分で精一杯で。可哀想だけれどあんなに高値がつく子はいないし、あちらから引き取り要望があれば学院長だって、ねえ。

 可哀想?

 連れて行かれる子は、可哀想と思われるような扱いをされるの?

 ──よりによってあんなにお偉いさんの目のある発表会の場で、あの子は特に目立ち過ぎてしまったから。


 突如、会話の繋がりが読み取れてしまった。何のために発表会があるのか。いやに物々しい来賓の正体は何であるのか。


 少女たちの間で根を張り絡みついていたうわさ。ある子はお金持ちに引き取られて養女になるらしいと語り、ある子はお偉い軍人さまの妻に無理矢理させられるらしいと語った。なかには学院長の言うことを素直に信じて、磨いた技能で女優や歌手になれると夢見ていた子もいた。いずれにせよ、私たちは幼かったのだ。もっと(むご)く、非人道的な少女たちの用い方があるのだとはよく理解していなかった。非人道的な目的のために、そういう少女を物色するために、そういう行為を許される立場の人にお披露目するためにあの発表会が用意されていたのだとしたら。

 最悪の形で踏み(にじ)られたと思った。スーがどんな想いであのダンスを披露したと思っているの。どうしてステージであんな風に輝いていたか知っているの。あれは他の誰もが介入を許されない、私とスーただふたりだけのものなのに。


 来月、私のスーが引き取られる。とびきりの高値で。そして〝可哀想な扱い〟をされる。


 耐えられなくなった。怒りで胸が熱くなったまま私は駆けた。心臓が激しく脈打って息が苦しい。

 「引き取られる」という言い方は正しくない。正確には「買い取られる」だ。本人たちの知らないところで、値段をつけられて。その先で少女たちがどんな扱いをされようと知ったことではない。でも多分、その少女たちから得たお金の一部で学院は潤い私も養われていたのだろう。あまりにも屈辱だった。

 私たちの価値は家畜商の動物たちと変わらないのか。動物よりもずっと複雑でずっと知能のある私たちなのに。違う。国全体がもう、個々の命を虫けらみたいに扱うような精神段階にまで進んでいる。それに慣れきって痛みすら感じない。そうでもしないと自分のほうが狂ってしまうから。


 何食わぬ顔でレッスン室に戻る。怒りに燃えてはいたけれど激情のまま行動してはならぬという分別は残っていた。スーを救うためには、注意深く行動しなければならない。スーだけではない。私も含めてここにいる少女たち全員が酷い扱いを受ける前に。


 逃げよう。

 そう思った。



     *



 作戦は雪が降る前に決行された。


 私達があからさまにそれと分かる反乱を起こしたら、脱出阻止は却って強化されてしまう。ではどうしたらそれが緩むか。私たちは暮らしに満ち足り逃げようなどと頭にもないと思わせること、外部要素からのトラブルによって職員自身の身が危ういと感じることによってだ。他人に構っていられなくなるような事態が不意に起きれば、大抵の人間は多方面に気が回らない。


 手始めに、私は寄宿舎の談話室で普段よく話す女の子たちに職員室で聞いた会話と自分の計画を伝えていった。〝スーを守ろう。私たちも売られる前に逃げよう。この話を他の子にも伝えてほしい。〟

 この方法でよく上手くいったとは思うが、短期間で話は職員たちに勘付かれることなく数十人いる少女たち全体に広まった。大人たちは甘く見ていたのかも知れないが、傷んだ心を撫で合って育んだ私たちの絆は強い。ひときわ幼いスーは皆の宝物だった。だから、私は自分のこの計画に誰もが賛同し、サポートしてくれるものと思い込んでいた。


 実際はそうではなかった。

 スーを守りたい。売られるのは怖い。その心は一致しているのだが、それでも自身は今日明日に売られるわけではない。ここにいた方がましだと、生活を変えるのを望まない少女たちが動揺を見せはじめたのだ。今思えば、急にこんな計画を持ち出されて動揺しない方が無理な話なのだが、そんなことすら考えもつかなかった。

 私は焦った。スーが連れて行かれるのは来月だ。こんなことで分断している場合ではないのに。

 慌てた私は強引にその子たちを励ました。彼女たちの事情など考えなかった。ここに残ったら後で絶対後悔する。逃げた方が絶対いい。そうやって急ごしらえの団結──表面上の団結を作り上げた。

 私の頭にあったのは私だけの正義感、あのダンスを利用された怒りとスーを守ることだけ。あのときどうしていたらよかったのか、今でも分からない。ただ、これだけは確実に言える。私は人を先導できるような器を持ち合わせてはいなかった。




 決行の日、私たちは普段通りを装い夕方まで過ごした。夕食どき、陽が沈む直前の時刻に職員含む学院にいるほぼ全員が大食堂に集まってくる。そろそろ始まる頃だ。

 全員が席につき食事を始めた辺りで、突如門衛の職員たちが何事か叫びながら大食堂に入ってきた。

「火事だ! かなり燃え広がっている!」

 少女たちは一斉にざわめき大パニックになる。その動揺が職員にも伝播し、教師たちは慌てふためきながらも「落ち着きなさい」と生徒たちを叱りつける。もちろん少女たちの混乱は意図的なパフォーマンスだ。門衛たちに気付かれやすい裏手の燃料庫に放火したのは私。スーは私の手をぎゅっと握り、もう片方の手でポケットに忍ばせたピアスの箱を握りしめた。


〝パニックを起こすの〟


 作戦共有のとき、私は皆にそう伝えていた。パニックを起こして、移動手段と通信手段を断つこと。電話線は係の子が切ってくれているはずだ。そうするだけでここは簡単に陸の孤島になる。逃げもできず外からの助けも呼べない状態にして、職員が自分たちで消火活動に当たるしかない状況に追い込む。その有耶無耶に乗じて門を破壊し、私たちはそこから逃げる。敷地内に一台だけある職員用自動車の鍵の保管方法は職員室の壁に引っ掛けてあるだけという杜撰なものだった。運転技術を持たない私たちがこれを脱出手段として使うには無理があるけれど、門にぶつけて破壊するくらいなら出来るだろう。

 皆がざわめいている間に建物全体の電気系統が計画通り落とされる。一層薄暗くなったのを合図に、私たちは堰を切ったように叫び出して方々に駆け出した。


 繋いだスーの小さな手がひんやりと冷たい。怯えた彼女は終始無言だった。スーを連れた私は薄暗がりのなか駆けて駆けて、脱出口である門の前まで辿り着いた。

 騒ぎの間に門は無事に破壊できたようだった。手はず通りここに到着できた少女たちからひとり、またひとりと外の森に飛び出していく。

 私たちも続こうとするとそばに立っていた女の子に止められた。何事かと振り返ると、一台の自転車をスーと私に差し出す。全員分はない、貴重な移動手段だ。

「スーを守って」

 私が戸惑っていると、その子はちょっと強気な笑顔で私にハンドルを握らせる。

「逃げ切って、私たちの宝物をご両親に引き渡して」

 スーが涙を堪えるように唇を内側に巻き込んだ。瞬間、身体の内側に伝えたい言葉が満ちて巡る。けれど迷っている時間はないのだった。私は思い切りその子に抱きついて涙を隠す。急いでスーを後ろへ乗せて、サドルに跨がりペダルを踏み締める。途端に景色がぐんと流れた。森を切り拓いただけの舗装されていない道へ車輪を滑らせ足を踏みしめ、私たちは逃げた。


 走る。走る。吐くたびに白くなる息が、熱かった。

 吸って。吐いて。吸って。吐いて。


 夢中で走る薄暗い森の景色はただぐにゃぐにゃと、柔らかなぼかしがかかっていて夢の中みたいにピントが合わない。

 もうすぐ陽が沈む。その前に森を抜ける。皆無事に学院から出られただろうか。



 そのいっとき、老木が倒れてできたらしい隙間から真っ赤な夕焼けを見た。








 後に私は、あの時の放火で建物の半分以上が消失し学院は閉鎖したと人伝に聞いた。その後すぐに終戦。逃げきれなかった子も、孤児になった子も、亡くなった子もいたという。

 私が殺したのだ。

 あんなに強引に推し進めた私の脱走計画にみんな協力してくれて。仲間に犯罪めいたこともさせて。なのに誰も守りきれない。私は無能で身勝手な煽動者だ。そして、スーのことまで。


 ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。


 けれど、あの日自転車の背中にスーを乗せ、夕陽を浴びながら走っていた私は無責任に幸せだった。


 幸せは、浴びる感覚。保存はできない。

 幸せにはなぜ切なさが微量に混じるのだろう。いつか失ってしまうのではないかという気持ちから来る正体不明の恐れのせいか。






 あのとき私は、保護も保存もできない幸せをただ浴びていた。

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