summer
◇◇/サラン、過去
霖雨が続き、寒さと暑さが行きつ戻りつ繰り返され、そうこうしているうちに気温は上がり樹々の緑が濃くなってくる。揺らめいて揺らめいて夏になる。
夏は待ちに待った季節だ。
どこかしら陰っていた森が鬱屈さを和らげ、唯一明るくなる季節。森の中の夏は濃く短いのだと知った。高原の別荘地のようなここは、暑さはあるが不快というほどではない。樹々の葉は揺れ、風は乾いて清涼だった。汗はすぐにその風で引いた。
開け放たれたこの窓越しからでも、風や木漏れ日は存分に感じ取ることができる。レッスン室でストレッチしているのは二十名ほど。私の隣で開脚屈伸をしているスーは、不自然な体勢も無理なくこなす。彼女の長い髪を頭の天辺でゆるくシニヨンに纏めたのは、私だ。
スーの頬は色も質感も白桃のようにふくらかで、覆っている細やかな産毛が光を受けてきらめいている。産毛は耳までも続き、その先にごく小さなピアス穴が開いている。視線に気がついたスーは不敵に笑った。
スーの家系ではピアス穴は幼い頃から開けられるのが慣わしだったらしい。彼女の母親もその母親も皆そうされてきたそうで、代々受け継がれている耳用の宝飾類を装着するためだとか。異民族の寄せ集めでできたようなこの国では、隣人でさえ有している文化が驚くほどに違う。
ここに入学する際、スーは通常なら娘が結婚するタイミングで引き継ぐその耳飾りを母親から譲り受けたのだそうだ。つまり、国営第一女学院に入学するというのはそういうことなのだった。
強制入学させられて、初めのうちは何も分からない状態の少女たちも数日すると置かれた状況を悟るようになる。高い石垣と門衛で厳重に囲われたここは一度入ったら自分の意志では出ることができない場所であること。運命だと受け入れてどこかに〝呼ばれる〟までここで暮らすほかないこと。その先で待っているのは何であるのか──肝心な部分は知らされず、不確かに飛び交ううわさから推測するしかない。要はこの学院は緩やかな監禁の園だった。学園の目的や存在さえも一般の国民からは匿秘されているのだと知ったのは、ずっと後のことだ。
諸々のショックと悲しみを癒すのが、主に寄宿舎で共同生活を営むルームメイトたちで、その種の絆は女学院の生徒全員をうっすらと繋いでいた。同じ傷を共有している、その想いが失った家族の穴を埋める代替の家族のようなものを形成して、少女たちは不思議と学院に馴染んでいくのだった。
昨年は熱心にバレエのレッスンを受けていた私だが、次第に回数を減らしていき、今年はほとんど参加していなかった。私に向いているのはもっと静かで確固とした表現方法ではないかと思えたのだ。幼い頃から活字に惹かれていた私は、その頃から文章で自分を表現することを覚えていった。
一方のスーは私なしでレッスンを受けるのにもすっかり慣れたようで、このところは各々の得意分野に没頭していた。
それぞれのことに夢中になっていても、私は毎朝スーの髪を編む。夕方、水浴びをして大食堂で食事と休憩をした後、それぞれの部屋に帰って休む。ベッドでスーと他愛のない話をしながら眠りに就くのもまた、日課のひとつだった。昨年も今年も、変わらずそうした。
◇/サラン、現在
今の私から見れば、年幼く純粋な少年少女らは〝透明たち〟と表現するのが相応しい。
こんなに暑いのにそれをものともせず、通り向こうの公園で汗を光らせ駆けている子どもたちの様子が見える。どうしてあんなに元気なのだろう。一瞬、緑濃い森の中で駆ける長い髪の少女の残像がよぎった。
ドレッサーの一番上の小さな抽斗を開けて、手前の華奢なピアスを装着する。ゴールドのスイングする細いバーが二連になっている珍しいデザインだ。ずっと昔から持っているものだけれど、ひとつは紛失してしまったのか右耳分しかない。記憶はうっすらとこれがとても大切な品なのだと指摘するように感じるのだけれど、思い出せない。
記憶を取り戻したいという思いは、夫が亡くなって以降殊に強くなっている。ひとりきりの生活で自分にフォーカスが当たるようになったから、伴侶の死を目の当たりにして死と自分との隔たりがぐんと距離を縮めたように感じたから……だろうか。謎を謎のまま終わらせてしまうのは、いけない。
身だしなみを整えたのは来客があるためだ。昼過ぎに担当編集のY氏が訪ねてくる。長年作家として活動していた私だけれど、このタイミングで話しておきたいことがあった。
*
「夏が苦手なんです」
すぐに体調を崩してしまって──アイスコーヒーを出しつつ世間話のつもりで発した私の言葉に、Y氏は顔を上げて深刻げに眉間の皺を深めた。
「……それはいけませんね」独特の間を空けてY氏は続ける。
「次回作はゆっくり進めていきましょう。お体に障るといけませんから」
「そのことなんですが」
私は心ともなく右耳のピアスに手を伸ばす。触れた途端、静かに揺らいだ。
「記憶が」
「記憶?」
彼は私の唐突な切り出し方に戸惑ったようだった。
「実を言うと私、二十歳辺りから前の記憶がないんです──」
──主婦でありながら作家を続けることを夫が許してくれたのは、時代を鑑みるに随分と寛大なことであったように思う。というより、夫は作家としての私を好ましいと思っている節があったのか。
ぽつぽつと思い出せる私の記憶は二十代から始まる。その日稼ぎの暮らしから抜け出し、やっと生活が落ち着いてきた頃。それ以前の記憶は夢のように靄がかかってはっきりしない。記憶を失うほどだ。おそらく酷い思いをしてきたに違いないが、思い出せないからこそ私の心は守られているのだろう。生活が安定したのは夫と結婚したからで、彼といつどうやって知り合ったのかすら私は覚えていない。夫によると、当時の私は過去の記憶を忘れてはいなかったらしいけれど、どの時点で忘却したか。私の保持している過去は、作家としての日々、夫との穏やかな暮らし……どれだけ遡ってもそればかりだ。
彼に私の過去をどんなに尋ねても、「君は知らなくていい」の一点張りだった。そうしてとうとう、その秘密を墓場にまで持って行ってしまった。
「──でも思い出したいんです、私は」
窓の外に向けていた視線を戻すと、曇った表情のY氏と目が合った。先生──彼は口を開く。
「先生はさきほど〝忘れているからこそ心が守られている〟と仰っていましたが、それはその通りなのだと思います。ご主人が先生に決して語られなかった理由もおそらくそこにある。先生のお若かった時代を考えると……あの頃は戦時下でしたから。相当惨い、トラウマになるような……。いえ、トラウマの結果記憶が乖離している、と言ったほうが良いのかも知れませんが。それでも──思い出したいのですか」
Y氏の危惧は尤もだった。確かに客観的に考えればそうなのだろうけれど。
私には生家の記憶すらない。その心許なさといったらない。苦しまないで済むとしても忘れているのが幸せだとは限らない。それに何より、早くあの女の子を。
〝スー〟を。
「それでも、思い出したいんです……」
思い出してと、あの子が言っているから。
Y氏は唸った。
「だとしても、私には賛同し難い話です」
アイスコーヒーのグラスの水滴が流れ、氷がカラリと音を立てた。それを合図にY氏はやっとグラスに口をつける。
「──昔」
森の奥に隔離された女学院があったなんていう話を耳にされたことはありませんか、何の脈絡もなく、ついと私の口をついて言葉が出た。
「いいえ。そういった記憶が? 」
分からないの、ほんの断片が浮かび上がるだけだから──振った頭に合わせてピアスのスイングが混沌として揺れた。
「私の思い出したい記憶というのは、その頃のものなのかも知れません。ふと、そう思って」
戦時中のあのごたごたで、悪いことも怪しいことも皆有耶無耶になってしまった。その有耶無耶に紛れて助かった人は幾人もいて、他でもない私もその一人なのだった。身元がはっきりしない私がこうして日の当たる場所にいられるのは、きちんとしていない世界に紛れて騙し騙し通り抜けて来られたから。
「その、ごめんなさい。話を戻しますと」
居心地が悪くなった私は無為に座りなおす。
「しばらく記憶を取り戻すことに注力したいと、それを基にして次回作に繋げられるかも知れないと、お伝えしたかったのですけれど……。Yさんにご心配をおかけしてしまいましたね」
私の言葉も耳に入っていないかのようにY氏は長らく考え込んでいた。「お時間のことは構いません。構いませんが──」
でも、こちらがどうお答えしようと先生のなさることはきっと変わらないんでしょう、最終的にY氏はそう言って苦笑した。
*
人に話したことで、覚悟が定まった気がする。Y氏とは少なくとも十数年並走してきた仲だ。最終的に彼は後ろ盾になってくれるだろう。
自分の中の暗さと明るさの差異がひどく眩しくてくらくらする。惨憺とした記憶に混じる、強烈に幸福な記憶。そのどちらもが身体を駆け巡っているような。ゆえに眠れぬ熱帯夜である。昼間思い出しかけた森の中の女学院について調べてみるが、目ぼしい情報は出てこない。電子機器の明かりは白過ぎて目の奥が痛い。
あなたがいないことで私の鎮痛効果は終了したのです、時々そんなことを思う。
本当は私はずっと痛かったのだ。その痛みを長年和らげてくれていたのは夫で、その夫も居なくなって。
今になって。
夏は苦手だ。いつからだったか。擦った瞼がやわらかい。
目の奥の痛みは消えなかった。