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spring


 子どもの頃に持っていたあれこれは、(うしな)ったのではない。

 喪ったのではなく、鈍ったのだ。






  ◇/サラン、現在


 耳朶(みみたぶ)を飾った金色のピアスは、歩くたびに周辺の気流を僅かに変化させる。耳元でうねる風の音は心地よく、煩わしいとは思わなかった。

 ときおり日用品を買いに外出することはあっても、楽しみのために着飾って出掛けるということは、近ごろめっきりなくなっていた。夫を亡くして二年になるから、ひとりでの生活自体にはもう随分と慣れてきている。ただ、複数人だからこそハードルの下がるイベント──お洒落をして映画を観に行きましょうとか、ちょっといいお食事に行きましょうとか──にはめっきり足が遠のいていた。幾ら家とその周辺で暮らしが立ち行くといってもこれは良くない。今月七十六になる私は外から内から刺激を与えないとあらゆるものが鈍麻してゆくばかりである。それで、今朝思い立って明るい色のワンピースを引っ張り出し袖を通してみた。ヘアメイクを施しピアスを付けて、勢いのままこうして街へ繰り出して来たわけである。

 私の若い頃と、この街は随分と変わった。明るく瀟洒(しょうしゃ)で、すべてが整然としていて。

 着たきりのぼろでその日の暮らしに精一杯だったあのときの私は、同じく埃と混沌にまみれたあの街でこそ紛れて生き延びられたのかも知れない。そういう時代だったのだ。誰もが貧しく、誰もがさもしくならざるを得なかった混乱の戦後。私のような孤児だって珍しくも何ともなかった。今の街はもう、後ろ暗いところはどこにもない。

 歩き疲れて立ち寄ったカフェでテラス席を選ぶ。街中ではあるけれどそこまで騒々しくはなく、目の前のささやかな広場には小さな子ども達が駆け回って遊んでいた。コーヒーを楽しみつつ眺めているうち、一人の女の子に目が留まる。なにやら作業に熱中しているらしい彼女は、細くて柔らかそうな猫っ毛をひとつのおさげに編んでいた。


 唐突に、私の内側に衝撃が走った。

 〝スー〟。


 私のスーを捜さなくては。夢の中で焦るときのように心がふためいて思わず立ち上がり、やがて脱力して座り込んだ。


 ときおり、何かのきっかけで少女時代の記憶の断片が思い出されることがある。けれど、どれもがほんの一瞬火花のようにチカッと光るばかりで全体像が掴めない。これは昔からそうで、私は十代までの記憶のほとんどが欠落している状態で半生を過ごしてきた。

 ただ、「スー」という名を持つらしい幼い少女の面影だけ、不意に奥底に眠った記憶から湧き上がることがある。断片といえどこれだけ何度も思い出すのだから、私にとってかけがえのない存在だったに違いない。なのに思い出せない。思い出せないことが悲しい。


 私はどこかへ行かなければならない。そして見つけなければならない。焦りにも似たその衝動は今に至るまで、ずっと私を急かし続けていた。





 

 ◇◇/サラン、過去


 大抵の女の子は蝶々結びの結び方を覚えるのと同じ年頃に、三つ編みの編み方を覚える。

 七歳のスーがここに入ってきたのは昨年のことだから、彼女には親から自然と学びとるような基礎的な技術すら持ち合わせていないところがあった。髪を編むのもそのひとつで、スーの細くて長い髪の毛を編んでやるのが十三の私の日課だった。飲み込みの早いスーはやがて自分でも難なく編めるようになったけれど、彼女は甘えるように私に「頭の真後ろでひとつに編んでほしい」とねだるのが常だった。同室だったこともあってか、スーは私に特段懐いていたように思う。


 国営第一女学院。それがこの施設の名前だった。森の奥深くにひっそりと佇むその学院に、誰もが入れるわけではない。そうして、誰もが望んでここに入ったわけでもなかった。大抵の少女は本人の知らぬところで選別されて、十歳前後で強制的に連れてこられる。

 私も十歳までは周りと同じように地元の学校に通っていたのだが、ある日担任の教師に呼び出され、誇らしげな校長と両親の集まる部屋で簡素な別れの挨拶と激励の言葉を掛けられたのち、有無を言わさず送り出された。突然の変化を受け入れられず、入学してしばらくは泣いて過ごした。両親が私を送り出したのは身の安全と福祉を保証されたからだとは聞いていたのだが。確かにここでは爆撃や飢えに怯えることはない。それでも大人たちに裏切られたような私の傷つきはずっと消えなかった。ここにいる他の子達も似たり寄ったりな状況だったらしい。白羽の矢が立てられ、国営第一女学院の生徒の一員になるのは家族にとっても学校にとっても名誉なことらしかった。何も知らないのは連れてこられた少女たちだけだった。知らないことで却って想像力は逞しくなる。そして各々の考察を囁き合ううち、うわさになる。学院内には夢見がちなものから恐ろしげなものまで、さまざまなうわさが根を張り絡み付いていた。


 「ねえ!」

 まだ編んでいる最中だというのに、スーが頭を勢いよく振り向けて話しかけようとした。私はそれを制する。向き直って鏡に映りこんだスーの目線は、それでも背後の私を追っている。

「今日もサランのレッスンについて行っちゃだめ?」

 スーは私のレッスンによくついて行きたがる。フィジカル系のレッスンは年齢に関係なく皆が自由に受けることができるのだ。私はバレエのレッスンを選択していたが、主体である私より懐いてくっ付いてきたスーの方がずっと筋がありそうだ。承諾すると、スーは思わず飛び跳ねそうになって慌てて止める仕草をした。


 私の生家は貧しかった。父は季節労働者で収入は安定せず、おまけに弟や妹がいたから私はいつも下の子たちの世話に明け暮れていた。戦争のせいで段々と物資が不足するようになって、暮らしはさらに苦しくなったけれど、それでも家族でいれば私は幸せだった。

 ひどく大人びた容姿のスーだが、彼女の中身は年相応の七歳だった。私がスーにあれこれ構ったのは彼女が妹のようで放って置けなかったから。外界の情報が遮断され、家族との連絡すら禁じられているここで味方がいなければ、まだ幼いスーにとっては相当なダメージに繋がってしまうだろう。

 この年齢で連れてこられる少女は異例だという。その理由も分かる気がする。スーの美しさは圧倒的に群を抜いていた。

 この学院に集められる基準というのは、ある子は容姿の麗しさ、またある子は一定以上の才能などそれぞれである。その少女たちの魅力をさらに際立たせるためにきめ細やかな教育を施し、幼い頃から外見も技能も洗練された華やかな才女を産出する──というのがこの学院の目的なのだと、表向きの理由を学院長は度々説明した。


 スーの美貌は整い過ぎていて、愛らしいというよりも神々しさ、恐ろしさすら感じさせるものだった。この年齢でこれほどまでの美貌を有していれば、どこへ行くにも目立って浮いて、異質になってしまう。完璧過ぎて「かわいい女の子」の枠に収まらないのだ。美女をそのまま小さくしたような見た目のスーは、人目のつかない森の奥深くのこの学院に保護されていた方が、却って安全なのかも知れなかった。



 おかしな話だ。日々の食事もままならない、生きるのにやっとのこの時代に、私たちは不自然に過保護に、この森の中で丁重に守られていた。



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