邂逅
「ぷはー、食った食った。もう食べられん。」
大きなげっぷと共に武の野太い声がリビングに響いた。そんな彼を少し眉をひそめて見つめる視線がいくつか、苦笑いしながら見つめる視線が大半だった。朝ごはん抜きでも、昼ごはんをあんなに食べてたらそりゃ、腹も膨れるだろうとは思うけどね。でも、
「下品だな。」
思わず言葉が漏れた。思ったよりも低い声が出たな。
「あ、すいません。」
怒られたのかと思ったのか、武がすぐに謝ってくる。そして、固まったまま何の反応も返さない俺に戸惑ったのか、
「あの、九条先輩?」
と恐る恐るといった感じで武が俺の顔を見ながら声をかけてくる。
「ああ、すまない。次から気を付けてくれればいいよ。」
「はい、分かりました。」
なんか、意図せずに俺が怒ったみたいな雰囲気が流れて空気が少し重くなった。いや、別に怒ってなんかいないんだけどさ。何となく居心地が悪くなって、食べ終わった皿をメタトロンの分も含めて片づけた。あの天使はいっつも食べるだけ食べたら俺の中に帰っていくからな。さっきまで焼きそばをすすってたはずなのに、気が付いたらいなくなってるし。
台所で使ったフライパンとかを洗っていると、後ろから声をかけられた。
「守ちゃん。さっきはどうしたの。今日は機嫌が悪いの?」
「……守ちゃんはやめてください、愛梨先輩。」
振り返ると、台所の入り口で壁に寄りかかっている愛梨の姿があった。フライパンについた洗剤を水で洗い流しながら返答すると、
「ほら、なんかあったなら先輩に相談してみなさいな。アドバイスくらいならしてあげるからさ。」
「何もありませんよ。……ただ、あんなことを言った自分に驚いているだけです。普段ならあんなこと言わないはずなんですけどね。」
そう、あの思わずこぼれた言葉に一番驚いていたのは俺だったのだ。みんなも少なからず驚いていたようだったけどね。
「ふーん。あんまりああいうこと言わないんだ?」
「……何が言いたいんですか?」
「いやーね。守ちゃんのことを測りかねているっていうかさ。君はどっちなんだろうね?私達と同類なのかな?それとも正反対なのかな?」
俺の目をまっすぐ見ながらそんなことを聞いてくる。おどけているようで、その目は嘘は見逃さないといわんばかりに俺のことを見ていた。
「どっちなんでしょうね?そもそも、先輩がどうなのかを俺は知りませんよ。」
使った調理道具を食器用の乾燥機に入れながら、その質問に答えた。
「そりゃそうだ。忘れてくれていいよ。」
そう言い残すと愛梨は去っていった。……まったく愛梨といい一誠といい、一体何なんだ?俺のことを試そうとしているのか?まあ、どうでもいいけど。
リビングに戻ると、未来と希しかいなかった。あれ?どっか行っちゃったか?
「あれ?皆はどっか行ったの?」
「あ、守君。お昼ごはんごちそうさまでした。えっと、皆さんはもう一回修練場尾に行ってくるそうです。」
あー、修練場か。俺ももう一回行こっかな。九三郎にも会えるし、もしかしたらあの老人から続きの話を聞けるかもしれないし。
「そこで少し相談したいことがあるんですが、そろそろ学園祭について話し合いしときません?確か来週あたりに最初の提出期限があったはずですが。」
「ああ、そういえばそうだったな。……いいよ。じゃあどっかの喫茶店とかでもいいか?」
「はい。適当に駅の近くで探しましょう。ここですると迷惑になりますし。」
「分かった。」
手早く荷物をまとめて立ち上がると、意外なことに未来が玄関まで見送りに来てくれた。
「……いつでも来てくれていい。カギは空いてるから。ごはんも持ってきてくれると嬉しい。」
「分かった分かった。今度はカレーとかにしようか。」
「あ、カレーなら私も手伝えますよ。チキンカレーとかいいですよね。」
「チキンカレーか。ならトマト缶も買っておかないとな。……ま、明日か明後日にまた来るよ。」
「お邪魔しました。」
未来に見送られながら家から出ると、平日の昼間なのに人がたくさん歩いていた。しかも学生っぽい人が多いな。……ああ、そう言えばもう夏休みだったか。そうか、学生っていうのは休みになると集団でどっかに出かけるものなんだな。俺にはさっぱりわからんが。……それにしても多いな。駅の中はそんなもんだろうって思ってたけど、外でも多いのか。
「守君はこれまでで渋谷に来たことありますか?」
若干人波に酔いそうになっている俺に知ってか知らずか、希が声をかけてきてくれた。でも、その質問の答えって決まってるんだよな。
「ないね。正直必要にならない限り来ることはないと思っているよ。」
「私もです。……せっかくですし、少し見て回りません?また迷子になったら困るでしょう?」
……そうだな。これからここに多分通う感じになると思うし、知っておいた方がいいか。昨日みたいに迷子になって時間停止とか冗談にならないからな。
「そうしようか。三十分くらい歩き回ればここら辺の地理も何となく頭に入るだろうしね。」
渋谷駅を歩き回ること早十分。俺はもう歩くのに疲れてしまっていた。……いや、人をよけて歩くのが思った以上に大変なんだよ。
まず、スクランブル交差点ってなんだよ。なんで人があんなたくさんの方向から歩いてくるんだよ。前から来る人の数も半端ないのに斜め前からも来るとか、初心者には難易度高すぎだろ。
その後一回駅の中に入ったんだけどさ、そこもまた地獄。端っこの方では人を待っているのか、たくさんの人がスマホを見ながら立っているせいで普段歩いてる壁際を歩けなかったし、真ん中の方は突然立ち止まったりする人がいるし。その突然動きを変える人は大半が片手にスマホを持っていたし。そんなん見ながらじゃ視界が狭くなるに決まっているだろ。
そして今、そのスクランブル交差点の近くの陰で休んでいます。
「だ、大丈夫ですか?顔色悪いですが。あの喫茶店に入りましょうか?」
「……ああ、そうしよう。熱中症とかじゃないけど、普通に疲れた……。」
希に言われて見つけた交差点の向かい側にある喫茶店に向かって歩き出そうとした。その時、希じゃない誰かに声をかけられた。聞き覚えのあるような、ないような……、そんな声で。
「……すいません。聞きたいことがあるんですが、今いいでしょうか?」
その声の主はパーカーのフードを深くかぶり、うつむいたような感じで立っていた。背格好は周りにいる学生と大差ない感じだから学生だろうけど、その声には生気というものが感じられなかった。どこか疲労感MAXとかっていうかんじでもなく、ただやりたくないことを渋々やらされているような感じの少し低い声だった。
「なんでしょうか?私達もここに来るのは初めてなので質問に答えられるかは分かりませんが、それでもよろしければどうぞ。」
希が彼?に話を促すように返答すると、その彼の肩がピクリと揺れた。
「……え?その声、まさか……。いや、そんなはずはない。
えっとですね。多分聞き覚えがあると思うんですが、
メタトロンや、ウリエルといった名前を知っていますか?」
その彼の口から放たれた質問に俺と希の体が一瞬不自然に硬直した。なんでその名前を?天使について聞きたいのか?だったら、ミカエルとかルシファーとかの名前が出てくるはずだよな。だとしたら、こいつは俺たちのことを少なからず知っている。少なくとも、二人の天使の依り代であることぐらいは。いや、もしかしたらこいつは……。
「メタトロンにウリエル、ですか?確か天使の名前ですよね?でもそれが一体どうかしたんですか?」
「そうですよね。では、そんな二人に会った事はありますか?」
冷静に返答した希に対して、顔も見えない少年はくぐもった声で質問を繰り返してきた。
「はあ。会った事ですか?ないと思いますけど。守君はどうですか?」
「俺もないけどな。質問の意図は分らんが、会った事があるかどうか、って聞かれたら当然あったことはない。」
努めて平坦な声で返した。もし、俺の想像があっているとしたら、こいつには情報をできる限り与えない方がいい。ああ、そうだ。一応メタトロン経由で他の天使にも知らせておいてもらわないと。
『メタトロン。まずい事態かもしれない。他の天使達に、特にルシファーとミカエルに連絡頼む。』
『もうやってます!まずいですよ、守。今あなたの前にいるのは、紛れもなく――。』
メタトロンに情報共有を頼んだその時、その深くかぶられたフードの奥から視線が向けられた。そして俺たちと視線があった時、その少年の体が大きく揺れた。
「……守君?……まさか、九条君?それに隣にいるのは……ああ、嘘だ。レヴィアタン、嘘なんだろう?別に彼らは人類の敵なんかじゃないだろう!?」
そして突然そんなことを大声で叫びだした。同時に周囲の景色から色が失われていき、灰色の、モノクロの世界に変わった。世界から動きが失われ、流れていたはずの時間が止まった。
その世界の中で動けるのは天使とその依り代だけ。そう、そのはず。でも俺たちの前には
「ありえない。ありえない。確かにこの世界で動いているんだ、彼らは依り代なんだろう。でも、なんで彼らが人類を滅ぼそうとしなくちゃいけないんだ?その理由がないじゃないか!」
狂ったように頭を掻きながら、大声を上げている少年の姿があった。停止空間で動けている、俺たちのしらない誰か。それなのに俺たちのことを知っている。……いや、もしかして彼は
「そうか、思い出した。眼鏡少年。……いや、松下君。」
「っ!まさか、松下啓二君、ですか?」
え?希とも知り合いなのか?さっきまで名前を憶えられていなかった俺とは違って結構前から知ってそうだな。……あれ?おかしいな。彼の名前を全く憶えられていなかったのに、今ではしっかり定着している……?どういうことだ?人の名前なんてまったく覚えられなかったのに、なんでこんなに頭に簡単に吐いてきたんだ?
「ああ、すまない。本当にすまない。僕がどうしようもなくふがいないばかりに。また、君たちに迷惑をかけてしまう。九条君、新井さん。本当にすまない。どうか、……」
――逃げてくれ。
その松下君の言葉は、突然俺たちの足元にできた闇色の魔法陣が起動した時の不快な音でかき消されてしまったが、口の動きから何を言っているのかが分かった。その魔法陣が起動した際に、魔法陣から風が周囲に向かって強く吹き、その拍子にフードが完全に外れて松下君の顔が見えた。
目から涙を流し、その目の下はクマで真っ黒だった。そして、その瞳は少しだけ赤みがかっているように見えた。
直後、魔法陣から闇色の光が漏れ、俺たちを包み込んだ。
視界が一瞬真っ暗に染まり、それが晴れてくるとそこは裏世界のどこかだった。でもそこには見たことがない魔法陣が上空に浮かんでいて、薄緑の光を発していた。
「ふふ、ようこそ地獄へ。よくやったな、あたしのコマ。」
不意にどこかからか声がして、慌てて声がした方を見た。すると、そこには焦げたような色の翼を背負い、頭上に黒みがかった緑色の光輪を浮かべている悪魔がいた。その瞳に赤い光を怪しく灯しながら、その口から牙をのぞかせた。
「あたしは最上位魔性が一人、嫉妬の名を冠する悪魔であるレヴィアタン。遠い神代にて、嫉妬の炎であまねくすべてのものを焼き尽くさんとした大悪魔だ。」
体の大きさはメタトロン以外の天使とほとんど同じだけど、その身から放たれる威圧感は中位魔性の比ではない。女性的な見た目をしているが、その顔には酷薄な笑みを張り付けている。
「さあ、お前達を殺して、人類救済の一助としようじゃないか。」
そう言うと、レヴィアタンは俺たちめがけて突進してきた。
次回、28までに更新します。




