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西沢渓谷歩行

作者: 長光一寛

西沢溪谷歩行(1997年6月28日)          

                            報告者  長光一寛


今回の計画は当初山梨県乾徳山に登ることにあった。6月24日夕刻に丸ノ内の東宝ディンドンで行われた山烹会例会に集った石田、山本、本多、向山、長光はその週末の28日に乾徳山(2016m)を登ることを急遽決定した。石田氏の車で登山口までアプローチすることとなり従って定員が5名に限定された。向山氏はしばらく前にポリープ切除手術を終えたばかりで用心のため参加を辞退したのであと一名の空席ができた。しかし計画が急であったのと、あと一名を選ぶわけにもゆかず、今回は計画立案者以外の山友には勧誘をせず4名のパーティで入山することとなった。また時間的タイトさの故、山中での鍋料理も省略されることとなった。


さて、登山前夜の予報で台風8号が本州を串刺しにするコースをとってこちらに接近していることが報じられ、我々は登攀のタイミングを見極める必要があった。パーティが強風の中を艱難辛苦の後に頂上に登り詰めたときに折よく8号の目も乾徳山に至るなら、我々はその目を借りることにより、すべての登山家の夢の夢でありオリンポス山の神々にしか許されない遥かなる静寂至高の展望をかいま見ることが期待できた。しかし一方、我々がこの強力な台風の目に一歩でも遅れをとるか一歩でも早まって山頂に至るなら、暴風は我々を山頂よりほこりのように吹き飛ばして風葬することであろう。


28日朝9時前に塩山駅に4人は集合した。その頃より雨がぽつぽつ降り始めていた。ぼくはリーダー格の石田、山本両氏に乾徳山登攀是非の判断を任せたが、結局両氏は危険を避けて秩父奥多摩国立公園の西沢溪谷を歩行することに計画を変更した。溪谷であれば台風の影響が少ないからだ。


ぼくらは石田氏の車で笛吹川沿いの道路を登る。途中、乾徳山登山口を通過した後、山本氏の推奨する猪豚料理屋の位置を確認し、帰りにここに寄ることとした。彼はすでにここを4度訪れ、猪と豚の合の子の肉料理を堪能している。車がさらに行くと石を積み上げて構築した珍しい堤防を有した広瀬ダムが左に見えてくる。このダムは笛吹川をせき止めたもので、ここにも水底に沈んだ集落があるという。やがて西沢溪谷入口に至る。ここの無料駐車場に車を残して歩行開始。雨のためぼくはポンチョを着た。


溪谷を望みながら緩やかな登り道を行く。やがて車の進入を阻止する塞門があってここを抜けて進むと西沢溪谷への分岐点に至る。ここにはトイレと管理者室がありこれらが高い屋根で連結され、その間が空き地になっている。この先にはトイレはないという。ここから右の道に行って左の道からここに戻ってくるのが正規のルートで、その一方通行が規則である。その頃から雨足がしげくなった。この雨は一日中降ったり止んだりを繰り返すこととなる。


西沢溪谷に行くことに計画が変更になったときから本多氏は老父のことを考えていた。彼の父は登山や山間歩行をこよなく愛し、特にこの西沢溪谷には傾倒し、息子にも推奨した。しかしなぜか自分では息子を山に連れて行こうとはしなかった。本多少年が日曜日の朝に目が覚めると父親の姿がない。「パパはどうしたの」と聞くと、いつも母親は困ったような顔をして「パパはお友達と山に登りに行ったのよ」と答えた。こうして彼の幼な心に山はパパを奪うものという否定的イメージが育っていった。このことが彼に山と父に対する解け難い不審を抱かせ、彼を久しく山から遠ざけてきた。そして自分自身は、自分の子供らにはそんな思いをさせまいと、幼い時分はけっして子供をなおざりにして休日に「お友達」などと過ごすことはなかった。そして今回彼は父の愛した、父を彼から奪い続けたと同時にその父さえも彼に勧めた西沢溪谷に足を踏み入れたのだ。それは例えば父の遺言状を読む厳粛な心持ちというものであったろうか、それとも父を魅惑し続けてきた愛人の美しさに直面してやっと父を許す気持になれたというものであったろうか?


ぼくは台風の中の登山を想定し、強風による落下物から頭を守るためにヘルメットをかぶった。これはアメリカに出張したときに購入したシンシナティ・レッヅのプラスティック製の赤ヘルだ。すでに北海道、宮古島、信州、その他の各地でサイクリストあるいは山スキーヤーとしてのぼくの頭蓋を防御してきた。そればかりでなく腰掛けや枕にもなり、頂部の穴をテープ等で塞げば桶にもなり、重宝したしろものだ。頭髪の薄いぼくにとってはアウトドア・ライフにおいて全天候型帽子は有用だ。


さて、梅雨のせいで最近の降水量が多いばかりでなく、現在も降雨中であるため、西沢溪谷を流れる沢の水量は豊富で、その速い流れは文字通り鉄砲水であった。千差万別の形状の岩を越えて行く勢いある水流は都会の通勤時の人の流れを思い起こさせる。しかしこの水にしても自らの意志で急いでいるのではないのだ、重力に引かれ、後ろから来るものに押されて弾みをつけられているのだ。ふと目を転じて淀みをうかがうと、ほとんど静止した水もある。そしてその水とて自らの選択でそこに至ったのではあるまい。


あるところで流木が歩道に乗り上げており、そこの手すりのための金属製杭はいくつもなぎ倒されていた。したがって、ここでは流れが急なときは運が悪いと命を落とすことがあるわけだ。


「人面洞」、「ふぐの岩」、「ウナギの床」、「カエル岩」等の奇岩を紹介する立て札があると、ぼくらはそこで立ち止ってどれがどうしてどうなのだ、と観察することとなり適度の休憩の機会を与えてくれる。しかしどの岩もよく見ているとそれらしく見えてくるので長居は無用である。


魚留滝、三重の滝、五段滝、これらは特に水の勢いがよい雨天の日に来て見ると凄まじい音響とうねりと水しぶきとで迫力がある。危険を覚悟なら沢に沿っての歩行は雨の日に行くのが景色がより好ましい。途中、傘をさして水流等を撮影している人がいた。


折り返し点への最後の100メートルはきつい登りだった。標識で言う「あと100メートル」とは距離があと100メートルなのか標高差があと100メートルなのか定かでなかった。その「あと100メートル」を辛抱して登ると小さな平地に至りそこにここは国立公園であることを示す看板がある。


ぼくらはここで速やかに昼食を済ませた。小雨が降り続くので簡単にせざるを得ず火を使わなかった。まず、山本氏のゾーリンゲンの高級登山ナイフにより切断された半バナナが配られ、続いてすぐに干ぶどうの埋め込まれたパンが回され、羊羮、ごま入りクッキー棒も配られ、それにまぎれて清酒が振る舞われた。


足元にトロッコのレール跡が延びており、ここからはこのレールに沿って、沢の反対側の崖上にある下り傾向の道を分岐点まで戻って行くこととなる。食事が終るとぼくらは昭和45年に廃線となったこのトロッコレール跡を引き返した。その引き返すための一本道を行くと、わやになったレールの残骸が至る所で平行間隔を失ったぶざまな姿を地面から露出したり、崖崩れ跡の空間に空しくもつれ合っていたりして、くどい道標となっている。沢づたいの登りでは自然の迫力を見せ付けられ、下りは人工物の儚さを思い知らされた。鋳鉄のレールもいたるところで崖崩れなどで歪んでおり、自然を破壊し続けてきた人工も、いずれは自然の復権により破壊される運命を示唆しているかのようだった。


かなり下ったところにトロッコの残骸があった。一対の小型車輪がレールから外れて置かれてあった。トロッコの本体である木製の車体は朽ちて原形をとどめていない。哀れと思った石田氏と山本氏はこの一対の車輪を持ち上げてレール上にもどしてやり、ぼくらは往時を偲んで数メートルこれを押し転がすと、車輪はレールを軋ませて喜び泣いたようだった。いつかここも崖が崩れ土砂が車輪にめがけて落ちるとき、車輪は最後の快速で崖を突進するであろう。


いくつもの崖崩れの跡に金属製の橋が掛けられていた。そのひとつの金属橋の上で立ち止って、斜面上方に今にも崩れ落ちてきそうなあぶなかしい巨岩を見つけたので、これを仰ぎ見たとき、ぼくの赤ヘルはぼくの頭より滑り落ち網目の橋床を一度バウンドして崖下に落下した。長らく愛用したヘルメットともお別れの日がきた。これでもうヘルメットの必要なアウトドア・フィールドともお別れということとしよう。もうぼくも兜のいる前線から解放されてもよい歳になった。


吊橋を渡り西沢溪谷入口に戻り、お土産屋で休憩しながら薬草茶の馳走になった。ヨモギ餅がよく売れていた。ここの食堂のメニューに猪豚の肉料理が見られたが、山本氏によるとそこのは冷凍であるので落味であるという。


車に戻り、そばで下着等を着替えたがその最中に雨脚が強くなり、ぼくらはあわてて自動車に飛び込んだ。着替えは中途半端でさすがのダンディ石田氏もこのときばかりは下はパンツだけで運転席にすわった。まるでやばい夜這から逃げ帰った4人組といった有様だった。


西沢溪谷を去ると、ぼくらは猪豚いのぶた料理店に直行した。そしてまず猪豚の存在を確かめるべく猪豚小屋に赴いた。すると歳の定かでない男性が餌を手ずから与えており、ぼくらを見つけると餌を差し出して、噛まないから餌を与えてみろという。ぼくは遠慮したが石田氏は一握りの餌を猪豚に与えるとぱくりとやられた。ただ餌を取るためのぱくりだったのでけがはなかった。猪豚たちは豚のような白い肌をしておらず、猪の色を帯びている。しかし牙歯ははえないという。


くだんの男性はぼくらが猪豚を食べにきたのを知ると喜んで、一緒に店に行こうとそこを離れた。てっきり店の人だと思っていたらこの人は、5年ぶりかにここを訪れた旧客であった。ただし、彼を快く客として迎えてくれたのは5年前に亡くなった「おばあちゃん」でこれが猪豚料理の元祖という。この男性は虫の知らせがあったのか5年前にここに来たが、まさにその日に「おばあちゃん」が亡くなったという。しかしこの男性はこの店のその他の家族からは嫌がられており、この店の顔馴染みではあったが「おばあちゃん」亡き後は、ここにはやってこなかった。来たとしても猪豚小屋にこっそりやってきて「おばあちゃん」の育てた猪豚に合って「おばあちゃん」を思い出しながら餌を与えるばかりであった。


そんなときにやってきたのがぼくらだった。彼はぼくらがこれから猪豚を賞味するということを知ると、まるで彼がぼくらと連れで猪豚初心者のぼくらを誘って店にやってきたように振る舞って店に入った。そしてぼくらには彼と一緒に行ったら安くしてくれるぞとおだてた。ぼくらは特に彼の同行を拒む理由もなかったから一緒に店に入った。しかし店の人達は彼を見ると不快感を覚えたらしい。彼は、久しぶりです、などと主人に愛嬌ふるまう。さて、ぼくらが彼と座敷で同席しているのを見て店の主人が、「ご迷惑でないですか、本当にこの人と同席でいいのですか」と確かめた。


くだんの男性の話をまとめると、かつて「おばあちゃん」らはこの地にて養豚をしていたが、ある頃小豚に毛の色が猪であるのが混じるようになった。いろいろ調べた結果、夜、山より猪が豚小屋の囲いをジャンプして侵入して、メス豚と交尾し、夜の明け切らぬうちに帰って行くということがわかった。そしてそのメス豚から生まれる合の子の肉はうまいこともわかったので、合の子同士を掛け合わせてみたが、それから生まれるのは豚だけだという。だから、今もこの猪豚の子を得るためには光源氏猪の夜のジャンプに期待がかけられている。ぼくはそれを聞いて、もしかしたらこの男性は猪よろしく、おばあちゃんに夜這いした猪男であったのではなかろうかとかんぐった。


さて、この人の職業はハンターであるという。しかし彼は生き物を殺すことを忌み嫌い、自分は狩猟が解禁になった日の早朝に鉄砲を担いで山に入り、空砲を打って獣たちを逃がすのだそうだ。勤めは都庁で動物担当とも言った。そして彼の言ったことを全て信じるなら、彼は東京オリンピックで日本の水泳選手でメドレーリレーに出たメダリストX氏である。また酒屋のせがれで酒席での芸を幾百と身につけているといい、二つを披露した。握りこぶしをしたままコップを持つという芸は、真似した山本氏もやすやすとできたので彼も唖然とした。またこの地ではまだ土葬がされているという。


さて猪豚の味は悪くなかったが、脂の鮮度が高いのかあとで顔がほてった。ぼくらは話し相手を失ってさみしがるハンターを一人残して料理店を出た。


その後は雨の中を柳沢峠を越え、おいらん淵を経て、奥多摩湖に至り、米軍基地のそばを通って都会にもどった。


おわり


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