絶望の果て
「やめてよ…、何してるのよ……。」
その漆黒の化け物の爪は母の胸を貫き、大量の血を胸から溢れ出させた。
母は吐血し、服が大量の血によってジワリと赤く染まる。肺が潰されているのか、声も出せなくなっている。
「お母さんから離れてよ!!」
恐怖心よりも化け物が母の胸からその鋭い爪を引き抜くと、母は膝から崩れ落ちる。
「お母さん!お母さん!!」
母の顔色は見る見るうちに青白くなっていき、息もか細くなる。パクパクと何かを言おうとする母にエミリーは必死に何を言おうとしているのか聞き取ろうとした。
母は手をエミリーの頬に当て、涙を流す。
……ごめんね。……もっと一緒にいてあげたかった。
声も出ないはずの母が、彼女に伝えた言葉。それは決して声で伝えたわけではなかったが、エミリーにはハッキリと知ることが出来た。
母はゆっくりと目を閉じ、腕の力を抜く。
「お母さん?……ねえ、起きてよ。お母さん……。」
エミリーは母の亡骸を抱え、絶望にのまれ、うずくまる。
そんなことを意に返さず、化け物はズンズンと気味の悪い笑い方をして近寄ってくる。
「もうやめてよ。なんでお母さんが死ななきゃいけないのよ。私達が一体何をしたっていうのよ。」
怒りと悲しみで声が震える。お母さんが死ぬなんて、今まで考えたこともなかった。お母さんがいることが私にとって、当たり前の日常。体は弱かったけれど、この化け物さえいなければ、もっとずっと一緒にいられたはずなのに。
エミリーは歯を食いしばり、化け物に向き合い、真っ直ぐに向き合う。
「もう誰も……誰も殺さないで!!!」
涙ぐんだ瞳で化け物に訴えかける。その短い人生でこの上なく強く、深く、自分の想いを言葉も分からないような目の前の化け物に。
それでもなお、化け物は狂気の笑いを見せる。
化け物は長く、鋭い爪の付いた腕を振り上げる。
死ぬ。間違いなく。
そうエミリーが思った瞬間。その人は現れた。
いつの間にか、その化け物は縦に真っ二つに切り裂かれていた。あまりの出来事に、開いた口がしばらく塞がらなかった。
化け物は左右に分かれて倒れ、間から一本の刀を持った男の姿が見える。
男は、身長はお父さんよりも低く、少し若い。白い髪に、黒ずくめの服。足元まで長く伸びたコートを着ていて、その目は周囲の炎が移って揺らめいているように見える。
その手には赤い刀身であること以外は何の飾り気もない、綺麗に湾曲した刀が化け物の血を滴り落している。
刀を鞘に納めてゆっくりと歩いて近づいてくる男に対して、エミリーは恐怖からぎゅっと目をつむる。
だが、男がエミリーに向けたのは敵意や殺意などではなく、純粋な温かく優しい言葉だった。
「遅くなって済まない。怖くなかったか?」
男はエミリーの背に合わせて片膝をつき、頭をなでる。
「……あなたは?」
「心配するな。俺はお前の味方だ。お前の母親の命は助けられなかったが、少なくともお前を死なせはしない。」
本当はそんなことは聞きたくなかった。私を安心させるためでも、誰かがそんなことを言ったら必ず、私はそれが真実かどうかが分かってしまう。
だが、それは杞憂だった。その男の言葉が、嘘であるという確信が持てない。それどころか、その言葉が真実であると私の中の何かが訴えかけてくる。
「……みんなもう死なないの?」
「死なせない。何の罪もないこの町の者を無残に死なせるような真似はもうさせない。だから、お前は笑ってこの町が元に戻るのを待っていろ。」
私はお父さんの強さを持っていてさえ、こんなにもハッキリとした安心感を持つことはできなかった。常人よりも何倍も戦闘力があったとしても、私が安心することはできなかった。
たった一日や二日であったとしても、自分の嘘を見抜く力を事実であると見分けるには十分すぎる時間の長さだ。
ついさっき会ったばかりで、名前すら知らない。それなのに、その佇まいと言葉の真偽で私は微かな憧れを抱いた。
周りは炎と瓦礫に囲まれ、ほとんど周囲を見渡すことはできない。
炎の向こうからは、何体もの化け物がこちらに向かってくる。
でも、私は今までこんなにも落ち着いた気分になったことはない。この時ほど安心できた時はない。
「……あなたの名前は?」
エミリーは自分を助けてくれた剣士の名前を尋ねる。
「零。好きなように呼べ。」
エミリーに背を向けたまま、男は自身の名を答え、鞘から刀の鍔を押して構える。
零は鞘から静かに刀を引き抜き、鋭い眼光で化け物を委縮させる。
一見あんな何の感情も持たないような化け物であっても、死の恐怖心というものはあったらしい。化け物の気味の悪い笑顔は、全身に鳥肌が立つような殺気を受けて、狂気から恐れをなした威嚇の顔へと変化した。
それでも零は歩みを止めることをしない。力強く地面を踏みしめ、圧倒的な存在感を放って向かっていく。
自棄になったのか、化け物は金切り声を上げて無数の牙を体中から伸ばして零に襲い掛かる。
後方にいる何体かは長い牙の生えた口を大きく開き、炎や氷の弾を作り出している。
魔術を使う人間以外の動物は実際にはいる。そういう動物は「魔獣」という風に呼ばれるが、通常は一種類につき一つ使えるけれど、それ以外の魔術は使えない。
もっとも、人間が複数の魔術を使い分けるのに詠唱がいるのに対し、魔獣はノータイムで魔術を起動できるが。
問題は、この化け物が、複数種類の魔術を、何の詠唱もせずに使っている点だ。これではこちらが魔術を起動させる前に魔獣の方が魔術を起動させてしまう。完全なワンサイドゲーム。人間に勝てる相手じゃない。
エミリーがそう思った刹那、零の刀は異様なオーラを放つ。
実際に見えるわけではない。けれど、ハッキリと何かが変わったことが分かった。
頭上から襲い掛かる化け物に対し、零はただ一度だけ、下から上へかけて弧を描くように刀を振り抜く。
コンマ数秒は何も起こっていないのかと勘違いしてしまいそうになった。
複数体いた化け物はすべて、その一回の零の攻撃で縦に真っ二つにされていた。
同じ場所にいたわけでも、一直線上にいたわけでもない。それなのに、化け物は攻撃しようと伸ばした体中の白い牙ごと切り裂かれている。
後から何匹かがまたどこからか現れたが、その度、零は剣を振り、たった一撃で化け物は両断される。
その現象を理解することはできない。ただ、ハッキリと言えることがある。それは、たとえどんな防御力、回避力、敏捷性を持っていたとしても、零の前では無駄であること。そして、敵ではなく味方なのであれば、彼ほど頼もしい存在はおそらくいないという事。
零は辺りに他の化け物がいないことを確認すると、エミリーの方に向き直る。
「俺はこれから悪魔どもを殲滅してくる。
もうこれから先、お前と会う事はないだろうが、もしどうしようもない状況になって俺の助けが必要になったらこれにその強い気持ちで願え。いつ、どこにいようと助けに行く。約束だ。」
そういって、エミリーに青いダイヤのような形の首飾りを渡す。
「あの……、えっと、ありがとうございました。」
戸惑いながらも、エミリーが頭を下げて礼を言うと、零はほんの少しの笑みを浮かべて走り去っていくのだった。




