死線①
崖とは言っても、その周りはなだらかな傾斜だ。回り道をすれば安全に降りることができる。そう思ったのだが…。
「……迷った。」
まさか森林の中がこんなにも方向感覚を狂わせるとは思わなかった。元の場所に戻ろうにも、戻る道すらわからない。
歩きなれないこの森では、進む距離に見合わない体力が奪われる。しかも、決して整備された道ではないため、草で手の薄皮が切れ、真っ赤な血がにじみ出る。
長袖長ズボンのこの制服ではすぐに汗だくになったが、この草木が生い茂った場所では薄着でない方がいい。虫もいるし、草で皮を切って無駄に怪我を増やすよりは幾分かましだ。
時間は11時半。一時間近く歩いているが、たいして進めていない。
息を乱しながら歩いていると、かすかに水が流れる音が聞こえてきた。近くに川があるのかもしれない。
僕は音の聞こえる方へ夢中で走った。持っていた水筒はすでに空になっていて、一刻も早く喉を潤したかったのだ。
水の音に間違いはなかった。そこには、少し拓けた砂地が広がっていた。3メートルほどの小さな滝と、小川が流れている。流れる水は、川底がはっきり見えるほどの透明度があり、そのままでも飲めそうだ。
しかし、僕は飲みたい気持ちを押し殺して、水筒がいっぱいになるまで水を入れる。確か、川の水はそのまま飲むと腹を下すことがあるはず。流石にこんなところで動けなくなったら最悪だ。
木々が開けたおかげで、自分の現在の位置をある程度把握することができた。通ってきた道を振り返ると、あの崖と桜の木が見える。
どうやら、僕が通ってきた道は正解だったようだ。この分ならあと少しで街につくだろう。
僕は川辺に腰を落ち着かせ、一息つくことにした。
それが間違いだった。川辺には、頻繁に動物が足を運ぶ。そして、その動物の中には当然、肉食獣もいる。
だから、すぐに立ち去るべきだったんだ。
………バキッ
枝が踏み折られる音がすぐ後ろで鳴った。慌てて振り向くと、そこには森の中では決して出会ってはいけない獣がいた。
むき出しになった犬歯、犬の一回りも二回りも大きな体。
間違いない。狼だ。
日本にいるはずのない獣。目は充血し、紅に染まっている。やせ細った体を見れば、この狼が空腹であることはすぐに分かった。
僕は動かない。いや、動けなかった。瞬き一つすれば、一瞬でかみ殺される。背中を向けて逃げ出せば、そこには明確な死が待っていると、本能が訴えかけてくる。
それらのことを考えて、僕の今とるべき最善の行動は、動かないこと。決して目をそらさず、隙を見せないことだった。
時間の感覚はとうに失われていた。どれだけの時間がたったのかは分からない。けれど、この場に漂う緊張感は、ほんの少しも緩むことはない。
脚が恐怖で震え始める。息もだんだんと苦しくなってきた。
狼の威圧感に気圧され、僕はほんの少し、ほんの一歩だけ、後ろへ下がった。下がってしまった。
それが火蓋を切ることとなった。狼は猛スピードで走り寄り、十メートルほどあった間合いを一気に詰め、襲い掛かる。
僕はとっさに自分の鞄を盾にして、狼の攻撃をそらす。すると、狼は走った勢いを止められず、体勢を崩した。
その隙に、僕は川沿いに駆け出す。
森の中に逃げ込んだんでは、あっという間に捕まる。ならば、川沿いに走った方が生き延びる確率は高い。
もちろん、こんな状況でそう考えたわけではない。おそらくは、僕の中の本能だろう。僕の中の本能が、生き延びる最善手を教えてくれた。
息が詰まりそうになり、後ろからは狼の走る音が聞こえてくる。
どれくらいの距離があるのかと、ふと後ろを見た瞬間。狼の牙は、僕の左肩を貫いた。
痛い。痛みというのは度を過ぎると声を上げることも出来なくなるのだと、この時初めて分かった。
狼の体重は100キロはあっただろうか。いくら狼とはいえ、これほど重い個体は珍しいはず。僕はその体重とスピードによる衝突で吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
川の流れる音は先ほどまでよりも大きくなっている。肩の痛みは変わらない。走っていた時に振り返りかけたせいで、僕は仰向けになっていた。
身体は爪で押さえつけられ、ピクリとも動かない。かろうじて右腕が自由だが、狼相手に何かできるわけでもなければ、誰かが助けてくれるわけでもない。
諦めかけて右腕を下した拍子に、ポケットにて固い何かがあるのを感じた。
メモをとるためにいつも持ち歩いているシャープペンシルだ。こんなことを想定していたわけではないが、これはペン先が戻らないタイプのもので、尖った部分は十分凶器として使える。
でも、こんなものであがいたところで……。
翔の脳裏に、ふとある女性の姿がよぎる。
「誰……だ…?」
僕は考えるよりも先に狼の右目にペン先を突き刺した。
死にたくない。死ぬわけにはいかない。あの人に何一つ返せていない。
歯を食いしばり、生きるための活路を探して思考を加速させる。
「悪いな、僕には死ねない理由があるんだ。」
狼自身も、肩に噛みついていたせいで避けられなかった。狼はたじろぎ、肩から口を離す。僕はその間に川へと駆け出した。
川は先ほどまでの浅く、緩やかな流れとは打って変わって、流れは速く、川底は深くなっている。
狼から逃れる一心で、僕は川へと飛び込んだ。
こんな激流の中、まともに泳げるはずもなかったが、まともに走っていては殺されるだけだ。
僕は痛みのせいで意識が朦朧としていたが、何とか息継ぎだけに全力を振り絞り、川の流れに身を任せた。