後悔
それは雨の日だった。僕はその日、初めていつものあの戦場の夢ではない夢を見た。
恵美さんと僕の間には小さな小川があって、少し跳べば飛び越えられそうな幅なのに、なぜかその一歩が踏み出せない。足がピクリとも動かない。
彼女は向こう岸から何かを言っているが、よく聞き取れない。こちらから声をかけても彼女はただ笑うだけで、こちら側に来てはくれない。
向こう岸の森の闇に包まれるように、彼女は去っていく。手を伸ばしても決して届くことはない。それでも、僕は彼女の姿が見えなくなっても、ずっと手を伸ばし続けていた。
雨の音で目を覚ます。窓際で寝ると、雨粒が窓をたたく音で目を覚ますのはよくあることだ。いつもと違う夢を見たせいで、そのことばかりが気になるが、僕はいつも通り朝食を食べ、家を後にした。
登校時、いつも声をかけてくる恵美さんの姿はない。少し不思議に思いはしたものの、あまり気にはならなかった。
学校に着くと校庭に警察が来ていて、騒がしかった。いつもならそんなものに興味は持たないのだが、この時は何か妙な胸騒ぎがし、近くにいた教員に何があったのかを聞く。
すると、その教員はこう答える。
「うちの生徒が屋上から飛び降り自殺をしたらしい。いじめられでもしていたのか……、悔やまれるものだな。」
そう言って教員は辛そうな顔をする…、していたと思う。僕の視界に教員の姿はない。その言葉だけが頭の中に響き渡り、視界がぼやける。
怒り?悲しみ?そのどちらかでもあるような気がするし、そのどちらでもないような気もする。自身の感情すら、しっかりとは把握できない。
その現場には恵美さんがいつもつけていた、花の髪飾りが落ちていたのだから。
「先生……、その生徒の名前は?」
「ああ、俺はその生徒の担任ってわけじゃないから苗字は知らないが、名前は確か『恵美』だったはずだ。クラスメイトからよく名前で呼ばれていたしな。」
彼女の名が聞こえた瞬間、僕は意味もなく駆け出した。引き留める教員の声も無視し、ただひたすらにあの場所を目指し、走り続けた。
恵美さんを苦しめていた者への恨みは決して弱いものではない。それが誰かという見当もつい
ている。しかし、そんな感情は全て自身へとむけられた。
走っていると横腹が痛くなるが、そんなものはどうでもよかった。むしろ、こんな無力な自分を痛めつけてくれて、ありがたみさえ覚える。
冷たい雨に打たれ、足を何度も滑らせながらも、僕は昨日彼女と一緒にいたあの公園にたどり着く。
僕は公園の柵に頭を思いきりたたきつける。その行為に意味はない。でも、自分に痛みを与えなければ、許せなかった。
ただひたすらに自分を呪う。なぜ助けなかったのか。なぜ無理やりにでも恵美さんの手を引かなかったのか。なぜ彼女に何もしなかったのか。
僕は気づいていた。彼女がいじめられていることに。確証はなかった。でも、僕なら気づけたはずだ。いじめられた経験のある者は同じようにいじめられている人に敏感になる。だから僕は、本当なら助けられたはずだ。なのに、出来なかった。毎日毎日、後回しにしてしまった。
彼女は僕に言っていた。「君は優しい人だ」と。
にも関わらず、僕は彼女の期待を裏切った。
結局、僕は自分のことしか考えていなかった。例え彼女に嫌われようとも、彼女のことを考えて行動することが出来ていれば、彼女を助けられたのではないのか。
僕の優しさは上辺だけのものだった。本当の僕は自分の事しか見ることのできない屑だ。
僕は優しくなんてない。こんな人間が優しいはずがない。
きっと彼女はずっと苦しんでいた。僕に助けを求めなかったのは、またいじめられることがないようにするためだろう。いじめる相手が彼女に集中すれば、僕に被害が及ぶことはなくなる。
それは彼女なりの優しさなんだ。
彼女の考えは手に取るようにわかる。だけど、一つ分からなくなったことがある。
なぜ、彼女はあの夜、僕のことを優しいといってくれたのか。
彼女の求めていたのは僕の上辺だけの優しさではなかったはずだ。僕でなかったならあるいは恵美さんを助けることが出来たかもしれない。それでも彼女はそう言った。
ならば、彼女のいう優しさとは一体何だったのだろう。彼女の思う、本当の優しさとは何だったのだろう。
そして……僕のような屑がその優しさを手に入れるためには何が必要なのだろう。
僕の流した涙は雨とともに流れ落ち、悲痛の叫びはその雨の音でかき消えた。
その時から学校には通わなくなり、ありとあらゆる言葉で自身を痛めつけ、呪い、殺す日々が続いていた。
死にたいとも思ったが、僕にはその勇気すらなかった。




