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憎悪の戦士  作者: 不覚たん
青い風編
9/35

湖沼にて

 翌朝、イサキオスたちは老人の家を出発し、沼へ向かって歩き始めた。

 もともと危険な場所ではないので、ただ森を進むだけでよかった。しかも漁師たちの使う道があるから、険しい山道を踏破する必要もなかった。

 だが、イサキオスは足を止めた。

「待て。ふたりとも、少し待ってくれ」

「なによ?」

 レミは今日も調子がいいらしく、杖を振り回しながら先頭を歩いていた。

 その背にすがりつくアラクネはゲッソリ顔。

 昨日もずいぶん夜更かししたらしい。

 イサキオスは溜め息をついた。

「朝な、あの家のおばさんに、こう言われたんだ。『昨日はお楽しみだったね』って」

「は?」

「俺もいったいなにを言われてるのか理解できなかったよ、そのときはな。こっちはひとつも楽しんじゃいねぇ。だがな、よく考えたら、原因はお前たちだったんだ。お前たちふたりが夜中まで騒いでたせいで、俺までそういうヤツだと思われたってことだ」

 するとレミはにわかに耳まで紅潮させ、ジタバタと足踏みした。

「ち、違うの! 回復してもらってたの!」

 ふたつ結ばれた金髪がぶんぶん振り回される。

「ふざけんな。あれは回復なんてもんじゃねぇ。あれはつまり……ほとんどアレだろ」

「なによアレって! ハッキリ言いなさいよ!」

「ん? ハッキリ言っていいのか?」

「……」

 鼻の奥から超音波のような声を出して、レミは黙り込んでしまった。

 かと思うと、今度はアラクネが大の字で立ちはだかった。

「あなた、また聖女さまを愚弄するのですか!」

「いや、俺が愚弄したいのはむしろお前のほうだぞ……」

「私と聖女さまは運命共同体。よって私を批判するのは、聖女さまを批判するのと同じです!」

「じゃあ両方だ。とにかく、回復だろうがなんだろうが、人んちでは静かにしてろ。俺のことはいいが、あの家の人たちに迷惑だろ」

 この言葉に、アラクネは信じられないものでも見るような顔で後ずさった。

「あなた、そんな常識的なことを言う人でしたっけ?」

「言うんだよ。いいか、俺は悪人になったつもりはねぇ。間違っても善人じゃねぇがな。あの人たちは善意で部屋を貸してくれたんだ。少しは節度ってのを守ってくれ。分かるよな、修道女さんよ」

「くっ……」

 反論できなくなったらしい。

 イサキオスはハルバードを担ぎ直した。

「俺が言いたいのはそれだけだ。行くぞ」


 レミとアラクネはしゅんとしてしまった。

「聖女さま、申し訳ありません。私が至らないばかりに、聖女さままで」

「ううん。こっちこそごめん。次からちゃんと周りのことも考えようね」

「はい。しかしこうも思うのです。もしかするとあの男、自分も混ざりたかったのでは、と」

 アラクネのこの提案に、レミはしばらく返事を渋った。

「え、あいつが? そ、そうかな……。でも体が興奮しないらしいよ」

「最初は我慢していて、あとで爆発するタイプかもしれません」

「あー、そういうのいる」

「あの男は危険です。聖女さま、ふたりで逃げませんか? そしてふたりだけの修道会を作って、ふたりで世界を浄化するのです」

「いや、それはちょっと……」


 全部聞こえている。

 だが、イサキオスは聞こえないフリをした。

 この残酷な会話に参加すれば、精神にダメージを受けるのは必死だった。あまりにひどい。


 沼についた。

 だだっ広い泥水のエリアに、いくつもの小舟が浮いている。しかも日差しは森にさえぎられているから、ずいぶん陰気な印象を受ける。

「うぇぇ、こんなドロドロなの? 蟹どこ? ぜんぜんいないんだけど」

 レミの苦情に、イサキオスは肩をすくめた。

「いいから舟に乗るぞ。俺が漕ぐ。お前らは魔法で対応してくれ」

「えー、なんか汚い……」

「文句言うな。だいたい、お前のローブだってカビだらけだろ」

「これは特別な苔なの! 由緒ある魔女のローブなんだから! カビと一緒にしないで!」

「いいから乗れよ。空でも飛べるなら別だがな」

「ムカつく……」

 舟に乗るだけでこの騒ぎである。

 アラクネは黙って従っているように見えるが、やはり修道服の汚れるのを気にしている。


 舟に乗り込み、奥へ奥へと漕ぎ出した。

 泥まみれの水面が、たぷたぷと重たそうにゆらいでいる。泥の臭気もある。水底が見えないから、なにがいるかも分からない。

「あたしたちが食べてた魚、こんなところでとってたの?」

「不満か?」

「そういうわけじゃないけど。ぜんぜん見えないから」

「たしかに見えねぇな」

 なにも見えない。

 蟹の気配もない。

 しかも水が入り込んでいるのか、イサキオスの尻は泥水で濡れていた。おそらく同行しているふたりも似たような状況だろう。不快そうな顔をしている。


 ふと、イサキオスは漕ぐのをやめた。

 敵を見つけたからではない。

 疲れたのだ。

 舟を漕ぐのはそれだけでも大仕事だ。のみならず、泥水のせいでオールが重くて仕方がなかった。

「少し休憩だ」

「早っ。なんなの? だらしない」

「じゃあお前が漕ぐか?」

「なんであたしが。この華奢な腕を見なさいよ。ムリに決まってるでしょ」

「ふん」

 最初からやらせるつもりはない。なにせ舟漕ぎまでレミにやらせたら、本格的にイサキオスの出番がなくなってしまう。もし全部やらせたりしたら、このあとなにを言われるか分かったものではない。「割り算」とやらはレミとアラクネしか知らないのだ。銀貨をちょろまかされる可能性もある。


「あ、ちょっと! 岩にぶつかる!」

「は?」

「そこ!」

 水面から、ちょこんと岩が突き出していた。

 休憩モードで完全に脱力していたイサキオスだったが、にわかに我に返り、慌ててオールを動かした。岩石蟹かもしれない。進路を変更し、迂回するように側面へ移動した。

 岩は動かない。

 レミは苦笑を浮かべている。

「な、なによ急に慌てて……。え、あんたもしかして、あれを岩石蟹だと思ったの?」

「……」

「ちょっと待ってよ。あれが? あのちっちゃな岩が? ホントに?」

「違うって証拠もないだろ」

「よく見てよ。ただの岩じゃない? 意外と小心者よね、あんたって」

 これにアラクネも「聖女さま、もっと言ってやりましょう」とはやし立てた。

 イサキオスは咳払いをした。

「違うなら違うでいい。だがな、こういうところでナメてると、いずれ大怪我することになるぞ。あとで後悔しても遅いからな」

「逆ギレでごまかそうとしてもムダよ。ありえないから。もしあれが岩石蟹だったら、なんでもあんたの命令聞いてやるわよ。その代わり、もし違ったらあたしの命令なんでも聞きなさいよ? いいわね?」

「勝手に決めるな」


 すると、舟のすぐ脇の水面から、ざばとなにかが飛び出してきた。

 蟹だろうか。

 イサキオスはハルバードに持ち替える余裕さえなく、オールを抜こうとして、しかし固定されたロープに邪魔された。

 レミもアラクネも悲鳴をあげてちぢこまっている。


「なんだい、ずいぶんな対応だね」

 それは岩石蟹ではなく、魔女だった。

 得意の魔法で登場したらしい。しかし体を泥で作っているから、全身がどうしようもなくべちゃべちゃしている。

「ばばさま! 驚かさないでよ!」

「魔女ってのは突然現れるもんさ。驚くほうが悪いよ」

「やだ! ばばさま嫌い!」

「ふん。あんたらの探してる蟹は、もっとずっと奥だよ。見ればすぐ分かるから、そんなにビクビクしなくていい」

 親切な忠告のつもりかもしれないが、もし見てすぐ分かるなら、驚かされただけ損である。

 しかもアラクネが腰を抜かしている。

「だ、だだ、誰ですか、この不浄な老婆は! 魔物? 魔物ですか? 聖女さま、退治しましょう!」

「待って! ばばさま退治しないで! 私のばばさまなの!」

「え、フンババ?」

「ばばさま! 私の大事な家族!」

「家族って、でも魔物ですよ?」

「魔物にしか見えないけど、それでも家族なの!」

 たしかに沼の魔物にしか見えない。

 老婆は顔をしかめている。

「レミ、探知の魔法は教えただろう? こういうときに使うんだよ」

「え、教えてもらってない」

「はぁ……」

 老婆はうんざりと溜め息をつきながら、ドロドロの泥にとなって水中に没した。

 あとには痕跡さえも残さずに。

 アラクネはレミにしがみついた。

「せ、聖女さま! 正気に戻ってください! あの魔物は、あなたの家族などではありません! お気を確かに!」

「あんたが正気に戻ってよ。何回も言ってるでしょ。あたし、魔女なの。聖女なんかじゃないの。分かる?」

「ま、まさか……魔女でありながら聖女という、すべてを持った存在なのでは……。つまりはこの世界そのもの……私たちの母……」

「意味不明なんだけど」

「とにかく、あの老婆は不浄です! 目を覚ましてください!」

「もー、蟹が逃げちゃうから静かにしてよ」

「はい」


 舟を漕ぎ進めると、遠方に巨大な蟹が見えてきた。

 じっとしてはいるが、どこからどう見ても蟹だ。甲羅を石灰質のフジツボや苔に覆われている。

 小山ほどの大きさで、三人揃って上陸できそうだ。

「ずいぶんでけぇな……」

 うずくまっていてなお小山に見えるのだから、もし立ち上がれば手に負えないサイズになるだろう。こんな小舟など簡単にひっくり返される。

 イサキオスはだいぶ手前で舟を止め、仲間たちへ向き直った。

「やれるか?」

「は、はぁ? やれるけど? なんなの? そこで見てて」

 レミは揺れる舟に難儀しながら立ち上がり、両手を前へ突き出した。炎の魔法には杖を使わない。

「じゃ、じゃあやるから。一瞬だから」

「始めてくれ」

「喋らないで! 集中するんだから! 集中するの……」

 緊張しているらしい。

 しかし蟹は光線を放ったりしない。せいぜい泥の中を這い回って、ハサミで襲ってくるだけだろう。近づかなければ危険はない。


 わっと炎が噴出した。

 熱波が広がって、景色さえ歪んで見えた。水面はじゅうじゅうと音を立てて蒸発。岩石蟹の背もパチパチと音を立て始めた。

 だが、蟹がザブンと水中へ潜った。

 仕留め損なった。

「あ、あれ? 死んでない? 生きてる?」

 うろたえるレミに、イサキオスもアラクネも返事をしなかった。

 水面が大きくうねっている。

 蟹が移動しているのだ。

 かと思うと、真下から突き上げられるようにして舟がひっくり返った。

 イサキオスは頭から沼へ転落。上も下も分からない状態で、とにかく手足をバタつかせた。ハルバードもどこへ行ったやら分からない。

 さいわい、すぐに顔を出すことができた。

 蟹の所在は不明。

 舟は真っ二つ。

 仲間たちの姿も見えない。

 予想もしていなかった展開に、イサキオスはただ呆然と泥の沼を見つめた。森からは鳥たちの声がする。その静けさは、なぜか絶望を感じさせた。人の気配がない。誰も助けに来ない。自力でなんとかするしかない。


(続く)

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