湖沼にて
翌朝、イサキオスたちは老人の家を出発し、沼へ向かって歩き始めた。
もともと危険な場所ではないので、ただ森を進むだけでよかった。しかも漁師たちの使う道があるから、険しい山道を踏破する必要もなかった。
だが、イサキオスは足を止めた。
「待て。ふたりとも、少し待ってくれ」
「なによ?」
レミは今日も調子がいいらしく、杖を振り回しながら先頭を歩いていた。
その背にすがりつくアラクネはゲッソリ顔。
昨日もずいぶん夜更かししたらしい。
イサキオスは溜め息をついた。
「朝な、あの家のおばさんに、こう言われたんだ。『昨日はお楽しみだったね』って」
「は?」
「俺もいったいなにを言われてるのか理解できなかったよ、そのときはな。こっちはひとつも楽しんじゃいねぇ。だがな、よく考えたら、原因はお前たちだったんだ。お前たちふたりが夜中まで騒いでたせいで、俺までそういうヤツだと思われたってことだ」
するとレミはにわかに耳まで紅潮させ、ジタバタと足踏みした。
「ち、違うの! 回復してもらってたの!」
ふたつ結ばれた金髪がぶんぶん振り回される。
「ふざけんな。あれは回復なんてもんじゃねぇ。あれはつまり……ほとんどアレだろ」
「なによアレって! ハッキリ言いなさいよ!」
「ん? ハッキリ言っていいのか?」
「……」
鼻の奥から超音波のような声を出して、レミは黙り込んでしまった。
かと思うと、今度はアラクネが大の字で立ちはだかった。
「あなた、また聖女さまを愚弄するのですか!」
「いや、俺が愚弄したいのはむしろお前のほうだぞ……」
「私と聖女さまは運命共同体。よって私を批判するのは、聖女さまを批判するのと同じです!」
「じゃあ両方だ。とにかく、回復だろうがなんだろうが、人んちでは静かにしてろ。俺のことはいいが、あの家の人たちに迷惑だろ」
この言葉に、アラクネは信じられないものでも見るような顔で後ずさった。
「あなた、そんな常識的なことを言う人でしたっけ?」
「言うんだよ。いいか、俺は悪人になったつもりはねぇ。間違っても善人じゃねぇがな。あの人たちは善意で部屋を貸してくれたんだ。少しは節度ってのを守ってくれ。分かるよな、修道女さんよ」
「くっ……」
反論できなくなったらしい。
イサキオスはハルバードを担ぎ直した。
「俺が言いたいのはそれだけだ。行くぞ」
レミとアラクネはしゅんとしてしまった。
「聖女さま、申し訳ありません。私が至らないばかりに、聖女さままで」
「ううん。こっちこそごめん。次からちゃんと周りのことも考えようね」
「はい。しかしこうも思うのです。もしかするとあの男、自分も混ざりたかったのでは、と」
アラクネのこの提案に、レミはしばらく返事を渋った。
「え、あいつが? そ、そうかな……。でも体が興奮しないらしいよ」
「最初は我慢していて、あとで爆発するタイプかもしれません」
「あー、そういうのいる」
「あの男は危険です。聖女さま、ふたりで逃げませんか? そしてふたりだけの修道会を作って、ふたりで世界を浄化するのです」
「いや、それはちょっと……」
全部聞こえている。
だが、イサキオスは聞こえないフリをした。
この残酷な会話に参加すれば、精神にダメージを受けるのは必死だった。あまりにひどい。
沼についた。
だだっ広い泥水のエリアに、いくつもの小舟が浮いている。しかも日差しは森にさえぎられているから、ずいぶん陰気な印象を受ける。
「うぇぇ、こんなドロドロなの? 蟹どこ? ぜんぜんいないんだけど」
レミの苦情に、イサキオスは肩をすくめた。
「いいから舟に乗るぞ。俺が漕ぐ。お前らは魔法で対応してくれ」
「えー、なんか汚い……」
「文句言うな。だいたい、お前のローブだってカビだらけだろ」
「これは特別な苔なの! 由緒ある魔女のローブなんだから! カビと一緒にしないで!」
「いいから乗れよ。空でも飛べるなら別だがな」
「ムカつく……」
舟に乗るだけでこの騒ぎである。
アラクネは黙って従っているように見えるが、やはり修道服の汚れるのを気にしている。
舟に乗り込み、奥へ奥へと漕ぎ出した。
泥まみれの水面が、たぷたぷと重たそうにゆらいでいる。泥の臭気もある。水底が見えないから、なにがいるかも分からない。
「あたしたちが食べてた魚、こんなところでとってたの?」
「不満か?」
「そういうわけじゃないけど。ぜんぜん見えないから」
「たしかに見えねぇな」
なにも見えない。
蟹の気配もない。
しかも水が入り込んでいるのか、イサキオスの尻は泥水で濡れていた。おそらく同行しているふたりも似たような状況だろう。不快そうな顔をしている。
ふと、イサキオスは漕ぐのをやめた。
敵を見つけたからではない。
疲れたのだ。
舟を漕ぐのはそれだけでも大仕事だ。のみならず、泥水のせいでオールが重くて仕方がなかった。
「少し休憩だ」
「早っ。なんなの? だらしない」
「じゃあお前が漕ぐか?」
「なんであたしが。この華奢な腕を見なさいよ。ムリに決まってるでしょ」
「ふん」
最初からやらせるつもりはない。なにせ舟漕ぎまでレミにやらせたら、本格的にイサキオスの出番がなくなってしまう。もし全部やらせたりしたら、このあとなにを言われるか分かったものではない。「割り算」とやらはレミとアラクネしか知らないのだ。銀貨をちょろまかされる可能性もある。
「あ、ちょっと! 岩にぶつかる!」
「は?」
「そこ!」
水面から、ちょこんと岩が突き出していた。
休憩モードで完全に脱力していたイサキオスだったが、にわかに我に返り、慌ててオールを動かした。岩石蟹かもしれない。進路を変更し、迂回するように側面へ移動した。
岩は動かない。
レミは苦笑を浮かべている。
「な、なによ急に慌てて……。え、あんたもしかして、あれを岩石蟹だと思ったの?」
「……」
「ちょっと待ってよ。あれが? あのちっちゃな岩が? ホントに?」
「違うって証拠もないだろ」
「よく見てよ。ただの岩じゃない? 意外と小心者よね、あんたって」
これにアラクネも「聖女さま、もっと言ってやりましょう」とはやし立てた。
イサキオスは咳払いをした。
「違うなら違うでいい。だがな、こういうところでナメてると、いずれ大怪我することになるぞ。あとで後悔しても遅いからな」
「逆ギレでごまかそうとしてもムダよ。ありえないから。もしあれが岩石蟹だったら、なんでもあんたの命令聞いてやるわよ。その代わり、もし違ったらあたしの命令なんでも聞きなさいよ? いいわね?」
「勝手に決めるな」
すると、舟のすぐ脇の水面から、ざばとなにかが飛び出してきた。
蟹だろうか。
イサキオスはハルバードに持ち替える余裕さえなく、オールを抜こうとして、しかし固定されたロープに邪魔された。
レミもアラクネも悲鳴をあげてちぢこまっている。
「なんだい、ずいぶんな対応だね」
それは岩石蟹ではなく、魔女だった。
得意の魔法で登場したらしい。しかし体を泥で作っているから、全身がどうしようもなくべちゃべちゃしている。
「ばばさま! 驚かさないでよ!」
「魔女ってのは突然現れるもんさ。驚くほうが悪いよ」
「やだ! ばばさま嫌い!」
「ふん。あんたらの探してる蟹は、もっとずっと奥だよ。見ればすぐ分かるから、そんなにビクビクしなくていい」
親切な忠告のつもりかもしれないが、もし見てすぐ分かるなら、驚かされただけ損である。
しかもアラクネが腰を抜かしている。
「だ、だだ、誰ですか、この不浄な老婆は! 魔物? 魔物ですか? 聖女さま、退治しましょう!」
「待って! ばばさま退治しないで! 私のばばさまなの!」
「え、フンババ?」
「ばばさま! 私の大事な家族!」
「家族って、でも魔物ですよ?」
「魔物にしか見えないけど、それでも家族なの!」
たしかに沼の魔物にしか見えない。
老婆は顔をしかめている。
「レミ、探知の魔法は教えただろう? こういうときに使うんだよ」
「え、教えてもらってない」
「はぁ……」
老婆はうんざりと溜め息をつきながら、ドロドロの泥にとなって水中に没した。
あとには痕跡さえも残さずに。
アラクネはレミにしがみついた。
「せ、聖女さま! 正気に戻ってください! あの魔物は、あなたの家族などではありません! お気を確かに!」
「あんたが正気に戻ってよ。何回も言ってるでしょ。あたし、魔女なの。聖女なんかじゃないの。分かる?」
「ま、まさか……魔女でありながら聖女という、すべてを持った存在なのでは……。つまりはこの世界そのもの……私たちの母……」
「意味不明なんだけど」
「とにかく、あの老婆は不浄です! 目を覚ましてください!」
「もー、蟹が逃げちゃうから静かにしてよ」
「はい」
舟を漕ぎ進めると、遠方に巨大な蟹が見えてきた。
じっとしてはいるが、どこからどう見ても蟹だ。甲羅を石灰質のフジツボや苔に覆われている。
小山ほどの大きさで、三人揃って上陸できそうだ。
「ずいぶんでけぇな……」
うずくまっていてなお小山に見えるのだから、もし立ち上がれば手に負えないサイズになるだろう。こんな小舟など簡単にひっくり返される。
イサキオスはだいぶ手前で舟を止め、仲間たちへ向き直った。
「やれるか?」
「は、はぁ? やれるけど? なんなの? そこで見てて」
レミは揺れる舟に難儀しながら立ち上がり、両手を前へ突き出した。炎の魔法には杖を使わない。
「じゃ、じゃあやるから。一瞬だから」
「始めてくれ」
「喋らないで! 集中するんだから! 集中するの……」
緊張しているらしい。
しかし蟹は光線を放ったりしない。せいぜい泥の中を這い回って、ハサミで襲ってくるだけだろう。近づかなければ危険はない。
わっと炎が噴出した。
熱波が広がって、景色さえ歪んで見えた。水面はじゅうじゅうと音を立てて蒸発。岩石蟹の背もパチパチと音を立て始めた。
だが、蟹がザブンと水中へ潜った。
仕留め損なった。
「あ、あれ? 死んでない? 生きてる?」
うろたえるレミに、イサキオスもアラクネも返事をしなかった。
水面が大きくうねっている。
蟹が移動しているのだ。
かと思うと、真下から突き上げられるようにして舟がひっくり返った。
イサキオスは頭から沼へ転落。上も下も分からない状態で、とにかく手足をバタつかせた。ハルバードもどこへ行ったやら分からない。
さいわい、すぐに顔を出すことができた。
蟹の所在は不明。
舟は真っ二つ。
仲間たちの姿も見えない。
予想もしていなかった展開に、イサキオスはただ呆然と泥の沼を見つめた。森からは鳥たちの声がする。その静けさは、なぜか絶望を感じさせた。人の気配がない。誰も助けに来ない。自力でなんとかするしかない。
(続く)