文字と算術
結局、イサキオスは交渉のテーブルからおり、レミも説得に疲れてぐったりしてしまった。メガネの修道女だけがニタニタ笑っていた。
「寝る」
イサキオスはふたりに背を向け、横になった。
いざとなったらハルバードで追っ払うしかない。まともな教育も受けていないのだ。文字だって書けない。交渉で目的を達成したことなど過去に一度もなかった。
「聖女さまもお疲れのようですね」
修道女は少し距離を詰めた。
するとレミも同じだけ距離をあける。
「誰のせいだと思ってんのよ……」
この数時間で顔がややゲッソリしている。
自慢の金髪もやや跳ねてしまっている。
修道女はさらに身を寄せた。
「回復して差し上げましょうか?」
「そういやあんた、得意なんだっけ? あたしね、大魔法使いになるの。だからどんな魔法にも興味があるわ。ちょっと見せてくれる?」
「仰せのままに」
しかしこの動乱の時代、甘言ほど警戒にあたいするものはなかった。
あるいは善意から出た言葉であったとしても、だ。
うとうととまどろんでいたイサキオスは、聞きなれない声でハッと目を覚ました。
少女の甲高い声がする!
「あらあら、聖女さま。まだ始まったばかりですよ?」
「待って! ちょっと待って! むりむりっ! もう回復できないからっ!」
「回復に限界はありません。技を極めた私が保証します」
「あるのっ! もうむりだからっ! 止めてよぅ!」
「なんですって? 申し訳ありませんが、暗くてよく聞こえません」
「暗さは関係な……ひうっ」
なかば拷問である。
ただし、やや離れたところで寝ているイサキオスには、心地よい回復の余波が伝わってくる。適切な距離をたもち、なおかつ適切なエネルギー量であれば、身体にはよさそうだ。
助けに入るべきかもしれない。
しかしイサキオスは、彼女たちの楽しむ声を聞いてなお、まったく体が反応しないことを再確認させられ、完全に消沈していた。
神々の軍勢が幼馴染のリリスを槍で貫き、夜空に掲げたとき、自分の中の大事なものが消失した気がした。村の燃える炎が死骸を赤々と照らしていた。まるで狩猟した獲物を見せびらかすように。
当時、イサキオスもまた幼かった。村を出て街へ入ったときも、同年代の少女を見るだけで言い知れぬ哀しみに襲われた。
いまでこそ動揺をおぼえることは少なくなったものの、それでも女性を遠ざけたい気持ちは消えずに残っていた。
大人になったらリリスと結婚するつもりだった。それは幼いイサキオスの勝手な思い込みであったかもしれない。しかし戦争で両親を失い、魔女に育てられた彼にとって、幸福な家庭こそが人生のゴールそのものであったのだ。
ところが、一夜にしてすべてが破壊された。楽しく会話していた村の人たちは、ただの肉にされた。踏み潰された水車のオモチャが、泥と血液にまみれてひどく醜いものに見えた。
やがて夜が明けた。
イサキオスは目を覚ますなり、盛大に溜め息をついた。いや、深呼吸のようなものだ。不快な記憶を引きずらないことはなかったが、それはいつものことだから、取り立てて気にするようなことでもなかった。
問題は、それよりも、すでに鍋で湯を沸かしているレミである。
「あ、おはよ。いい朝だね」
にこりと愛敬のある笑み。
昨日さんざん騒いでいたのがウソのようだ。
一方、修道女はぐったりして動かない。他人を回復するために、魔法を使いすぎたらしい。
「こいつは死んでるのか?」
「どう見ても生きてるでしょ。それよりほら、今日もおいしいスープができたわ。食べよ?」
「えらく豪勢だな。また婆さんが来たのか」
「そう。あたし、ばばさまに気に入られてるの。きっとかわいいのね」
とんでもない得意顔だ。
たしかに顔はかわいいとイサキオスも思う。しかし彼の好みは、もっとつめたい人形のような女だった。在りし日のリリスのような、超越的な雰囲気をもった女だ。
イサキオスは串を突き刺し、熱さを警戒しながらロールキャベツに齧りついた。
「うまいな……」
中に肉は入っていない。キャベツだけだ。それでもキャベツのほのかなあまみが口の中にひろがって、体に栄養を与えてくれる感じがした。
「でしょ? あたし、料理って得意なの。ばばさまも、あたしの料理だけは褒めてくれたわ」
「料理だけか……痛っ」
すねに蹴りが飛んできた。
まだ防具をつけていないから、木靴の先端が容赦なく骨を責めた。
「あんた、ひとこと余計なのよ!」
「自分で言ったんだろ」
「そこは聞き流すのがマナーでしょ! あんた、ホント、人間としての振る舞いに問題があるわよ!」
「なにがマナーだよ、魔女のクセに」
すると突然、修道女がガバリと起き上がった。
目が血走っている。
「おはようございます! ちょっとあなた! 聖女さまに対して、なんて口の聞き方なの?」
「はぁ?」
「聖女さまの下僕なのでしょ? 身の程をわきまえたほうがいいと思いますが?」
「誰が下僕だてめぇ。俺がこいつを雇ってんだよ」
修道女は「んんーっ」とのけぞった。
「雇う? つまりお金で買ったということですか? よくもそんなことを公言できますね! 恥ずかしくないのですか!?」
「金なんて一銭も払ってねぇよ」
「ではなんなのです? 代わりになにを提供しているのです? まさか回復魔法!? 回復魔法なのですか? それで毎晩回復を!? ちょっと詳しくお聞かせ願えませんか!」
朝から鬼の形相だ。
イサキオスも思わず腰が引けた。
「全然違う。ていうか一回落ち着いてくれ。俺はお前が怖い」
「ええ、そうでしょうとも。魔物は神聖なるものを恐れるものです。存分に私を恐れなさい。そしてそれ以上に聖女さまを敬いなさい」
「……」
話が通じない。
イサキオスは溜め息をつき、ロールキャベツを齧った。
会話が途絶えると、修道女も我に返ったのだろう。
丸太へ腰をかけ、メガネを着用し、コホンと咳払いをした。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。私はアラクネ。神に仕えるもの、そしていまは聖女さまに仕えるものです」
恍惚の表情だ。
レミはぷるっと身震いした。
「あ、あの……でもさ、あんたにも帰るべき場所があるんじゃない?」
「いいえ、ご心配なく。修道院は半年前に追い出されましたし、そのあとどこも受け入れてくれませんでしたから。まったく。昨今の修道院はどこも堕落していて、ひとつも話になりませんね。神に全身を捧げようという気持ちが感じられません。嘆かわしい」
なかば破門されたわけである。原因はおそらく回復魔法の乱用であろう。
しかし、それでもまだ神に仕えているつもりでいる。
つまり、魔女は敵ということだ。
レミも複雑そうな顔になった。
「ついてくるの?」
「もちろんです。私のすべては聖女さまのもの。つまりは運命共同体。ふたりは分かれることのできない存在なのです」
「でも、また森に入って、守護神と戦うけど」
「覚悟しております。聖女さまみずから討伐に出るということは、守護神に深刻な落ち度があるということ。私も進んで罪をかぶりましょう。そしてふたりは一緒に地獄に落ちて、ふたりだけの世界に閉じ込められるのです! ああ、なんという悲劇! でもご安心ください! 私にも回復魔法がありますから!」
「うぇぇ……」
槍で刺されても意見を変えなかった女だ。言葉による説得はそもそも不可能なのだ。諦めるしかない。
するとアラクネの腹がくぅと鳴った。
「ま、お恥ずかしい。私も朝食をいただきますね。聖女さまの手料理です。汁の一滴まで残さずいただきます」
「ホント怖いから……」
こんな信徒の姿を見たら、神も自分たちのおこないを改めるかもしれない。
イサキオスはそう考えると、塔まで同行させてもいいのではという気持ちになってきた。この女を見せつければ、神々だって困惑するはずだ。
イサキオスは「いいぜ」と割って入った。
「お前の同行を許可する。どうせ止めてもムダだろうしな。ただし、宿代だけは自分で稼げ。なにせほとんど金がねぇからな」
これに反論したのはレミだった。
「待ってよ! お金? 私たちを売るっていうの?」
「はぁ?」
「かわいいからって、悪い男に売りつける気でしょ! あんたがクズなのは知ってたけど、ここまでとは思わなかったわ!」
「俺もそこまでとは思わなかったぜ。勘違いするな。皿洗いでも薪割りでもガキのおもりでもいいから、宿代だけ稼げって言ってんだ。ホントに金がねぇんだ」
するとアラクネがすっとメガネを押し上げた。
「ならいいアイデアがありますよ。私、密造酒の作り方には詳しいので。少ない元手で大きく稼げます」
「待て待て。密造酒? そんなことして役人に目をつけられたらどうするんだ? 神と戦う前に、人間に殺されるぞ」
「まあたしかに、サバく相手を見つけないと厳しい商売ですが……」
本当に修道女だったのか怪しくなってくる。
レミも思案顔だ。
「困ったわね。ばばさまも、お金だけは絶対に手を貸さないって言ってたし。てか、なんであんたそんなに貧乏なの?」
「うるせぇな。定職についてないんだから仕方ないだろ。守護神なんか倒したって、一銭にもなりゃしねぇしな」
短期の労働で稼いでなんとかやり繰りしている状況だ。
ふたりの宿代までは工面できない。
生きているだけで腹は減る。そう簡単にトカゲがつかまるわけでもない。
アラクネが「ふむ」と空を見上げた。
「では、魔物の退治などはいかがでしょう。野蛮な戦士に、高貴な魔法使い、そして回復魔法の得意な私がいるのです。いかにも冒険者らしい編成ではありませんか?」
たしかに「いかにも」な編成になっていた。
あるいはそこらの冒険者どもよりはるかにマシだった。
多くの自称「冒険者」は、ナイフを振り回すのが得意なゴロツキばかりである。帰ってくるときもたいてい傷だらけだし、報酬の分配でも揉めないことがない。
魔法を使えるメンバーは人気が高い。戦闘能力の高さもさることながら、最低限の教養を有しているから、なんと文字が読める。不当な契約でぼったくられることもない。しかも割り算ができるから、分配で揉めない。
イサキオスは神妙な顔でこう尋ねた。
「お前たち、文字は読めるよな?」
「……」
返事はなかった。読めないのではない。そんなの読めて当然だろうという顔をしている。
彼はうなずいた。
「では割り算はどうだ? この技を使うと、報酬を人数ごとにピッタリ分けることができるらしいぞ」
「ピッタリしないこともあるけど」
そう応じたのはレミだ。
「ピッタリしない? どういうことだ?」
「何枚か余ることがあるの。三人だと、銀貨が二枚あまる可能性があるわ」
「二枚か……。まあ許容範囲だな。いいだろう。魔物退治で行こう」
話がまとまると、少女たちは小声でヒソヒソと内緒話を始めた。
「聖女さま、この男は文字が読めないのですか?」
「短いのはなんとか読めるっぽいけど、長いのはムリだね」
「割り算もできないとは」
「ねー、わりとヤバいよね」
イサキオスにはすべて聞こえている。
が、あえて反論しなかった。
金の計算が得意な人間とケンカすると、結局は自分が損をすることになる。いつもそれでぼったくられてきた。いまは我慢のときだ。
(続く)