さらば人界
玄関に入った瞬間から、しんと静まり返っているのが分かった。
ヤンは家具もないリビングに寝かされていた。ビール瓶がひとつ添えられている。
大袈裟な葬儀もできなかったのであろう。
「寝てるだけ……じゃないのか……?」
イサキオスの問いに、ヤスミーンは無言で首を振った。
たしかにヤンは動いていない。青白い顔で、自慢の赤鼻さえも黒ずんでしまい、空気の抜けたようにしぼんで見えた。
「死因は?」
「ずっと病気で……痛みをごまかすためにお酒を……」
ヤスミーンはそこで我慢しきれなくなり、しゃくりあげた。
ただの酒好きではなかったということだ。
イサキオスはなにも言えなかった。たった一度、味方として戦い、次は敵として戦った。長い付き合いとは言えない。
なのだが、多くを学んだ気がする。
人懐こくて、いい加減な性格で、しかし戦場での判断はズバ抜けていた。
「どこへ葬るんだ?」
「所定の共同墓地に……」
「そうか」
イサキオスは膝を折り、胸へ手を当てた。
祈りのほかに捧げられるものがなかった。
しばしの黙祷ののち立ち上がり、涙を拭っているヤスミーンに尋ねた。
「これからどうするんだ?」
「この家を売って、街を出ます」
「その先は? もしアテがないようなら、修道院に来ないか?」
ヤスミーンはジョークでも言われたと思ったのか、少し戸惑ったような笑みを浮かべた。
「私が出家を?」
「いや、修道院というか救貧院というか……。俺も住んでるんだ」
「そうですか。ありがとうございます。もしほかにアテが見つからなかったときは、ご厄介になります」
*
ヤスミーンと別れたイサキオスは、なんとも言えない気持ちで街を出た。
ヤンはあまり近所とも交流がなかったらしく、別れの挨拶に来る客人もいないようだった。だからヤスミーンは不憫な気持ちになって、街で見かけたイサキオスを追って酒場まで来たのだろう。
遺品はなかった。
まだ日は高い。
麦はすでに収穫されているから、吹き付けてくる風もあまりに寒々しい。
短い秋になりそうだ。
アラクネとエイミーはいつものように地下で作業でもしているのだろう。礼拝堂にはファラだけがいた。彼女は最前列のベンチの壁際へ腰をおろし、シンボルである「塔」を見つめていた。
「イサキオス……」
足を踏み入れるや、彼女は振り向きもせずつぶやいた。
「魔女も礼拝するのか?」
「いいえ」
なにか話があるふうだったので、イサキオスも少し距離をとって腰をおろした。
「レミはまだ怒ってるのか?」
「ええ。けれども気にすることはないわ。彼女、子供なのよ。感情のコントロールができていない」
「年の離れたあんたから見りゃ、まだガキだろうぜ」
「あら、私の歳が気になる? たしかに私は、見習いをするにはあまり若くないわ」
「あの婆さんは誰でも弟子にするのか?」
例の「ばばさま」は、なんだかんだ言って人を見捨てておけないタイプだ。入門者は全員受け入れているのかもしれない。
ファラは口元を抑えてかすかに笑った。
「誰でも、ではないわね。受け入れるのは、身寄りのない子だけ」
「ふん。立派な魔女もいたもんだ」
イサキオスの故郷でも、魔女が身寄りのない子供たちを集めていた。
彼女たちに言わせれば、それが「よきこと」だからだ。
イサキオスには両親の記憶がほとんどない。
話では、敵軍の略奪から逃れようとした両親が、このままでは子供を守り切れないと判断し、魔女の村へ「預けた」のだそうだ。事実かどうかは分からない。その後どうなったのかも不明。
村で育った子供たちは、働ける年齢になると外へ出される。しかし女子だけは、希望すれば残ることもできた。ただし残る場合、魔女としての修行を受ける。
イサキオスは、かつてリリスに尋ねたことがある。
「君も魔女になるの?」
すると彼女は、やや困惑した表情でこう応じた。
「なれないわ」
ならない、ではなく、なれない、だった。
素養はあった。
しかし魔族だから、村に残ることができないと判断したのだろう。
イサキオスはファラの横顔を見た。
じつに整った容貌をしている。作り物のようだ。
「もし俺が塔を攻撃すると言ったら、あんたどうするんだ? ついてくるのか?」
彼女はこれに微笑で応じた。
「もちろんよ。神を殺すことには興味があるわ」
「前向きだな。なにか理由でもあるのか?」
「単に好きになれないだけよ。大地の中心にあんな塔を建てて、人間を見下ろしてる」
それだけではないとイサキオスは感じたが、重ねて問うことはしなかった。
沈黙していると、ファラは言葉を続けた。
「でも戦いの前に、ちょっと寄りたいところがあるの」
「いいぜ。すぐに始めるつもりはないから、好きに行動してくれ」
「違うわ。あなたも一緒に来るの」
凍てついた瞳だ。
温度が感じられない。
「あんまり遠くには行きたくないんだが」
「遠いとも言えるし、近いとも言えるわね」
「ややこしい話は得意じゃない」
「魔界よ」
呼吸が止まりそうになった。
魔界――。
魔族の支配する領域だ。リリスもいる。
「行けるのか? いや、なにしに行くんだ?」
ファラは妖しくほほえんだ。
「リリスが本当のことを喋ってくれないから、親から聞き出そうと思って」
「その親が事情を把握してないから、代わりに俺が聞きに行ったんだがな」
「なにかヒントくらいはつかんでいるはず」
「それで魔界へ? 俺たちが行っても平気なのか?」
「いいえ。けれども、魔族ごときを蹴散らせないようでは、神々に勝てるわけがないわ」
もちろんそうだ。
そうなのだが、これはそういう話ではない。
「俺には時間がないんだ」
「魂を回復できるとしても?」
「回復? できるのか?」
ウソみたいな話だ。
だが、これまでもずっとウソみたいな話だった。魔女の仕事というのは、そもそもそういうものだ。
ファラはフフフとかすかに声を漏らした。
「死者の魂って、だいたいは魔界か神界へ行きつくものなの。エイミーみたいな例外を除いてはね。だから魔界へ行けば、魂を収穫できると思うわ。もちろん鮮度は落ちてるから、たくさん集めないといけないけれど」
これは甘言だ。
魔女の誘いに乗れば、破滅に身を投じることになる。
だが魔界にはリリスがいる。
また顔が見たい。会って話がしたい。今度はもう少しうまくやれる。
それがイサキオスの本音だった。
微塵も懲りていない。
「分かった。だがあくまで情報収集が目的だ。魔王軍とは戦わない」
「もちろんよ。私はレミみたいにおバカさんじゃないもの」
魔王軍と戦う理由はない。メリットもない。あるのは命を落とす危険だけ。それはファラにとっても同じはず。
「で、どう行くんだ? 空飛ぶ馬車でも使うのか?」
この質問に、ファラは駄犬でも眺めるような笑みを見せた。
「面白いことを言うのね、イサキオス。空飛ぶ馬車に乗りたかった? でも残念。移動手段は、いつも通りの魔法陣よ」
「そうかよ」
バカにされたのはさすがに理解した。
*
ファラの描いた魔法陣を抜けると、おそろしいほどあっけなく魔界へ到達できた。
蠢くような群青の空、虚無のような白い太陽、そして目にも鮮やかな赤い砂漠。
イサキオスがこれまで見てきたどの景色とも違った。
空気にも魔力が混じっている。ときおり吹き抜ける風は鋭い。
「で、魔王ってのはどこにいるんだ?」
いくら見渡せど、周囲にはなにも見当たらなかった。
砂から突き出した巨岩、あるいは枯れて黒くなった樹木、かろうじて生き延びている雑草、ヒビ割れた動物の骨。そういうものしかない。
ファラは微笑を浮かべているものの、しきりに周囲をキョロキョロしている。
「予定の場所よりも、少し離れた場所へ転移してしまったようね」
「少し? ここで干からびて死ぬ前に、もとの場所へ戻れるんだろうな?」
「そう願うわ」
表情には出ていないが、かなり焦っているのが分かる。
イサキオスは疑惑を先送りせず、ここでハッキリさせておくことにした。
「いますぐ戻りたいって言ったら、魔法陣を用意してくれるんだよな?」
「……」
「どうした? なんか言えよ」
ファラの答えはこうだ。
「周囲の魔力が濃すぎて、少し難しいわ」
「は?」
「大丈夫。もう少し薄い場所を見つければ、なんとかなるから。ほら、怒ってないで行きましょ?」
「……」
ファラは試験に合格した魔女だ。が、それだけだ。まだ一歩目を踏み出したばかりであり、一人前ではない。おそらくは戦闘だけが飛びぬけて得意なだけの新人なのだ。
イサキオスはゴクリと唾を飲み込んだ。
「分かった。いまは論争してる場合じゃないよな。行き先はあんたに任せるぜ」
多少の荒事には対処できるが、しかし彼は不死身ではない。食料と水を確保できなければ、さすがに命を落とす。
「もし私が先に死んだら、体を好きに使っていいわ」
「そうはならねぇから安心してくれ」
根拠はない。ないが、イサキオスは生き延びるつもりでいる。ここで仲間を死なせるつもりもない。情報収集が終わったら塔を攻撃するのだ。例外はない。
だが、それから何時間も歩いたが、まったく景色が変わらなかった。
無限とも思える砂漠。
道しるべもない。
持ち込んだ水筒はとっくに空だ。
強烈な太陽のせいで目もチカチカしている。
「ここ、さっきも通らなかったか?」
「さあ」
行けども行けども砂の大地だ。
何度も足がもつれて転びそうになった。
「このままじゃ日焼けしちゃう……」
ずっと余裕ぶっていたファラが弱気な声を出した。
イサキオスは振り返るほど親切ではないが、なにげなく足を止めた。
「少し休むか……」
「ええ」
岩陰で日差しから逃れ、ふたりは砂の上へ座り込んだ。
ひんやりしている。
「なあ、魔法で水を作れないのか? 前にたくさん氷を出してただろ」
「ムリよ。この空間には水気が存在しないもの」
「つまり俺たちもああなるってことか」
イサキオスの視線の先には、巨大な頭蓋骨が転がっていた。どんな動物の遺骨かは分からない。原形さえ失われている。
ファラが返事をしなかったので、イサキオスは砂をつかんだ。
「この赤い砂はなんだ?」
「さあ」
「なにも知らないんだな。魔界へはよく来るんじゃないのかよ?」
するとファラは、か細い指で、うんざり気味に額の汗をぬぐった。
「ばばさまに何度か連れてきてもらっただけよ。ひとりで来たことはないわ」
「だろうと思ったぜ」
しかし素直に白状したことは、イサキオスにとってはマイナス評価ではなかった。この期に及んでまだウソを重ねるようなら、今度も協力できるとは思えない。いまある能力だけでやり過ごさねばならないのだ。どんな能力があるのか互いに正しく把握しておかねばならない。
「いま使えそうな魔法は?」
「小石を飛ばすくらいなら」
おそらくジョークのつもりだったのだろう。
イサキオスはしかし真に受けた。
「あの頭蓋骨ならどうだ? 飛ばせそうか?」
「なにをさせる気? 遊んでる気分じゃないんだけど」
「派手になにかを打ち上げれば、誰かが気づくかもしれない」
その誰かは、必ずしも好意的な人物とは限らない。
なにせふたりは、魔界へ入り込んだ侵入者なのだ。どんな方法で排除されてもおかしくはない。
(つづく)




