善悪は問わない
肉体が、人であることをやめようとしている。
針葉樹の密集した深い森である。しかして旅人を導くかのように、ただ一本の道がまっすぐに伸びている。
やわらかな春の日差しのおかげで、鬱蒼とはしていない。もうすぐ昼を迎えようかという頃合い。
姿は見えぬが、小鳥たちのさえずる声もする。
道の先には神殿があり、守護神が鎮座しているはずだ。ここは神域。人が訪れるような場所ではない。
男は、一歩踏み出すたびに、力のこもった足が変異しそうになるのを感じた。
数年前、魔女と契約した。神と戦う力を得るためだ。その力が、身体を魔物に変えようとしていた。
安易なことをしたかもしれない。
しかし神々を鏖殺するためには、ほかに手がなかった。
ハルバードを杖代わりに、男は道を進んだ。
たいした装備ではない。武器だけは少し高めのものを購入したが、防具は安物の革鎧だ。ところどころ木の板で強化している。
こつこつ金を稼いでいる時間はなかった。
そよりと風が吹く。
すると体内で暴発せんとする悪意がやや鎮まる。
そう。
男は、この神域のもたらす力に癒されていた。これから殺すべき相手の力に、だ。
はたして自分のしようとしていることが正しいのか、そんなことは分からない。ただし憎悪は、目をつむればいくらでも湧き出してくる。
神々は白亜の塔に住んでいる。
天を貫かんばかりの高さだ。
この森からでも見える。
塔は守護神の魔力で保護されているから、人が近づくことはできない。だから塔へ攻め入ろうと思ったら、まずは各地の守護神を撃破しなければならない。
守護神は六体。その一体目が、この道の先にいる。
しかし長い道だ。行けども行けども先が見えない。
男は手ごろな岩を見つけ、そこへ腰をおろした。疲れてしまっては神と戦うどころではない。
背負っていたバッグを地面に置き、ハルバードを木へ立てかけた。一方へ振れば戦斧となり、一方へ振れば戦鎚となり、正面に突けば槍となる。人間相手に使ったときは、よく機能した。おそらく神とも戦えるであろう。
彼が少年であったころ、とある小さな村に暮らしていた。
思い返せば不思議な村であったかもしれない。住んでいるのは老婆と子供だけ。たまにいずこから子供が連れられて来る。そして子供は大きくなると他の村へ出る。女はそのまま居残る場合もある。
しかし男の記憶によれば、それだけの無害な村であった。
なのにある晩、神々の軍勢が現れ、村を破壊し始めた。魔法がけたたましい音を立て、火の手が上がり、巨大な馬に乗った甲冑の戦士が駆け回った。
幼馴染の少女は槍で貫かれ、天へと掲げられた。
少年は恐怖にすくみ、抗議の声ひとつあげられなかった。ただ物陰に身を潜め、軍勢の過ぎ去るのを待つので精一杯だった。
すべてが破壊された。
家々も、柵も、櫓も、なにからなにまで蹂躙された。少女と遊んだ水車のオモチャも、粉砕されてただの木片と化した。
殺害された人間たちも、ほとんど原形を留めていなかった。
神々の軍勢は、一通り村を攻撃すると、すぐさま兵を引いた。一言も声を発することなく、顔も見せず、ただ作業のように村を破壊し、略奪もせずに去ったのだ。
男は復讐を誓った。
神を殺す。
ほとんどそれだけのために人生を捧げてきた。魔女と契約し、賞金稼ぎをしながら神々の情報を集めた。体が魔におかされる前に、すべてを片付けねばならない。
ふと、近くの地面が泥のように波打った。
男は動じない。なにが起こるかは分かっている。
土くれが隆起し、老婆の姿になる。深緑のフードをかぶり、木の杖を手にしたしわしわの魔女だ。
「臆したのかい?」
魔女は目を細め、嘲笑するように告げた。
こうして男の憎悪を煽り、またよからぬ契約を迫るつもりなのだ。
「少し休んでいるだけだ。邪魔するな」
「おやおやおや、殺気立ってるみたいだね。けれども、そんなにピリピリしてちゃ思うように戦えないよ。あたしの力が要るんじゃないのかい?」
「ふん。お前が守護神を殺してくれるとでも言うのか? 代償はなんだ?」
すると魔女はキヒキヒと奇妙な笑い声を漏らした。
「あたしゃ戦わないよ。もう歳だからね。代わりに新人を出すよ。修行中の見習いさ」
「強いのか?」
「あんたよりはね。ただし生意気なヤツだから、あんたの思い通りに動くとは限らないよ」
「銀貨で雇えるのか?」
「まさか。代償は魂さね。それ以外は受け取らないよ」
彼女はいつでも「魂」などというよく分からないものを要求してくる。支払うとどうなるかは分からない。ただし契約してからというもの、肉体が変異しようとしているから、これを続ければ遠からず魔物になるのであろう。
男は鼻で笑った。
「失せろ。自分の力でやる」
「そうかい? ま、気が変わったら呼んでおくれ。地べたにはいつくばって虫の息になったとしても、呼ばれりゃすぐに応じるつもりさ。生きてさえいればね」
それだけ告げると、また土くれになってボロボロと崩れ落ちた。
命令に従うかどうかも分からない「修行中の見習い」のために、魂を支払うことなどできない。ただでさえ時間がないのだ。その時間がさらに短くするのは得策とは思えなかった。
だいたい、魔女ごときが神に勝てぬのは、男が一番よく知っていた。破壊された故郷は魔女の村だった。応戦した老婆たちも腕のいい魔法使いだ。しかし勝てなかった。炎も稲妻も通じなかった。なんらかの加護が働いていたのだろう。魔法ではダメなのだ。よく鍛えられた鋼鉄でなければ。
男は立ち上がり、旅を再開した。
歩を進めるにつれ、やがて気配のようなものを感じてきた。
いる。
青々とした木々に囲まれた白亜の神殿が、突如目の前に現れた。
ガシャンと重々しい金属音。神殿から出てきたのは、人の倍はあろうかという巨大な甲冑の守護神だった。武器は有していない。
彼は……あるいは彼女かもしれないが、歌を歌った。
「人の子よ望むなかれ。ただ大地を耕して、機を織り、それのみに足るを知るべし。人の子よ望むなかれ。さもなくば天が落ちる。さすれば混沌が来たる。人の子よ望むなかれ。天は涙する。愛のために」
それは故郷の村に伝わる歌だ。
なぜこの守護神が口ずさむのかは分からない。あるいは男が例の村の出身であることを察知し、威嚇のために使ったのかもしれない。
男は構わずハルバードを構えた。
「死んでもらうぞ」
前置きはいらない。命を奪うためだけに来た。
力いっぱい大地を蹴り、男は猛然と突進した。
守護神の顔面を覆っていたバイザーが開いた。中は空洞。ただし、光に満ちていた。
それは強烈なエネルギーを帯びた光線となり、周囲を薙ぎ払った。
直撃を受けた木々が切断され、次々に倒れた。
男はとっさに身を伏せたものの、ほとんどギリギリだった。軽装でなければ回避できなかったことだろう。
ほっとしている暇はない。ハルバードを構え、ふたたび駆け出す。
「人の子よ……」
守護神が憐れむような声を出した。
どこからともなく長い棒を取り出し、横へ振るった。想定外の攻撃だったから、男は回避さえできず直撃を受け、森の中へ転がされた。追撃の光線がすぐ真上を通り抜けていった。
身体がバラバラになりそうな衝撃だった。
実際、肋骨が折れ、内臓もいくらか叩き潰されたかもしれない。しかし男がのたうっていると、急速に痛みが引いていった。すでに、なかば人の体ではない。魂を売り払って力を得たのだ。
男が転がると、少し遅れて光線がそこを焼き払った。
かなりの熱線であるにも関わらず、森が炎上しないところを見ると、なんらかの加護が働いていることが分かる。
男は身をかがめ、なんとか守護神の背後に回り込めないかと隙をうかがった。が、守護神はだいたいの位置を把握しているのか、頭部を動かさない。キョロキョロしてくれればいいのだが。
大地が隆起し、魔女が現れた。
「あんたはこう考えてるね。あいつの注意をそらすことができれば、近づいて刺すことができるのに、って」
「失せろ」
「そう簡単に行くかねぇ」
「黙れ」
ハルバードを振るうと、老婆は土くれとなって崩れ去った。
その動作で守護神も気づいたのだろう。またしても光線を放ってきた。男はほとんど地べたに寝転がってそれを回避した。
光線をなんとかしないことには、近づくことさえできない。仮に近づけたとして、今度は棒で殴り飛ばされてしまう。ふたつの攻撃を回避できなければ、攻撃のチャンスさえないのだ。しかも攻撃がヒットしたところで、空洞の甲冑に人間の技が通じるのかも不明。それでもやるしかない。
男は茂みに隠れながら、なんとか横へ横へと移動した。
守護神は向きを変えない。
これならサイドから攻撃できるかもしれない。
「人の子よ……」
巨人まだ虚空へ呼びかけている。
もし戦いたくないのであれば、ハナから村へ攻撃を仕掛けるべきではなかった。ところがそれは始まってしまった。とすれば、もはや選択肢はいくつもない状況だ。
男はハルバードを握りしめ、呼吸を整えた。
茂みから飛び出すのだから、ガサガサと音がするだろう。そうなれば守護神も向きを変える。動きは素早くないが、だいぶ距離がある。到達まで十歩弱。光線か棒のどちらかは来る。あるいは両方来る。それでもやるしかない。
柄を握りしめ、男は意を決して飛び出した。
守護神の頭部がくるりとスピンしてすぐに男のほうへ向いた。照射される光線。男は思い切って飛び込んで回避。続いて棒がしなりながら空を切って襲い掛かる。これも大きく跳ねて回避。間違いなく一撃はいける。男は全身の体重を浴びせ、ハルバードの先端で突き込んだ。
瞬間、魔力がスパークするのを見た。
バリアにヒットしたのだ。しかも攻撃によるエネルギーに反応し、強烈な爆発を起こした。
男は宙を舞っていた。
飛ばされながらもバランスを取ろうとしのだが、感覚に異常があった。両腕が千切れ飛んでいたのだ。その右腕を光線が焼き、そして左腕はどこかへ落ちた。
男も、背中から森の中へ墜落した。
喉の奥から内臓を突き上げられるような衝撃。呼吸ができず、意識が遠のきかけた。
この程度で死ぬことはない。
だが、腕が生えてくるまでは数日かかかる。回収もできない。このまま森に放置されたら、動物たちの餌にされてしまうことだろう。
地面から魔女が出てきた。
「呼んだかね?」
「呼んでねぇよ……」
しかして、いよいよ彼女の口車に乗るほかないようだった。
(続く)