1 ドラゴンと危機一髪
私はいま、竜の背に乗って夜空を飛んでいます。
いえ、これがゆっくり星を眺めながらの空中散歩とかだったら、どんなに素敵なことでしょうね。
ただ、今は、風で髪やケープが猛烈にバタバタして、もし腕が限界を迎えようものなら最期、本物のお星さまになってしまうにちがいない、命の危険が危ない状況なのです。
あ、やばい、直滑降。
お腹がぎゅーんって、吐きそう。
だけど、こんなところで弱気になってちゃいけない、のです。
私は踏ん張って、がんばって、背びれのトゲトゲに手をかけて、しっかり頭のほうに向かいます。
うっ、地面すれすれで、今度は急上昇!!
……からのすぐさま急停止!?
目が回る。
視界が一瞬、真っ暗になる。
ぶわっと身体が浮いて、放り出されそうなところを指先だけでどうにかこらえて、爪が割れそうなくらい痛かったけど、ぎりぎりで持ち直すことが出来ました。浮いた身体が戻るときに、硬い鱗に胸を打って泣きそうになりましたけど。
とにかく、両腕を回しても余るほど太い竜の首根元に抱きついて、ホッとひと息。
でも安心したのは束の間です。
前のほうで、ガチガチガチッと、石をこすり合わせたような鈍い音が鳴っているじゃないですか。
私はギョッとしました。
だってさっきの音は、聞き間違えるはずありません。竜が牙を打ち震わせて、火を吹く合図。準備運動みたいなものなのですから。
竜はゆっくり羽ばたいて宙にとどまり、頭を垂れています。
月が照らす真下には、ちらほらと灯りが見えます。ぼんやりしたランプの灯が、藁のカーテンの編み目からこぼれているのでしょう。
夜でも家の形がうかがえるこの近い距離で、火なんか吹かれたらひとたまりもありません。ここら一帯が焼け野原になること確実です。
「だー、ダメですソラ様!! ダメダメ、ダメーッ!!」
私は竜の名前を叫び、慌てて立ち上がりました。
命綱なんて付けてる暇はありません。
首をすべり降りながら、私は腰に差している金槌を抜きました。
ゴオォォォォォッと、風の荒れ狂うような音と響きが、竜の口のなかで暴れています。
これはもう、まさに火を吹く寸前も寸前です。
こうなったらもう止まりません。止められません。
止められないなら、せめて向きを変えるまで。
この竜には五本の角がまっすぐ生えています。
右手には野菜畑が広がっていて、左手には山がそびえるこの場所で、どちらにも被害を出させないためには、私が狙うべきは真ん中の一本。
「ソラ様、ごめんなさい!!」
勢いに乗せて、腕がしびれるくらいに思いっきり、金槌で角を叩きました。
すると跳ねるように頭が振り上げられます。
乗っている私自身はまた放り出されそうになるのですが、そこは根性。角に抱きついてこらえました。
同時に、ものすごい轟音といっしょに竜の火が吹かれました。
火は渦を巻きながらふくらんで炎の波となり、遠くの星々までも呑み込まんばかりの勢いで空を赤く染める……という感じだと思います。多分。
多分というのは、だって、熱すぎて、目とか開けていられませんからね。でも、小さい頃に見た炎が、そのくらい凄かったのは確かです。
ともあれ、あのままだったら村が全滅するほどの大惨事になるところでしたが、私のがんばりと機転のおかげで、どうにか物見やぐらとヨハンさんの家の屋根とヤコポさんの倉の壁とヨセフさんの庭の木とかが燃えるだけで済みました。
うん。よくやった、私。
なんて自画自賛している場合じゃありません。
二発目をやられる前に、落ち着かせなきゃ。
すぐさま私は首元の留め具を外し、脱いだケープを振りかぶりました。
ところで、実はこのケープ、ただのおしゃれアイテムではございません。
折りたたんだまま着られるつくりになっていて、普段は腰に届くかどうかの長さにしているですが、こうしていざというときには私の身体よりも大きく広げられる便利グッズなのです。
これを、竜の顔に覆いかぶせて目隠しに使います。
視界をふさがれた竜は、ガァッとひとこえ鳴いてから、首を右に左にと振りはじめました。
人間が目をつむったまま走ったりできないのと同じように、竜だって何も見えない状態では空を飛んでいられないみたいなんですね。
正確には「飛びたくない」と言うべきかもしれませんが。
だからこれが、きっと最後の根競べになるでしょう。まず私を振り落とそうとして、それが無理だと思って諦めたら次は、降りておとなしくなるはずですから。
ちなみに私はいま、頭を下にしたエビ反りで、角にからめた足だけで身体を支え、曲芸師もびっくりの体勢です。
なので、早く止まってくれないと、その、足が、ももが、ふくらはぎが、つら、つる……。
――あ、やばっ!!
ズルッと足が解けてすべる感触。
ぞわっと全身の毛穴が開く感覚。
「うわぇえぁやあぁあ…………ぎゅむっ!!」
まっさかさまに落ちて、びたーんと地面に叩きつけられました。
我ながら乙女にあるまじき悲鳴を上げてしまいましたが、思ってたより高くはありませんでした。命があるだけよしとしましょう。
口に入った土を吐きながら、節々のひどい打身の痛みに耐えて、どうにか身を起こします。
すると、目の前に私の顔くらい大きな穴が迫ってきました。
その穴は、すんすんと品定めするように私の匂いを嗅いでいます。
正直、私は体力の限界です。もう立ち尽くすことしか出来ません。
やがて、おもむろに竜の大顎が開かれました。
生ぬるい吐息が私を包みます。
立ち並ぶ牙は、まるで岩山みたい。
もし、もしこの竜が邪悪な存在で、人を喰らう凶暴な怪物だったりしたなら、すぐにでもこの小さな命の灯なんて消えてしまうことでしょう。
まだ若いのに、ああ、なんて健気で可哀相な私!!
「やあー、ステラ。こんばんはー」
……などと昔話みたいな生贄のお姫様ごっこにちょっぴり興じていた私に、竜は鼻息を浴びせて、のんびり話しはじめました。
竜神、竜王、エルダードラゴン、グランドレイク、天の支配者、太陽の化身……などなど、彼の雄大さを称える呼名は古くからたくさんありますが――
「きょうは、月がきれいなー、いい夜じゃねー」
「ソラ様、やっと落ち着きました?」
「あー、ところで……ごはんはまだかいなー?」
「さっき食べたでしょ!!」
まあ実際はこの通り、中身はただの、ボケたおじいちゃんなわけです。