狐少女の面影
それは狐坂高校の2学期の出来事だった。この高校は、人間の高校なのだが、ひとりだけ勘違いして入学してしまった狐がいた。その狐が玉子だった。
玉子は美しい狐だったので、美しい女子生徒に化けた。ところが、どこか自分は人間ではないという暗さがつきまとっていた。
同級生の俊二は、玉子にどうしても告白したいことがあった。入学してからというもの、俊二の心の中にはずっと玉子がいた。その存在は、いつしか、あまりにも大きなものになりすぎていた。
ある日の放課後、俊二は、玉子を校舎の屋上に呼び出した。夕焼けが、なんだかひどく物悲しく感じられた。
しばらく、ふたりは夕焼けを黙って眺めていた。なんと言ってよいか分からなくなっていた。
「ねえ、話っていうのはさ……」
俊二は、そう言って玉子の方を見た。しかし、思わず口ごもった。なにか怯えているようにさえ思える玉子の真っ黒な瞳を見ていると、俊二はものを言うのがこわくて堪らなくなった。
これを口にしたら、もう玉子との関係が終わってしまうのではないか、という嫌な予感がした。そして、玉子はもう自分に話しかけてくれなくなってしまうのではないか、という不安が胸をかき乱してゆくのだった。
「どうしたの? 俊二君」
玉子は心配そうに尋ねてきた。
「うん……」
俊二は、はっきりと答えずに、やはり夕焼けを眺めた。
その時、俊二は玉子とはじめて出会った入学式のことを思い出していた。あの日、無垢な桜の花が咲いていて、それはとても綺麗だった。天気は晴天で、一面の青空の下、俊二たち入学生は不安と希望で胸をいっぱいにしていた。むしろ、不安の方が勝っていたと言えるだろう。そんな時に、前の列に立っている玉子の横顔をはじめて見たんだ。なんだか、とても美しい女の子だと思った。
それから、はじめて教室で話しかけた日のことを思い出した。なんだか、不安そうに、教室の片隅の机に、ひとりで座っている玉子を励まそうと思って、俊二は、不器用なエールを送っていた。玉子は、内容はともかく、偽りのない笑顔を送り返してくれた。
それから、あれは梅雨の出来事だった。その日は大雨で、教室には玉子がひとりで残っていた。俊二は、玉子に傘を貸したのだった。俊二は一人、濡れて帰るつもりだったが、玉子は、俊二君も一緒に帰ろうと言ってくれた。それでも、相合い傘は恥ずかしくて……何も喋らない方が気まずくて恥ずかしいと分かっている癖に……お互いに何も言えなかった。
こうして、ふたりは仲良くなった。そして、いつの間にか、お互い、特別な存在となっていた。そして、今、俊二はずっと想っていたことをありのままに打ち明けようと思っていた。
俊二は勇気を振り絞って、玉子に言った。
「玉ちゃん、僕は……」
玉子ははっと目を見開くと、顔を背けた。
「言わないで……」
「えっ」
この時、玉子は、俊二が言おうとしていることが何か分かっていた。それは本当に嬉しかった。だって、俊二以上に玉子の気持ちは熱かったのだから。
それでも、玉子は狐だった。玉子は俊二と両思いであっても、それは結局、叶わぬ恋だと知っていた。だから、玉子はこの言葉だけは聞きたくなかった。玉子は俊二に告白をしてほしくなかった。その言葉を聞いた途端、全てが終わってしまうことを知っていたのだから。
「た、玉ちゃん……?」
「ねえ、俊二君、もう会うのは終わりにしよう」
「えっ、どうして……」
俊二は驚いて、問い質そうと思ったが、玉子の真剣な瞳を見て、思わず口ごもった。玉子は決断をしたのだ。それでも、自らの秘密を告白することができずに、ただ無言のまま、俯いて涙を流していた。
「……俊二君、ごめん!」
玉子は涙を拭うと、踵を返して、その場を去った。俊二は、声を出して呼び止めようとしたが、もう既に遅かった。俊二の声は空に消えていった。玉子の姿はもうそこにはなかった。
……夕焼け空は、次第に暗闇に包まれていった。
次の日、教室に玉子の姿はなかった。そして、誰も玉子のことを知るものはいなくなっていた。玉子は、幻のように記憶から消えていたのだ。それは、玉子が狐だからこそ出来た幻術だった。全てを夢と思わせてしまうことだった。
ただ、それからしばらくしたある日、俊二は身に覚えのない狐のぬいぐるみが、郵便受けに届けられているのを発見した。その狐は、女の子らしく、リボンがついていた。俊二は、このぬいぐるみの意味が分からなかった。それでも、そのぬいぐるみを見ていると、なんだか、懐かしく感じられて、悲しくもなるので、捨てずに今でも部屋に飾っている。
……俊二の記憶のどこか片隅には、玉子の面影が残っている。俊二はふと思い出すのだ。名前の知らないあの人として。夢の中のあのどこか懐かしい面影として……。