まちがいでんわ
瞬くと、止め処なく行き交う人々が滲んで見えた。
このままでは泣いてしまう。
駅の改札に吸い込まれる雑踏の揺れにも耐えられないほど瞼に涙が溜まっていた。
思わず空を仰ぐ。
真夏のそれはどこまでも晴れ渡り、雲ひとつ見て取れない。
溜まる一方の涙を一思いに拭い去り、よろけながらも改札にたどり着く。
きっと化粧は崩れている。
ヒールに踵を削られ、歩くのもままならない。
周りの目には、自分がリクルートスーツに着られた冴えない就活生に見えていることだろう。
どうしてこんな時に限って携帯電話を忘れてきてしまったのか。
今は誰でもいいから、とにかく話したい。
話さなければ泣いてしまう。
そう思ったところで、視線はふとそれに留まった。
私の人生でどれだけそれのことを忘れていたか知らない。
ただ、その時はそれが希望の灯火のように思えた。
そして私の拙い足取りは、改札横に佇む寂し気な公衆電話のもとに吸い寄せられていったのだった。
※※※
覚束ない記憶を頼りに慣れない手つきでプッシュボタンを押し、縋るように受話器を握り締める。
「就活、全然ダメだった」
電話が繋がると同時に我慢していた一言が口から溢れた。
心の中で反芻していた自分への確認の言葉。
その言葉が零れた瞬間、一気に抑え込んでいた感情が暴れだし、公衆電話に覆いかぶさる形で泣き崩れた。
不甲斐なさ、後悔、自分への怒りが震える吐息と共に漏れる。
私はその日、何年も前から準備していた第一志望企業の採用試験に失敗していた。
社風や社会的功績、将来のビジョンを踏まえた志望動機を持ち、どんな問いにも答えられるという自負を持って臨んだ挙句、本番では理想とかけ離れた受け答えしかできなかった。
本気で臨みすぎて、飲まれてしまった自分がいたのだ。
「絶対遅れたくなかったから一時間前に到着して近くの喫茶店で待ってた。新橋に着いたところまでは完璧だった。でも、面接会場が入っているビルを見ると、見上げるのも大変なそこのエントランスにとっても優秀そうな人たちが次々と飲み込まれていくの。それを見ていたら、私なんかがここで働けるのかなって思っちゃって・・・それからはまともに何も考えられない状態になっちゃった」
捲し立てた後、鼻をすする。
「私、もうだめかもしれない。ずっと行きたくて、そこで働くのを夢見て今まで頑張ってきたのに。もう、自分が信じられない。この先、何をして生きていけばいいのか……」
そこまで話すと、遠くで行き来するゆりかもめを呆然と眺めた。
こんなに悲しんでいるのに、世間はどこまでも平常運転———。
日常の風景を残酷に感じ始めた時だった。
「———あの、どちらに掛けていますか」
受話器の向こうから今にも消え入りそうな若い男性の声が聞こえてきた。
自分の家族に若い男性などいない。
ましてや聞き覚えのあるような声でもなかった。
「どちらさまですか」
パニックになった私は、逆にそう問うた。
「僕はムロヤと言います。ムロヤシュウヘイ」
私は頭をフル回転させ、律儀にそう名乗る青年の名前と顔を一致させようと試みた。
が、人生の中でその姓名と知り合いになった記憶などないように思えた。
「あの、大丈夫ですか?」
いつまでたっても鼻をすすってばかりの私を見かねたのか、ムロヤ青年は一つ咳払いをした後、そう訊ねた。
「ごめんなさい」
「なにが?」
「まちがいでんわ」
「ああ、わかってますから」
何番に掛けたのですか、と訊かれ応えると、彼の電話番号が母のそれと一箇所違いだったことが分かった。
「最後の番号を押し間違えてしまったようですね」
彼はそう言ってカラカラ笑う。
受話器の向こう側から遮断機が下りる音が聞こえる。
どうやら移動中のようだった。
「あの、お忙しいでしょうに本当にご迷惑をおかけしました」
受話器を置こうとする手を、待って、という声に制される。
「今日、大変だったようですね」
青年の問いに自分が晒した醜態を思い出す。
「本当に見苦しいところをお見せしました」
「まあ、見てはいませんけどね」
もっともな指摘にさらに恐縮してしまう。
「公衆電話から着信なんて、初めてでしたよ」
「そうですよね」
「確か、ゆりかもめからJRの改札に行く途中に、ありましたよね」
「ええ、そうです」
「結構ひっそりとした場所にある」
「そう、その通り」
私は問われるままに辺りを見渡し、景色を確認する。
そしてようやく疑問を抱いた。
「よくご存じなんですね」
「ええ、そりゃあ、ね」
「もしかして、鉄道マニアの方ですか?」
素っ頓狂な私の問いに一頻り笑った後、彼は咳払いして場を改めた。
「あなたは、運命を信じますか」
そしてムロヤは冗談を一つも含まないような大真面目な声でそう問うてきたのだった。
「どういうことですか」
青年の言葉の意味を把握できないでいるうちに、私の目の前に一台の自転車が止まった。
「そういえば、名前もまだうかがっていないですね」
その青年は、携帯電話を切りながら私に微笑みかけた。
急いできたのか、息が上がっていた。
いや、本当に急いで来てくれたのだ。
ジャージとサンダルという起き抜けで着の身着のままの恰好で佇む彼を見て、私は思わず吹き出してしまう。
「少しは落ち着かれましたか」
ムロヤは寝癖頭を掻きながら私を見守り、どこか安堵を含んだ声でそう告げた。
「あなたがあまりに辛そうな声を上げていたので、居てもたってもいられなくなったのです」
急いでいて全然格好のことなんて気にしなかった、と笑う彼を見て、私は自然と頬が緩んだ。
「わたし、信じてみようと思います」
「え?」
「さっき言ってた、運命ってやつ」
自分が発した言葉に少し怯みつつ、彼は気を取り直して再び力強く頷いて見せた。
「公衆電話で番号を間違ったのも奇跡。その電話を取れたのも奇跡だと思う。それが自分の住んでいるところの近くからだったなんて奇跡。すべてが運命で導かれたようにしか思えません。今まではもちろん、そんなことなんてなかったし、そんなことが起こるなんて思ってもみなかった。でも今日、僕はあなたとこうして会えた。あなたが痛んでいるなら、助けに行かなくちゃと思ったんです」
ムロヤ青年は興奮気味にそう告げた後、少し我に返って私を改めた。
「すいません、一人で舞い上がってしまって。迷惑ですよね」
「迷惑だなんて、そんな」
恐縮する彼の姿が愛らしく思えた。
「私、嬉しいです」
だから、初めて会った男性にも素直にそう応えられた。
彼は私の言葉に戸惑いながらも、負けないくらい嬉しそうな顔をしてくれた。
「ここじゃなんだから、どこかで落ち着きましょう」
「え?」
「いや、自分が慰めてあげられるなんて思っていないんですけど、せめて愚痴くらいなら隣で聞いていられると思ったんで」
そう言うムロヤの態度があまりにも場慣れしていない感じで、だから警戒せずに首を縦に振れたのだった。
★★★★★★★
喫茶店に入ると色々な話をしたが、結局、愚痴など高が知れていた。
私たちはすぐに自分たちのことを紹介し始めた。
彼の名は室屋周平。
私の一つ上の22歳。
新橋に通う会社員。
野球と将棋が好き。
お酒はたまに飲む。
現在、一人暮らし。
彼女は3年いない。
自称無口、らしい。
「今日はいっぱいしゃべるんですね」
意地悪な質問に困る姿が可笑しくて、私はつい挙げ足を取るような真似をしてしまう。
「あなたに元気になってほしいから」
でも、そんな返答を受けて、かえって申し訳なくなる自分がいた。
★★★★★★★
「今日は本当にありがとうございました」
レジに向かう背中にそう告げるも、青年は首を振るだけだ。
「今度、お礼させてもらえますか」
だから、勇気を出して声を上げた。
「お礼なんてそんな。おれ、何もしてないし」
なんとなく残念な気持ちが広がる中、男は、あっと声を上げる。
「ごめん、急いでたから財布忘れちゃったみたい」
そんな情けない顔が微笑ましかった。
私はふくれっ面をして見せた後、財布を取り出す。
「女性にお金を出させるなんて」
イタズラ心で告げた言葉に、
「必ずお金は返すから」
と本当に申し訳なさげに彼は謝る。
「じゃあ、また会ってもらえますか」
そう言うと、今度は照れながらも頷いてくれた。
「また、電話します」
ああ、といって彼はメモを取り出そうとするが、私はそれを制す。
「大丈夫です。もう憶えましたから。っていうか、もう忘れないと思います」
そう言いながら、ムロヤ青年に晴れやかな笑顔を向けた。
※※※
外に出ると、やはり駅前広場から幾重にも交錯する雑踏が目に飛び込んできた。
一瞬立ち止まった私は、でももう委縮することはなかった。
涙はもう忘れていた。
そして心晴れやかに、三歩先を行く寝癖頭の青年の後を追ったのだった。