新しい貴方
鼻をつく油の臭いで、僕は目を覚ました。
いつのまにか、眠ってしまっていたようだ。
目の前が朱色に染まっている。飛び上がる心臓を抑えながら、僕は思わず自分の顔を擦る。
手には・・・何もついていない。
あぁ、びっくりした。
目の前にあるのは傷ついた朱色のカウンター。曇った胡椒入れ。剝げたケースに入った割りばし。厨房を覗けば、ステンレスの寸胴が見える。壁にかかった黒板には、僕の知らない文字が並ぶ。
ラーメン屋か。
図書館にいたはずの自分が何故こんなところにいるのだろう。
誰かいませんか、と僕は呟く。
返事はない。
店内は灯りもついており、営業時間外という訳ではない様子だ。
僕は立ち上がり、壁に貼ってあるメニューや広告を眺めた。
壁を埋め尽くすそれらは、見たこともない文字で書かれている。
ここは一体何処なのだろうか。
そんな疑問は浮かんで来たが、不思議と気持ちは満たされていた。
他に見るものは特に無かった。
客席は僕が座っていたカウンター席が5つのみ。
小さな厨房は、客席から見えている通り。
メニューが読めないため、何を提供しているのかは定かではない。
だが、この店に関係する誰かが僕を此処に連れてきたことは確かだ。
やがて玄関のカウベルが鳴り、誰かが入ってきた。
一人の中年男性。
白いワイシャツに焦げ茶色のカフェエプロン。
お店の人だ。
白い紙を隠すように黒いバンダナを巻いている。僕と同じくらいの身長で、懐かしい顔。
彼は日本語で、イトイズミと名乗った。
全てを知っているかのような顔つきだった。
訊きたいことは、山ほどある。
「自分で決めなさい。」
彼はそう言うと、厨房に入っていってしまった。
それからというもの、僕はこの店で暮らすことになった。
どういう訳だか知らないが、僕自身もイトイズミさんも、自然と僕がここに住むことを決めていた。
居心地は、良かった。
店には時々客が来て、一杯のコーヒーを飲んで帰る。イトイズミさんが寸胴に触れることは全く無かった。又、客が僕の存在に触れることも無かった。
それでも僕は、毎日店に出た。僕の仕事は何も無いし、イトイズミさんと会話を交わすということも無いが、それでも二階よりは居心地が良かったのだ。
この店の二階は、イトイズミさんの住居だった。綺麗に片付いた部屋だった。
それもそのはず、家財道具は一式の白い布団だけだったからである。
イトイズミさんはその布団さえ僕に譲り、毎晩何処かへ出掛けて行く。
最初、この部屋は何故居心地が悪いのか分からなかった。数日経って気が付いたことだが、この部屋、いや、この建物には窓が無いのだ。窓の無いすっきりした部屋なんて、まるで独房である。
僕はそのうち、一階の店内で眠るようになった。
そんな生活を続けていたら、2月ほど経った。
今日も何もすることがない。何の変哲もない生活。一番奥の丸椅子が、僕の定位置だ。
僕は読めない広告を眺めながら、朝のコーヒーをすする。
飽き飽きした香りだけが、頭を突き抜けていく。
カランカラン。
今日もまた、玄関のカウベルが鳴る。
コツ・・・コツ・・・
女の人か。珍しいな。
「・・・いつもの、頂戴。」
掠れた声が、僕の心臓を抉る。
どうしよう。振り向くことが、できない。
知っている。
心地悪い圧力が、全身を支配する。
僕は、この人を、知っている。
「どうした、トグチさん。」
「いつもの。」
「また、か。」
「そう、いつもの。」
そう言って彼女は、僕と席を一つ空けて座った。
心臓は、さらに強く動く。
「はい。いつもの。レッカ・スペシャルだ。」
「レッカって呼ばないでよ。」
トグチレッカ。
聞いたことのない名前だ。
僕はこの人を知らない。
全身の力がすっと抜ける。人違いだったか。
その人は、綺麗な人、とは言えなかった。
ぼさぼさの痛んだ髪。幼い顔によれた口紅。毛玉だらけの真っ黒な服を見事に着こなしている。
子どもなのか大人なのかも分からないその人は、どんぶりに入ったウインナーコーヒーをれんげですすっている。
怖い。
僕は席を立ち、厨房に入ろうとした。
「どうして、逃げるの。」
彼女は僕にそう話しかけた。
「知っているんでしょ、私のこと。」
全身の血液が、一瞬止まった。
「だって貴方は、私なんだもの。」