軽微な綻び
静まり返った住宅街。
お一人様の足音が、やかましい。
月の半ばの日曜日。五月蠅いぐらいに晴れた空。
暗いトーンのファストファッション。
950円のイヤフォンから流れる薄っぺらなJポップ。
スニーカーに縫い付けられたエヌの文字が僕の足取りを重くする。リュックサックにはほとんど何も入っていない。
小さいくせに分厚い教科書が一つ、僕の背中に当たる。
蒸し暑い夏休み。真っ白なスケジュール。
家にいたところでどうしようもないから、僕は図書館へ向かう。
古ぼけた住宅街を抜けて、右折。
あの日の通学路には人っ子一人通っていない。
少し前は、僕もこの道をランドセルに押されて、歩いていた。ランドセルが二つ並んだ記憶はない。家のせいにしていたけれど、それが全てではなかった。最近気づいたが、今更仕方がない。
小さな電器屋と、蜘蛛の巣が張ったクリーニング屋だけは、あの頃と変わらない。
広くなったな。
砂利だけが敷き詰められた駐車場を見て、僕は思う。この場所に何があったのかは、思い出せない。何十年間、見向きもされなかった建物が一つずつ、自然に消えていく。この町はそんな町だ。箱物が増えることはもう滅多にない。
漸く交差点。図書館はもう目の前だ。曇った信号機を睨み付けて、僕はリュックサックの背負い紐を握りしめる。
誰にも、会いませんように。
信号が青に変わる。カッコウの鳴き声。横断歩道の白線を踏みしめる。
灰色のコンクリートが、茶色いタイルに変わる。雑草だらけの駐輪場には、5、6台のママチャリと1台のロードバイク。自転車で来れば良かったな。
重い音がする自動ドアを抜ければ、埃っぽいクーラーの風。気持ちいい。切れかかった蛍光灯と、古本のにおい。好きだ。数人の爺さんがクシャクシャと新聞を捲る。自由研究の小学生たちは、大きすぎる内緒話をする。小さな田舎町の図書館は今日も賑やかだ。僕は見慣れた顔が居ないことを確かめて、ずっと奥へ進む。
部屋の角。日に焼けた書棚と小さな丸椅子。ここが僕の城。目の前にあるのは埃を被った恋愛小説。
こんなの誰が読むんだろう。
僕はリュックサックを下し、教科書を広げる。つまらない文字を拾いながら、丸椅子に腰かける。数学ⅡB、寛容出版株式会社。練習問題113。番号の横に自分で書いた赤い星。
終わるかなあ。
僕はふと、目の前の書棚に目を向ける。鱗だらけの窓の下、3段みっちり文庫本が詰められている。背表紙は行儀よく整列している。きっと何年も、手を付けられていない。
いや、一冊だけ。
一番下の段。右端から3、4・・・5冊目。カバーも外れたクリーム色の一冊が、奥に引っ込んでいる。題名は霞んで見えないが、シールだけは新品同様。
僕は持っていた教科書を丸椅子に置いて、書棚に近づく。題名のないその一冊を人差し指で引っこ抜・・・・・けない。
こんなに本が詰まっているからだ。僕は隣の本を書棚から出し、膝に乗せる。
・・・あれ?
嫌な違和感。僕は例の本に人差し指を掛ける。
取れない。
もう一冊、もう一冊。いくら本を減らしても、一向に棚から離れようとしない。
その文庫本だけ、時間が止まっている、そんな気がした。