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第三話 大人になるというのは

 いつもは石庭に行けば会えると天狗様との約束をしていました。

「天狗様、何処にいらっしゃるのですか」

「坊、残念だな、もうお前さんにわしの姿は見えンのだよ」

 僕は言葉を失いました。

天狗様とは長い付き合いで、天狗様から剣術を夜間教わっていたので、まさか僕に姿が見えなくなるなんて想像できなかったのです。

 天狗様の姿は、でも言われてみれば大人達は決して気付かず、子供達が主に気付きそうになることが多々ありました。

 僕が大人になるということだろうか――不思議な気持ちと、寂しさで胸が一杯でした。

「天狗様、何処かへ旅に?」

「いいや、お前さんに穢れが出始める頃合いだからだ。今までお前さんは人間的感情を持ち合わせない非情さを持っていた。悲しいことにな。故にわしを知ることができた。しかし、ようやく穢れを持つことで、お前さんは人となれるのだ」

「穢れ?」

「恋だよ――お前さんは恋をするのだ」

 どうして――と、問いかけたかったのに、僕の脳裏に過ぎったのは、あの美しく鮮烈な人。

 真っ赤な瞳の……血の海と同じ深みある瞳。

 呪われた家系の、魔性の子供――御劔。

 脳裏に過ぎるあの子の壊れた笑みに、ぞくりと背筋が粟立つ。

 あの瞳が僕を捕らえて放さない。視線で出来た鎖に、雁字搦めにされているようだ。

「まだ教わりたいことがあります、僕はまだ未熟です」

「……宜しい、何か困った出来事でもあれば、風へ助けを求めよ。まだ近くの山にいるでな。仲間と話している、そこには腕利きの陰陽師がいるのだそうな」

「お師匠様……人になるとどうして貴方は見えないのですか?」

「……人は化け物と喧嘩をしているのだ。わしらは化け物故に、な。わしは馴染みの顔に此処へ会いにきただけだったのだよ。いいかい、お前さん。三人の化け物には決して逆らうなよ。御密ごみつ二見ふたみ八葉やつばの三人には――」

 もし逆らえば決して手助けできない、と暗に諭されているのだと思いました。

 それは近い将来、何かその三人の誰かと敵対するのだと――御劔の存在を思い出せば簡単です。

 御劔はゴミツの息子なのですから。

 でもこのときの僕はよく判らず、ただただ声の行方を探して、空をきょろきょろと見つめておりました。

 その時、背後から声が聞こえたのです。


「怜?」

 ――こんな夜更けに、ぼんやりとこの世に生きていない瞳が僕を見つめている。

 ――僕だけを。

 ぞくりと背筋に何かが這いずったと思えば、それはあっさりと消えていったので、僕は首を傾げました。

「御劔、危ないですよ、何時だと思っているんですか」

「判らない、時間のことは。今が何時だかも、判らない。時間を見つめすぎていて」

 御劔の言葉は不思議でした。

 意味が判らないのに、言葉が不思議な魔力を秘めていて、僕は惹かれてしまうのです。

 大人から知らない言語を教えて貰う時の、未知なる好奇心に似ていました。

「何を、しているの――?」

 御劔が近づいて、僕の頬にそっと触れました。

 目を細めて、その瞳はやはり――壊れていて、とてもとても美しく。

 この世で一番の宝は何かと問われたら、御劔の瞳だと言えます。

 御劔の瞳に映っただけで、僕は心臓が張り詰めてしまう。鼓動が早まる。顔中に熱が籠もる。

 僕はこんなに困惑するのは女性相手でも、年上相手でもついぞなかったので、言葉を失いました。

 指先に伝わる熱。すっと優しく指の腹が僕の頬を撫でて、それだけの仕草がやけに艶めかしく感じて、僕はぼうっとしてしまう! 脳の奥が甘く痺れる!

 御劔は可愛らしく小首を傾げ――ふいに手を離し、空を見上げました。


あやかしの匂いがする」

「て、天狗様がいるんですよ、御劔には判るんですか!?」

 天狗様の話をしても、もう許されるだろうと思って声を荒げました。

 今まで僕は自慢できなかった思いを赤裸々に語り、御劔はゆっくりと頷いて話を聞いてくれました。

 この世には滞在していない、瞳で只管に僕を見つめていて、僕は有頂天でした。

 僕は初めて理解者ができたと感じ取り、喜びましたが、それも一瞬のこと――。

「でも、妖の残り香だから、もういないみたいだ――」

「……え? 天狗様? 天狗様!?」

 僕が声をかけても、天狗様の声はもう一切聞こえませんでした。

 僕が、大人になり、恋を覚えたと証明された瞬間でした――。




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