メイヤ兄さん
「オレ、将来ジェルダに住もうかな」
あたしの隣の席で、今日は珍しく写本していたギールがため息をつきながら言った。
「は? なに、言ってんのよ」
「だって、あの国、文字覚えなくていいしさ。女の子、色が白くて綺麗な子が多いし」
「寒がりのあんたが良く言うわよ。あそこに住んでると、一生に一度は指や鼻が凍って落ちるらしいわよ」
「ええ? ほんとうに? ねえさん」
「あんたが写してるその本に書いてある」
あたしは写本している紙から目を離さず、手を動かしながら答えた。
ちなみに、あたしが写本してるのは艶本。
聖女のあたしがこんな本、写してるなんて。笑っちゃうわよね。
内容にも笑っちゃうけどね。
「それに、ジェルダの女の子から見ればあんたなんか相手にもされないわよ。小さいしさ」
「……わかってないね、ねえさん。大きさは関係ないんだよ、アレは」
「その部分の話じゃないわよ! 背丈の話よ!」
写本室の中、周りで聞いていた兄さんたちが小さく忍び笑いをした。
まったく、もう。
こいつはゲンキンな奴なのよね。
この前、ピーピー泣いてたと思ったら、もうけろりとしてえらそうな口たたくし。
まあ、今までギールが写本をできる限りサボろうとしていた理由が分かって、わたしもこいつに対するイライラが半分に減ったわ。ギールも、以前より写本室にいる時間が長くなった。
「ねえ、ねえさん。その本朗読しながら写本して」
「いやよ。くだらない」
「じっとしてたら、疲れちゃう。聞きながら、みんなで写すほうが楽しいよ」
「じゃあ、あんた歌でもうたいなさいよ」
「……」
くく。
ギールはすっごく歌が下手なのよ。
あまりの下手さに、めまいがしそうなほど。
にいさんたちとあたしは聖歌を小さい声で歌うギールをいつもからかっていた。
「メイヤ兄さん、朝からどこに行ったの」
「今日はガラナ族との交渉役で、キャラバン商店さんといっしょに行ったわよ」
あたしは少し手を休めて、目をこすった。
今日は曇りで、木窓から入る明かりが少ないのよね。
目が疲れちゃう。
家の外から誰かが叫んでいるような声に、あたしは眉をひそめた。
その声は次第に近づいてくる。
小屋の入り口に目を向けていたあたしは、突然写本小屋に入ってきた上の兄さんたちの姿に、目を見開いて立ち上がった。
「メイヤ兄さん!」
あたしは羽ペンを取りおとし、他の兄さんたちに囲まれているメイヤ兄さんを見て悲鳴を上げた。
なぜなら……。
メイヤ兄さんの胸の前で支えられている左手。
その先が、布に包まれていたのだけれど。
その布は真紅だった。
「どうしたの、兄さん!?」
悲鳴のままで聞いたあたしに応えず、メイヤ兄さんは支えるにいさんたちを振り払って、こっちに歩いてきた。
苦痛に汗をにじませた表情のメイヤ兄さんはすさまじい気迫であたしの隣の席で立つギールに、右手でつかみかかった。
「指、三本だ!」
そう言って、メイヤ兄さんは被さっている左手の布をどけた。
ひ、とあたしは口を手で覆った。
メイヤ兄さんの親指と、小指以外の指が……。
なかった。
メイヤ兄さんは三本の指が根元から切り取られた左手をギールの顔につきつけた。
「指、三本! これで、彼らと話をつけた!……ギール!」
兄さんは右手でギールの胸ぐらを捕まえて引き寄せた。
「これで最後にしろ! いいな、ギール!」
兄さんはギールをにらみつけると、つきとばした。ギールはかげろうみたいにふらふら後ずさりし、その場に尻もちをついて座り込んだ。
「彼らは、寛大だった……!ガラナ族にしてはな……!」
叫ぶメイヤ兄さんを、背後にいた兄弟子たちがおさえこみ、奥の部屋へと連れて行く。
医者を呼んで来い、と、一人の兄さんが叫んで、別の兄さんが表にむかって走り出した。
後に残されたあたしは、床に腰をおとしたままのギールに目をやった。
ギールは蒼白で、目は宙を漂っていた。
「あんた……」
まさか。
あたしは、声が震えた。
「……ガラナ族の女の子に、手を出したの?」
ギールは答えない。
あたしはギールの前にひざまづくと、ヤツの首もとのローブを引っ張って頬を張り飛ばした。
「答えなさいよ!」
ギールは黙ったまま、うつむいている。
「……信じらんない……!最低ね、あんた……!」
ガラナ族はもとはフェルナンド以北に住む民族で、あたしたちは革製品を彼らから買う。
このフェルナンドに定住している彼らの一族もいて、あたしたちは彼らの住居地にはめったに近づかなかった。
なぜなら。
彼らは、この国でもっとも残虐で、誇り高い民族で。
彼らの怒りに触れた者は手を切り落とされる運命にあったから。
「馬鹿じゃないの! いったい、なに考えてんのよ!」
あたしはめちゃくちゃにギールをぶった。
メイヤ兄さんの指がなくなった。
さっきの兄さんの切り取られた指の赤い断面が、あたしの目に焼きついていた。
こいつのせいで……!
夢中でギールをぶつ右手が痛くなってきたのに気付いたけど、あたしはやめなかった。
ギールは大人しくあたしにぶたれるがままになっている。
このまま、あたしの手が使い物にならなくなるくらいまであんたをぶち続けてやるわよ。
……メイヤ兄さんの手を返しなさいよ!
この馬鹿ギール。
あたしが首輪でもつけて、見張っておくべきだったのよ……!
メイヤ兄さん、ごめんなさい。
「っく……」
涙があふれて、あたしは頬につたうのを感じた。
兄さんはもっと痛かったのよ。
自分のせいじゃないのに。こいつのために指を与えたんだわ。
「っ……う……」
あたしは泣きじゃくりながらギールをぶち続けた。
にいさん、にいさん、ごめんなさい。にいさん。
ごめんなさい……! にいさん……!
「ごめん、ねえさん……泣かないで……」
あたしにぶたれながらギールが小さな声で言った。
「っ! にいさんにあやまんなさいよおおっ!」
あたしは吠えて、ギールを押し倒した。
こいつ、本当に馬鹿なのよ。何も先のことを考えられないのよ。一生、閉じ込めておくべきだったのよ!
あたしはなにもかも分からなくなって、ギールにしがみついた。
にいさん、にいさん、にいさん!
ギールがあたしの肩に手を置いて抱きしめようとした。
肩に触れた手に気付いたあたしは飛び起きて、ギールを押しのけた。
「あんたって最低だわギール。今までもそう思っていたけど、これほど最低だったとは思わなかったわよ」
あたしにぶたれて腫れ上がった顔でギールがあたしを見返した。
「あんたには愛想がつきたわよ」
あたしはそう言うと、ギールを置いてメイヤ兄さんの部屋へと走った。