マティス
ブラック家の一室。
マティスの勉強部屋であるその場所で、あたしはマティスの朗読を聞いていた。
本を机に立てて、背筋を伸ばして、お行儀よくページに書かれた文字を読むマティス。
マティスは兄のニコラスと同じ黒髪、黒目の丸い顔をした八歳の男の子。
大きいレースの襟のついた服が可愛いわ。
あたしはマティスの周囲を円を描くように回って歩いていたけど、離れて、窓に近づいた。
ブラック家は、裕福だから二階建て。
一階は、石造りだけど二階は木造の造りよ。
木窓を開け放した窓から見下ろすと、マティスのお母様が、庭で広げていた洗濯物を集めるのが見えた。
「た……いひ……んだ……」
あたしは振り返って、マティスのところへ戻った。
「たいへんだ、ね。マティス」
「うん、た……いへん、だ」
あたしは頷いて、またマティスの周りをぐるぐる回りだした。
マティスはなかなか字を覚えられない。
あたしは心の中でため息をついた。
なぜかしら。
頭が悪そうには見えない。話し言葉はすらすら話すし、大人顔負けの言葉だって使う。
数の計算だって、他の子より早いくらい。
字、だけなのよ。文字が覚えられない。
何度も羽ペンで文字を書く練習をしたわ。ギールよりはるかに上手く書く。
読めないのよ。
いえ、一日の最後にはその日学んだ言葉は読めるようになっているわ。
でも、次に会ったときはみんな振り出しに戻っている。
最初のギールが、マティスをもてあましたことは想像がついた。
これは、大変よ。本腰をいれなきゃね。
「なんで、僕、字が読めないのかな」
いきなり朗読をやめてマティスが言った。
「……僕より小さい子や、後から字の勉強を始めた子の方が、僕よりいっぱい読めるよ。僕も一生懸命勉強してるのに。本を読めるようになりたいのに」
「マティス」
あたしがマティスのそばにしゃがみ込むと、マティスは丸く黒い目であたしを見下ろした。
「僕は、バカなの? アネッテ先生?」
「そうじゃないわ。今だけ。続ければ、読めるようになるわよ」
「ギール先生は、そう言わなかったよ」
マティスは子供ながらにため息をつく。
あたしは眉がぴくりと持ち上がった。
「ギール? あいつ、あなたになんて言ったの」
「僕は、バカじゃない。……ただ、そんな子なんだって」
マティスはあたしの目を見つめながら続ける。
「読めない子なんだって。生まれつき、そんな子なだけだから、気にしなくていいって」
あの、バカ!
なに、言ってんのよ。
マティスに勉強する気をなくさせてどうするのよ。
自分が読めないからって、変な言い訳を考えるんじゃないわよ!
「ねえ。ギール先生は、もう、僕の家に来ないの?」
黙っていたあたしにマティスが聞いた。
「ギール先生、好きだったのに。テスお姉ちゃんが結婚してから、来なくなっちゃった」
そうね。
あなたのお姉ちゃんとギールはいろいろ……いろいろ……みんなを巻き込んで……いろいろやらかしちゃったからね!
それは仕方がないわ。ギールはもうこの家に足を踏み入れられなくなっちゃったんだもの。
マティスはさみしそうな目をした。
「ごめんね、マティス。ギールは他にいろいろお仕事があって、忙しくて来られないのよ。あたしが代わりじゃだめかしら」
「ううん……ギール先生に会ってみたいな、って思っただけだよ」
この子、ギールが好きなのね。
まあ、あいつ、優しいし、怒ることなんてないし。
女子供には好かれるわよね。
「ギールが好きなのね」
「……ギール先生は、僕と同じだから」
マティスは頷いて言葉を続けた。
「僕と同じだけど、先生だからすごいな、て思ったんだ。僕も、先生になりたいんだ。……僕の家は軍人の家だけど、ニコラスお兄ちゃんが軍人だから、だからお兄ちゃんは僕に先生になってもいいよ、って言ってくれた」
「マティスなら……ギールよりもはるかにいい先生になれるわよ」
あたしは微笑んでマティスの頬を撫でた。
「僕、先生になれると思う?」
「なれるわよ。だから、勉強してんじゃない」
「……僕、勉強は好きだよ。……今日覚えたことは、寝て明日になると、忘れちゃってることが多いけど……でもたまにね、ひとつかふたつ、覚えてることがあるんだ。その字が分かったときはね……」
マティスはにっこりときれいな笑顔を浮かべた。
「とっても嬉しいんだ」
あたしはマティスの頭を撫でて、頭に口づけた。
「そう。なら、勉強を続けましょう。もう少しで夕食よ。それまで」
「はい」
マティスは気持ちよく返事して本に目を戻し、朗読を再び始めた。