謝罪
「シアンがいない?」
シアンの店の前で、彼女の有無を告げたシャン・カンにデイーは驚いた声を出した。
「無断欠勤よ。初めて。……家に電話しても出ないし」
「……ボスのところ?」
「さあ、知らない。あなたの方がそういうのはよく知ってるでしょ」
店が混んでるの、じゃあね、とシャン・カンは告げて、店のドアを閉めた。
取り残されたデイーは考えこんだ。
今朝のことを謝ろうとして、店に来たのに。
あいつ、俺に会いたくないのかな。
確かに信じられないほどひどいことを言ったし、しばらく俺の顔を見たくないと思うのが普通かもしれない。
……ボスのところで慰めてもらってんのかも。
想像してかすかに胸の痛みを感じ、デイーは回れ右して歩き出した。
道はしっとりと濡れていた。
夕方、天気予報泣かせの通り雨が降ったらしい。傘を持っていなかったデイーは、雨が止んでいたことに感謝した。
急に不安になり始めた。
もう、自分と会ってくれなくなったらどうしよう。
シアンのいない生活を想像し、デイーは青ざめる。
もしかして、自分の言ったとおりに、シアンは昨日の客のところに行ったかもしれない。
優しそうな人だったし。
やけぼっくりに火がついたとか。
そして、自分の言葉がその背中をさらに押してしまったとか。
ボスのことを考えれば、一時的ですぐに帰ってくるとは思うけど。
自分のマンションにたどり着いたデイーは、エレベーターで部屋の階に上った。
部屋に入ったら出ないかもしれないけどシアンに電話をかけてみよう、と考えていたデイーは自分の部屋前のドアを見て立ち止まった。
黒いゴミ袋が置いてあるのかと思った。
ゴミ袋が動いた。
闇の中に浮かんだほの白い顔は、シアンだった。
「デイー」
うずくまっていたシアンが立ち上がる。
デイーに近づくと抱きついた。
「お前、ずぶ濡れじゃねえかよ」
身体を寄せてきたシアンの濡れた感触にデイーは驚いて声を上げた。
今朝の黒いワンピース姿のままだった。
夕方、通り雨が降ったらしいからそれに遭遇したのだろうか。まさかそれからずっとここにいたのかよ。
「中に入ってシャワー浴びろよ」
冷えたシアンの体温に、あわててデイーは首にぶら下がるシアンを引きずって部屋のドアを開けた。自分で歩こうとしないシアンを半ば抱っこするような感じで抱えて浴室に連れて行く。
「お前、ずっとここにいたのかよ。シャン・カンが心配してたぞ。何回電話しても出ないって……」
シアンを身体から引き離したデイーは、シアンの顔を覗き込んだ。
シアンは濡れたような目でデイーを見上げると、再びデイーに抱きついてきた。
「っ……!」
口をシアンの口で塞がれ、後ろの壁にデイーはぶつかった。まともにぶつけた後頭部の痛みに顔をしかめる。
目を白黒させるデイーにシアンは更に唇を押し付けてきた。
雨の匂いと、シアンの香水の混じった匂い。
濡れそぼった彼女の身体から伝わってくる体温。
激しすぎて、息も出来ない。
シアンの手が自分の身体を這い、ベルトにかかるのを感じてデイーは驚いてシアンを突き飛ばした。
背後の浴室のドアにぶつかったシアンは、ぼんやりした目でデイーを見返した。
なんだ、こいつ。
デイーはうろたえながらシアンを観察した。
いつものシアンと違う。
勝ち気な彼女の姿はそこにはなく、まるで覇気のない弱々しい彼女の様子にデイーは動揺する。
自分を見上げてくる大きな瞳は泣きはらした後のように赤く、濡れていて、ぞくりとくるような色気をはらんでいる。
見つめられたデイーは総毛立った。
シアンは自らの背に手を回し、背中のジッパーを下ろし始めた。
息をのんでいるデイーの前で、彼女は肩から生地を滑らせた。
デイーの瞳孔が開く。
シアンの足下にワンピースが落ちる。
あらわになった身体をデイーは硬直して見守った。
なんだ、こいつ。娼婦みたいに。
下着に手をかけたシアンに、あわててデイーは背を向けて、蛇口をひねりシャワーを出す。
「俺の服貸すから。今持ってくるから、シャワー浴びて……」
シャワーヘッドを上部のフックに取り付けようとしたデイーの背中に下着姿のシアンがしがみつく。
「ちょ……」
振り返ろうとしたデイーの首にシアンはすがって、デイーの胸に顔を押し付けてきた。
シャワーヘッドの位置が回転し、勢いよく流れる湯はまともに二人の頭上に降りかかる。
ああ……。
脱力して、デイーは頭から流れる湯がバスタブではない床に流れ落ちていくのをため息をついて見下ろした。
シアンは自分にしがみついたままだ。
床に跳ね返る滴の音が、浴室内を満たしてゆく。
……カチューシャ市国を思い出した。
あの時、泣きそうだったのはシアンじゃなくて自分だった。
シャワーを止め、デイーは浴室に置いてあったタオルで離れようとしないシアンを拭き始めた。
ーーあの時のことが甦る。
あの時も、弱ったシアンを自分はタオルで拭いた後、くるみ、ベッドまで抱き上げて運んだ。ーー
同様にシアンを抱き上げようとしたデイーに、シアンは身を任せてデイーの胸に顔を埋めた。デイーには羽根のように軽く感じる彼女を抱き上げて、デイーは寝室にシアンを運ぶ。
ベッドに彼女を横たえると、シアンはデイーの首から腕を離そうとはせずにデイーを見上げた。
「……まだ、オレのこと怒ってる?……」
涙が盛り上がり、シアンの目からこぼれ落ちた。
「怒ってる……? デイー?……」
デイーは首を横に振った。
ふにゃ、とした感じでシアンの涙腺が緩み、更に溢れ出した涙が頬を伝う。
「ごめん、デイー」
シアンがデイーを引き寄せた。
デイーは引き寄せられるままに、彼女の顔の横のベッドに顔を埋める。
「もうしない。二度としないから、許してデイー。お前とボス以外とはもう寝ない」
泣き声でシアンが告げる。
「お前に嫌われたら、オレ……」
声を上げてシアンが泣き出した。
デイーは首に回されていたシアンの腕をゆっくりと外す。
「濡れてるから着替えてくる」
「着替えたら……オレと一緒に寝て」
すがりつくようにデイーを見上げるシアンに、デイーは頷いた。シアンは目を閉じた。
ーーカチューシャ市国でも、ベッドに横たわって目を閉じたシアンを自分はそばにいて見守っていた。
怒りがおさまらなかった。
何もしなかった自分に対して。
今でも夢に見る。
夢の中では、ボスたちとシアンがいる部屋に、自分は残ったままだ。
ボスたちに囲まれたシアンの手を取って、自分は部屋を飛び出る。
そのまま、走り出して、外へ逃げ出して……。
夢はそこで途切れる。
見終わった後は、ひどく後悔する。
あの日から後悔しない日はない。
あの時、それが出来るのはこの自分だけだったのに。
シアンを置いて、あの部屋を出るべきじゃなかった。ーー
タオルで拭いて着替え、寝室に戻ってきたデイーをシアンは薄目を開けて見た。
デイーはベッド横に膝を立てて座り、シアンの頭に手を置く。
「今朝……ひどいこと言ってごめん」
シアンが首を横に振った。
再び、その目に涙が盛り上がる。
綺麗で可愛いシアン。
誰もがシアンを手に入れたくてたまらなくなる。
シアンは拒否せずにそれを受け入れる。
「デイー」
シアンの髪を撫でるデイーにシアンがつぶやいた。
「オレをお前のもんにしろよ」
デイーは手を止めた。
「お前だけのもんにしろよ。そしたら、オレも……」
シアンの目から涙が溢れ出す。
ーーそれが叶えばどんなにいいか。
シアンが起き上がり、デイーの首に抱きついた。
ーー密かに心の奥底で願ったことは何度もある。
シアンを連れて、キエスタ行きの飛行機に飛び乗り、誰の目も届かない片田舎で暮らしてーー。
デイーはシアンの背中に腕を回し、目を閉じるとベッドに倒れこんだ。




