テス夫人
あたしは次の日、ブラック家のニコラスのもとを訪れた。
彼に頼みたいことがあった。
ギールのこれから先しばらくの身の置き場について。
兄さんたちは、あの様子ではまだまだギールを許さないわ。
テドーのところにずっと厄介になるわけにはいかないし。
あたしにはひとつ、思い当たることがあった。
ニコラスのお姉さん、テスよ。
嫁ぐ前にギールといろいろやらかしたテスだけど、今、彼女は爵位を継いでいた。
郊外の侯爵家に嫁いだテスは、それからほどなくして夫である侯爵を病気で亡くしたの。
侯爵には兄弟がなく、親戚も女だらけで、テスと死んだ夫の間にはまだ子供もいなかった。
だから彼女が現在、その家の主だった。
自分の意のままに行動できて、財産もある女性なんて、彼女しか思いつかなかった。
ギールと過去に関係した彼女の、情にすがろうとあたしは思ったの。彼女が受け入れてくれるかは疑問だったけどね。
ニコラスから話を通したテスは、すぐに承諾してくれた。
ありがたい、と思ったわ。
昔、ギールと関係中のテスは、あたしにとって恥知らずの御嬢さん、という印象しかなかったけど。
彼女はとてもいい女だった。
懐がとても広い、男顔負けの剛毅な女性だったのだと、あたしは後に知った。
その後、ギールたち一派がメイヤ兄さんたちと別れて、王家から迫害されたときも、テスはギールを最後まで擁護し、支援してくれたの。
テスがいなかったら、ギールはどこかでのたれ死んでいたにちがいないわよ。
ニコラスがギールを郊外のテスのお屋敷まで送り届けてくれた。
ニコラスには本当に感謝してもし足りないほどよ。
いえ、ブラック家の一族には。ニコラスに、テスに、マティス。
あたしは今生、いえ、生まれ変わったとしてもブラック家には頭があがらないと思うわ。
ニコラスが本当に望むものを与えてやれないかわりに、あたしはニコラスにお礼のキスをした。
男の人にまともにキスをするなんて、あたしは初めてだったから緊張したわよ。
ギールの奴に、いろいろ口づけたけど、あれは小さい子にするみたいなものだったもの。
キエスタではあまり、キスをしないわよね。身体の部分にはするけど唇にはしないわ。
でも、この国で男女のそれに値するのは唇だと知っていたし。
ニコラスの唇に口づけたあたしに、ニコラスはそれはそれは嬉しそうににっこりと笑ってくれた。
私は、ニコラスが喜んでくれたことにとても嬉しかった。
『こんなに美しい聖女にキスをいただけるとは。死んでも悔いはありません』
ニコラスはそう言ったけど、それは、言葉通りになった。
次の隣国との戦で、彼は亡くなったからよ。
彼が亡くなって、次男のマティスがブラック家を継いだわ。
マティスは本当に努力家だった。
教師にはなれず、軍人の道を選んだけど。
マティスの子は教師になった。
その後代々、すぐれた教師を輩出し、ブラック家は軍人の家から教職者の家になったわ。
ブラック家は敬虔なテス教徒の家になった。
――ニコラスの死を知ったのも、ブラック家のその後を知ったのも、随分あとの話だけど。
そして、あたしはトーラ先生の家に帰った。
あたしのしなければならないことが待ち受けていた。
兄さんたちに、ギールを許してもらうため。どんな手を使ってでも、先生、兄さんたちにギールを再び受け入れてもらうためよ。
あたしの必死の説得に、トーラ先生と、何人かの兄さんは折れてくれたわ。
でも肝心のメイヤ兄さんは、だめだった。
怒って、あたしの前に、姿を現そうとしなかった。夕食にも、祈りの時間にも出ず、かつてのギールの部屋にこもりっきり。
兄さんにあいつを許してもらわなきゃ、どうにもならないのよ。
そう思ったあたしは、強硬手段に出た。
深夜、兄さんに直談判しようと、兄さんがいる部屋に忍び込んだの――