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午後の授業が終わりに近づくと、花組の教室には生徒が増える。
なぜなら花組は、一日の授業の一番最後に出席を取っているからだ。つまり、この時間に教室に存在してさえいれば、一日出席扱いになる。
花組にも出席日数というものは存在しており、足りないと卒業はできない。
だから、たいていの生徒は授業の終わりに少しだけ顔を出し、出席が終わるとそれぞれまた勝手に過しだす。
こんな規則に意味があるのかとも思うが、これは生徒にとって意味のあることではなく、教師にとって意味のあることらしかった。あまりにも長く様子を見ないわけにもいかないから、とりあえず顔を合わせる機会だけは作っておこう、という。
教室の後ろの戸は開け放され、そこから何人もの生徒が入ってくるのがわかった。
席は決められていないので、各自好きに座るが、その席自体は十一しかないので、誰か必ず隣になるという仕組みだった。
柊の隣にはもちろん蘇芳がいたが、新しく逆隣に座った人物に、柊は微かに眉をひそめた。
そこにいたのは牡丹だった。牡丹は三年で蕾の出、しかもかなりいい家の子らしく、持ち物はどれも高価でしかもセンスのいいものばかりだ。立ち居振る舞いも優雅で、容姿だって薔薇や蘇芳には及ばないものの、かなり綺麗な部類に入る。
そんな牡丹は、花組で馬鹿にされていた。いや、相手にされていないと言っていい。
牡丹が蕾の出であるからわかりにくくなっているが、彼が落ちこぼれ組と同じくらい頭が悪いというのは、みなが知っていることだったから。
牡丹は、蕾からは落ちこぼれと馬鹿にされ、暴力組からは一目置くに値する存在とは見なされず、落ちこぼれからすら落ちこぼれのくせに蕾出ということで地位を騙る者として嫉視と怨嗟を送られていた。
知らぬは本人ばかりなり、である。
牡丹本人は、持ち前の馬鹿っぽい傲慢さから、みなが己に遠慮しているのだと、おめでたくも思い込んでいた。まあ、あまり調子に乗った振舞いがなければ容認される程度のものだが、おいたが過ぎればすぐさま制裁に会うのは目に見えていた。だからか、牡丹に近づく者はいない。
花鶏が出席を取り終わるとすぐに、柊は席を立った。柊もクラスにおいて例外ではなく、牡丹のことを好いていなかったからである。
牡丹は近くにいる人物に、誰彼かまわず話しかけようとするところがあった。
隣の蘇芳も、柊の考えがわかったのだろう、いつもよりも早く教室から出ようとする柊に苦笑し、それに追従する。こういうところが蘇芳を柊の犬のように見せているのだが、柊はいつものごとく周囲に頓着しないので気付かなかったし、そして多分これからも気付きはしないだろう。
だが、そんな柊の背に声をかける者があった。椿だ。
「ヒーラギ、ちょっと待って。スオーも」
蘇芳も、とは言ったものの、柊に関することで蘇芳がついて来ないことはほとんどないし、柊の方でも蘇芳に隠し事など面倒なことをするわけがないので、椿は柊を呼べば当然蘇芳も付いてくることを確信していた。
「んだよ」
返事をしたのは蘇芳だ。椿の傍には、菖蒲と桔梗がいた。そして、少し離れたところで、菊と山吹が心配そうにそれを眺めている。
「ヒーラギのほうからも、キキョーに言ってくれないかな。僕にはアヤメがいるから、キキョーの面倒を見ることはできないって」
椿は、どこか緊張した面持ちで、そう口にした。
その椿の言葉に、菖蒲がどこか勝ち誇ったような視線を桔梗に送り、桔梗の方は悔しげに歯をかみしめて俯いた。
菖蒲と桔梗の様子に、山吹は思うところがあったのだろう、溜め息をついたが、それに気付いた者はほとんどいなかった。――蘇芳は目ざとくも気付いたが。
そして、蘇芳は山吹のその溜め息のわけにも察しがついていた。
彼は、悲しいのだ。元々暴力組は結束が強い。それが、菖蒲と桔梗が対立することで割れてしまい、しかも己は学年的な制約と、そして椿と親しい主人のためにどうしても菖蒲の味方をせざるをえなくなってしまうだろうことが。
蘇芳はそれを見て、くすりと笑った。面白くて仕方なかったから。彼にとっては、特別気にかけている柊以外は全て娯楽にしか過ぎない。そう、それが例え薔薇であったとしてもだ。椿たちに対する遠慮なんてものは、はじめから欠片たりとも存在してはいなかった。
だから蘇芳は笑って不和の種を播く。
「いいじゃねーか。ツバキ、けちけちすんなよ。キキョーの面倒くらい見てやりゃあいいじゃねえか。キキョーだって、受け入れてもらえりゃあ、ツバキのために尽くしてくれんだろ?いいことじゃねえか。キキョーはもともと、アヤメよりは成績もいいし、ナ」
それを聞いて、桔梗は微かに表情を明るくしたが、騙されてはいけない。蘇芳が本心から桔梗のためを思って発言しているわけがないのだから。
現に、菖蒲は表情をこわばらせた。菖蒲が桔梗に勝るところは学年くらいしかない。ほんの僅かばかりとはいえ、全てにおいて桔梗が菖蒲に、ごくごく微妙に勝っていることは事実だった。
椿は蘇芳に対して何か言いかけたが、結局は黙った。自分の言葉は、蘇芳に対して何ら影響を与えることはできないと知っていたから。
縋るように柊を見たが、鈍い柊が感づくわけがない。そして、察しの良い蘇芳は気付いた。椿が柊に望みをかけているのを。
だから、蘇芳は己の望む舞台を整えるために、柊を丸めこむことにした。
「な、ヒーラギだって、キキョーの立場を考えてやれば、どうするのがいいかわかるだろ?なーに、別に、一年だけでもいいんじゃないか。一年なら、ツバキだってなんとかなるだろォ?」
「……一年?どういうこと?」
柊の問いに、蘇芳は答える。
「次の学年の奴らのうち、桔梗の主人になれそうな奴がいたら、そいつに主人になってもらうのサ。確か、うろ覚えだけど、蕾には竜胆とか、菫とかがいたろ。来年桔梗はそいつらに着く。で、もちろん一緒に卒業はできないから、一年だけまた椿のところで面倒見てもらって、それからご主人のところに居させてもらう、ってワケ」
まあ、蘇芳の言い分は一応は筋が通っていた。
菊と山吹も、それが適切な案だとは認めた。……それを出したのが蘇芳でなかったら、安心できたろうが。
「いいんじゃないかな、ツバキ。なんなら、卒業後のキキョーの面倒に関しては、僕のほうからも少し援助するし。ね、ヤマブキ?」
菊もそう言って、賛意を示す。そして、菊の意見に山吹が賛成しないわけがなかった。主人の言うことであるし、元々自分も気にしていたことだったから。
菊は、実際のところこの組のなかで最も心根が優しいと言っていい。山吹に対して主人面をして傲慢な態度を取ってはいるものの、その実結構山吹のことを気にかけていた。
山吹が暴力組として、桔梗のことを気にしているのを、菊はしっかりと把握していた。菊自身は椿と親しく、どちらの味方をするかといえばもちろん椿なのだが、積極的に椿の不利益にならない限り、山吹のために桔梗のことを気にかけるのもやぶさかではなかった。
そんな菊を見て、蘇芳は微かに笑った。他人に優しくしようとしてやる菊や山吹がおかしかったからである。そして、皆の幸福を追求しようとするが故に、菖蒲を追い詰めていることに気付かないのが滑稽でもあった。
菖蒲を注意して見ればわかることなのだ。菖蒲は怯えている。椿に、おまえはもういらないと、引導を渡されてしまうのではないかと。
だから、蘇芳はこの二人、菖蒲と桔梗の対立を煽ることに決めた。今ここではやらないが、そうなるように仕向けるつもりだ。
話がまとまってゆくのを、ぼんやりと柊の隣で眺めながら、蘇芳はくつくつと笑った。
その嫌な笑みに気付いた柊は、なんとなく蘇芳の頭を殴ったが、こうして柊は蘇芳を殴ったりするのはよくあることなので、大した注目も浴びなかった。
叩かれた頭を押さえて、柊に文句を言いながらも、蘇芳の頭はめぐるましく動いていた。どうすれば面白くなるか、それを追求するために。
ちなみに、蘇芳は椿の方を煽るのも忘れてはいなかった。従者が二人もつくなんて凄い、今までなかったことだ。そう言って、椿の自尊心が肥大してゆくのを見ながら、この軋みが火種になればいいのにと願った。