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柊が目覚めると、もう部屋には誰もいなかった。時計を見やると、十時を過ぎていた。
「ふぁー、あ」
起き上がって欠伸をする。そこから窓を眺めた。カーテンからこぼれる陽が明るい。今日は晴れているようだ。
昨日着替えずに寝たので、制服はくしゃくしゃのままだった。だが柊は気にしない。
毎度のことなので、柊は沢山制服の換えを所持していた。くしゃくしゃのそれは、放っておいてもいつのまにか綺麗にプレスされて定位置に戻っている。蘇芳の努力のたまものである。
寝ぼけ眼でフラフラしながら、部屋備え付けの風呂場に向かう。服を脱ぐと、そのまま湯船につかった。
昨日言い置いたように、もう蘇芳によって準備がされているのだ。
温度は保温になっているので、冷めてはいない。しばらく浸かって、なんとなく頭が目覚めてきたところで湯からあがった。
脱衣所にはもう蘇芳によって、おそらく昨日のうちか今日の朝にだろう、服が用意されていた。何も考えずに、柊はそれを身につける。
これがいつもの朝の光景である。そこまでした所で、柊はこれまたいつものように蘇芳の携帯に電話をした。
「ヒーラギ?起きたのか」
「ん」
「わかった、メシ持って戻る」
そこまで聞くと、柊は電話を切った。しばらくすれば、蘇芳が戻るはずだ。
間をおかずに、蘇芳が部屋に帰って来たようだ。ドアをどんどんと蹴る音がする。
柊は戸まで行ってドアを開けた。蘇芳が手に朝食のトレイを持っている。両手がふさがっているので、彼はいつもこうしてドアを蹴って知らせていた。おかげで柊たちのドアの下の部分は、少しへこんでいる。
「おかえり、スオー」
「ハイハイ。おまえももうちょっと早く起きろよなァ。俺、授業中だったんですけどォ」
蘇芳のこうした文句はいつものことなので、聞き流しながら柊は食事に手をつけた。
すっかり冷めきってしまっているのは仕方ない。元々朝食が出されるのは六時から七時半までなのだ。
柊は、蘇芳がこうして世話を焼いてくれるようになるまでは、朝起きられなくて、いつも朝食を食いっぱぐれていた。
しかし今では、柊を心配した蘇芳が、自身の朝食のついでに柊のそれも注文して、取っておいてくれる。
……本当に便利だ、と柊は思う。いや、一応は感謝もしているのだが。
「で?今日の授業は?」
少ない言葉の、要領を得ない質問だったが、正確に柊の言いたいことを読みとった蘇芳は答える。
「今日は花鶏センセの授業だったゼ。ホラ、時間割。柊の好きな月見里センセが来るのは明後日。雪センセは休みだってサ。まあ、あの人はいつものことだけどナ」
花組を担当する教師は三人いる。この三人は、いずれも花組の卒業生だ。
花鶏は文系の授業を、月見里は理系の授業を、雪は主にその他を担当することになっているが、雪はいつも休んでばかりで、あまり顔を見せない。基本的には体育の教員であるので、校庭や体育館の使用が許可されていない花組では授業のしようがない、というのが理由の一ではあった。
花組は基本的に、日替わりで教師がローテーションを組んで授業をすることになっていた。だから、今日花鶏がいたということは、一日ずっと花鶏の授業だ。
花鶏、月見里、雪というのは、もちろん本名ではない。ここでは教員にすら、それ用の名が用意されてしまうのだ。この三つの名前は、もちろん雪月花にちなんでいる。三人だから丁度いい、と彼らが赴任した当時の花組の生徒が付けたそうだ。
もちろん、彼らは腐っても教師であり、社会的に自立した大人で、責任ある立場にいる。生徒たちは皆、彼らの本名を知っていたし、彼らも隠すことはなかった。
花鶏は立花彰五、月見里は小渕一琉、雪は宮川閏というのが本名だ。彼らはそれぞれ、花組時代には蘭、藤、梅と呼ばれていたらしい。
彼らは皆、同級生であった。
花鶏と月見里が親しく、そして梅はこの二人の弟分的存在だった。二人に「小梅」と呼ばれ、かまわれていた。
元々教師を志望していたのは月見里だ。彼は「一琉」という名からわかるが、長男である。父親は有名な実業家だった。
しかし、月見里の父は事業のために一琉の母と離婚し、とある資産家の令嬢と結婚した。一琉は、父方に引き取られはしたものの、一族としては外れ者で、父の後継も弟に決まっている。
それでも兄という意識なのか、弟妹の面倒をよく見ていた彼は、実際非常に面倒見のいい、よい教師だった。柊もまた、月見里のことは信用している。
花鶏は月見里につられて教員になった。つられてとはいうものの、基本的に責任感の強いらしい花鶏は、「ちゃんと」教員をしていた。
この二人の兄貴分につき従って雪も教員を志望し、実際にそうなったのだが、雪にとって大事なのは、兄貴分たちと離れないことであったので、教師としてはいいかげんにすぎた。
よく花鶏に叱られているが、実際花組の生徒に一番人気のあるのは雪だ。雪の授業は授業にはならず、さぼれるから。
まあ、万年さぼってばかりの柊には関係のないことだが。
食事が終わり、欠伸をした柊は、ゆっくりと立ちあがった。
「じゃあ、そろそろ教室に行こうかな。今日は誰がいた?」
ぺしゃんこで、中身のほとんどない鞄を持って、柊が蘇芳に尋ねる。蘇芳は、柊の食べ終わった食事のトレイを手に立ちあがったところだった。
「いつもどおり、ってな。キクとツバキしかいねぇよ」
「そう」
頷くと、柊は部屋を出た。トレイで両手がふさがっている蘇芳の為に、扉を押さえてやることも忘れない。
まあ、蘇芳が持っているのは柊の食器なのだが、そこのところは柊は全く気にしてはいなかった。
食堂に寄って、蘇芳が食器のトレイを片付けるのを眺めながら、柊は問いかけた。
「ねえ、スオー。じゃあ、モモはどこにいるんだろうな」
「さあねェ。寝てんじゃねえのか、おまえみたいに」
いいかげんに答えた蘇芳を、柊はねめつける。それは、柊の求めていた答えではなかったから。
「ちゃんと答えて」
「じゃあ言えばいいのかァ?ソービと一緒にいるんじゃないかって、おまえに?俺がせっかく気ィ使ってやったのになァ」
その、蘇芳の答えは充分予想の範囲内だったが、嫌な気がした。
「なんで、そうだって思うんだよ」
尖った声でそう言った柊に、蘇芳はこともなげに答える。
「だって、あいつら同室申請出したらしいじゃん?ま、当然許可はされなかったケド。でも、今は同じ部屋で生活してるみたいだぜ?」
蘇芳が口にしたことは初耳だったので、柊は驚いた。
「同室申請……?馬鹿なことを」
「実際馬鹿なんじゃん?そんなことしたらどうなるか……ソービはよくても、モモがナ」
「花組」には、不文律と言っていい決まりが無数に存在する。同室に関する決まりもその一つだ。
――同学年、もしくは隣り合う学年以外は同室になってはいけない。
言い換えれば、三年生と一年生が同室になるのは許されない、そういうことだ。
花組は基本的に、同学年、そして隣り合う学年の連帯が強いクラスでもあった。どういうわけか、一つ上の学年が下の学年の面倒を見ることが奨励される。
そんな風潮の中で、その集団に溶け込まずに、二つ上の学年の生徒と親しくする生徒は「悪」だった。
花組は、実はかなり上下関係が厳しいクラスでもあった。学年による上下関係と、蕾組出とそれ以外という二つの上下関係が入り混じってわかりにくくなっているが、その「秩序」を乱す者にはそれなりの報いが待っている。
昔、三年生と一年生が親しくなり、同室申請を出して同室になったことがあった。その三年生は蕾組の出で、当時の花組では上位者であったので、はじめの一年は何事もなく過ぎた。
だが、その三年生が卒業してから、事態は急変した。その一年生も蕾組の出ではあったのだが、そんなことは関係なかった。秩序を乱す者への制裁には、そんな地位など紙ぺらのようなものなのだ。
以後の二年間は、その生徒にとって地獄だった。組のなかのどこにも味方など存在しないのだから。彼は、檻の中で降りかかる悪意と暴力に耐えながら過さざるを得なかった。彼が卒業にまでこぎつけられたのは奇跡に近い。
そんなことがあって以来、この不文律は破られたことがない。
花組の連中だって、みな平穏を望んでいるのだ。ただ、少しばかり歪んでいて、だからこそその歪みを助長させる者が許せなくて。
悪いのは、歪んだ秩序を作り出した揚句に、それが破られるのが我慢ならなくて、秩序の破壊者に対して過度に攻撃を繰り返す花組か。それとも、その中にある暗黙の了解に気付かずに、己のやりたいように行動する者たちか。どちらだろうか?