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08.近づく距離

 春の気配が近づきだした今日この頃。中庭のベンチに座り、澄み渡った空を見上げるように大きく背を逸らす。ぐん、と伸びて、大きく深呼吸をする。まだ肌寒さが残るがコートを着込まなくても外にいられるくらいには温かくなった。

 3年生は卒業し、もうすぐ紫央も進級の時期となる。高校生活最後の年であると同時に、過酷な受験の年とも言える。そこまで不安を感じているわけではないが、3年になれば、紫からのプレッシャーは更に増すだろう。そんな間近に迫る未来を想像してげんなりする。紫央の心は晴れわたった心地良い春の陽気とは裏腹にどんよりと曇り空である。

 そんな気持ちを振り払うように隣に置いてあったスケッチブックを開き、鉛筆を持ってスケッチを始める。

 絵を描くのは紫央の趣味だ。元来観察をすることが好きな紫央は時折、何気なく目に止まった物を絵に描いていた。それはこうしてスケッチブックに描くこともあれば、ノートの端っこやプリントの隙間や裏面など。自分の世界に没頭するというのはとても楽しい。


 「うわっ!上手い!」


自分の世界に入り込んでいた紫央の耳元で聞きなれた声が聞こえて、紫央は描いていた手を止めて、顔を上げる。


「すげ~。委員長にこんな特技があったなんて!」


横を見ると至近距離に七瀬の顔があって、驚きに息が詰まる。彼は紫央の座るベンチの後ろ側から覗きこんで来ていた。


「委員長?」


顔を赤くして固まってしまっている紫央の方を見て七瀬が首を傾げる。七瀬がこちらを向いたことで2人の距離がさらに縮まる。恥ずかしさで頭から湯気が出そうだ。


「ち、近い!」


紫央は急いで距離を取り、七瀬の顔にスケッチブックを叩きつけた。ばしっ、と景気のいい音が鳴り、七瀬からは蛙が潰れたような声が聞こえた。


「委員長、痛い。」

「ご、ごめん……。」


紫央からスケッチブックを取り上げ、開いている方の手で顔を抑えている七瀬に紫央はやり過ぎたと思い素直に謝った。手をどけて見えた七瀬の鼻は少し赤くなっていた。顔面で唯一飛び出した作りになっているのだ、そこに直撃したのだろう。


「大丈夫?」


赤くなった鼻に触れようと伸ばした手を掴まれる。平気だよ、彼はそう言って微笑んだ。どきり、と大きく心臓が鼓動する。陽の光が七瀬の表情をより柔らかく見せる。

 そう言う顔をされるとどうしていいのかわからなくなる。慈しむように細められる瞳に見つめられると、どうしようもなく鼓動が跳ねる。


 「委員長、絵を描くの好きなの?」


なんとか跳ねる鼓動を押しとどめようとしていると七瀬がスケッチブックに視線を向けたまま問いかけてきた。あまり人に見せたくないのだが、先ほど叩いてしまっただけに強く出られず、紫央は素直に頷く。


「なんか、落ち着くから。」

「ふ~ん。」


再びスケッチブックに夢中になる七瀬に紫央はため息をつく。

 夕暮れの図書室で弱音を吐きだして以来、紫央はあまり七瀬を邪険に扱わなくなった。七瀬を突き放すことが出来なくなってしまっていた。知ってしまったぬくもりを失くすのを惜しむように。

 七瀬は七瀬であの日以来、紫央を今日の様に慈しむような瞳で見つめる。まるで傍にいると言われているようで、戸惑う。何故彼が自分にそこまでしてくれるのかがまるでわからない。戸惑いは七瀬への態度を迷わせる。以前のように接することができない。


 「あ!これ、中庭だ。」


ある一枚で手を止めると七瀬はスケッチブックを紫央に向ける。それは今いる中庭のベンチを描いたもの。ベンチには3人の生徒が座っている。以前は1人で座っていたベンチだったそこに、3人。


「これ、俺ら?」


言い当てられ、誤魔化すように俯く。

 独りぼっちだった世界にやってきてくれた優しい人たち。どうしても心に留めておきたくて、絵にしたものだった。それは紫央が描いた中でもお気に入りのひとつだ。


「委員長~?」

俯いていた顔を覗きこまれ、その近さに思わずのけ反るが、七瀬はそのまま追って来る。顔に熱が集まるのを感じ、耐えきれなくなった紫央は後ろ手に弁当箱を掴み七瀬の顔に押し当てた。


「再び……。」

「ち、近いんだってば!」


弁当箱をどかして抗議する。七瀬の鼻は再び赤く染まっていた。え~、納得いかない様子の七瀬は何か思い出したように口を開く。


「そう言えば、前にもこんなことがあったな~。」

「そうだっけ?」


必死に平静を装いながら問いかければ、七瀬はまだ少し赤い鼻に触れていた。その時のことを思い出しているのか、口元が弧を描いている。


「うん。あの時は教科書だった。」

「……ああ、あったかも。」


ぼんやりしていた所に七瀬の顔が近づいて来て、反射的に教科書を七瀬の顔に叩きつけてしまったのだ。国語か何かの教科書で、けっこう厚さがあったはずだから、恐らくあの時の方が痛かっただろう。


「なかなかない経験だよね。」

「七瀬が顔を近づけるのが悪いと思うの。それ癖?」

「目は口ほどにものを言うって言葉知ってる?」

「莫迦にしてる?」


これでも成績優秀で通っているのだ。ことわざくらいは知っている。むっとしてそう言ったのだが、七瀬は気にした様子もなく、話を続ける。


「委員長は隠し事が上手だからね。目を見て、少しでも委員長の気持ちがわかったらって思うんだ。」


どうして、彼はこうなのだろう。

 紫央はなんだか無性に泣きたい気持ちになる。紫央の心に無理矢理踏み込んでくるのではなく、寄り添おうとしてくれる。わかろうと努力してくれる。七瀬が何故女子からモテる理由が少しわかった気がして、苦笑する。


「七瀬は少し、優しすぎるよ。」

「そうかな。」

「いいんだよ。私みたいな奴にまでそんなに優しくしなくても。」


手放せなくなるから。だからあまり、優しくしないで。

 瞳を揺らし、切なく微笑む紫央の頭に突然、大きくて優しい手がのり、やや乱暴に撫でられる。戸惑いながら七瀬を見上げると、彼は眉尻を下げて笑っていた。困っているような、呆れているような、そんな感情が入り混じった表情をしていた。


「俺が柏木さんと一緒にいたいんだよ。嘘を抱えた者同士だからかな。柏木さんと一緒にいると安心するんだ。」


なんか恥ずかしいな、そう言って七瀬は照れ臭そうに微笑む。七瀬の言葉に同意するように紫央も頷いた。そして2人、顔を見合わせ笑った。

 “柏木さん”。初めて呼ばれた名前が2人の距離をまた少し、近づけた。


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