06.変化
あれから寒い日は何日も続いたけれど、結局雪が降ることはなかった。楽しみにしていただけに紫央は内心かなり落ち込んでいた。そして、そんな自分に戸惑ってもいた。今まで、天気のことで一喜一憂したことなどないし、雪が降ることを楽しみにしていたこともない。だから自身に起こった変化が理解できず、ただただ驚き、戸惑うばかりだ。
「紫央?」
窓の外を見つめながら難しい顔をしている紫央に円華が不思議そうに首を捻る。
「どうしたの?ここ何日かずっと空を見て難しい顔してるよ。」
ここにね、皺が寄ってる。そう言って円華が自身の眉間の間を指差す。それを見て、紫央も自身の眉間に触れる。そして紫央を伸ばすようにそこを揉んだ。素直な紫央の行動に円華は苦笑する。
「紫央、雰囲気が柔らかくなったよね。」
唐突な円華の言葉に紫央は瞳を瞬かせる。それはつまり、今までの自分はつんけんしていたと言うことだろうか、と首を捻れば円華が慌てたように両手を左右に振って否定した。
「別に紫央の態度がつんけんしてたわけじゃないよ!演技中の紫央はそれはもう立派な委員長だよ!」
「演技中って……。」
いや、否定はしないが、友達の発言にしては酷くないだろうか、と内心思いながらもこれ以上円華を慌てさせないために黙っておく。未だ落ち着きを取り戻さない円華に苦笑いを浮かべながらそれで?となるべく優しい声で先を促した。
「時々ね、委員長の紫央とは違う紫央が顔を出すの。」
円華の言う意味がよくわからなくて首を捻ると、円華は困ったように眉尻を下げて笑う。
誰よりも紫央の傍にいた円華は紫央の変化を強く感じている。けれども、それを言葉で表すのは難しかった。それでも紫央にその変化をわかって欲しくて、円華は必死に言葉を紡いだ。
「笑った顔がね、自然で優しいんだよ。これが本来の紫央なのかなって思うの。」
本来の自分。それがどんなものか、紫央にはわからなかった。ただわかるのは、自分が少しずつ変わり始めているということ。
今までの自分が本来の自分かと言われれば、違う、と答える。品行方正、成績優秀、誰からも頼りにされる優等生。それは、母親の紫が紫央に求めた理想の娘だ。クラスメイトたちに見せているのは理想を現実にしようとした姿。
なら、本当の自分はどんな人間なのだろう。そんなこと、考えたこともなかった。
「私が本来の自分になるのはいいこと?」
(お母さんはそんなこと求めていないのに?)
先ほどまでは気にならなかった寒さが紫央の体を襲う。指先が凍ってしまったかのように冷たくなっていく。体が震えるのは寒さからか、言い知れぬ恐怖からだろうか。呼吸をするのさえ苦しく感じた。
抑揚のない声で紡がれた言葉に円華は紫央の異変に気付いた。血の気を失った顔からは抜け落ちてしまったかのように表情はなく、体を小刻みに震えていた。まるで何かに怯えるかのように自身の体を両腕で抱きしめている。
「どうしたの、紫央。」
俯いてしまった紫央の顔を覗きこむようにすれば、円華の視線を恐れるように紫央は強く瞼を閉じた。まるで全てを拒絶するように、耳も両手で塞いだ。
(コワイ。)
それは向けられる視線かもしれない。紡がれる言葉かもしれない。はっきりとはわからない。ただ、怖い。紫央の心をそれだけが埋め尽くしていく。
「委員長。」
突然、温かなぬくもりに包まれた。さっきまであんなに寒かったというのに、今は温かくて震えも止まっている。
「大丈夫だよ、委員長。大丈夫。」
聞こえないように閉ざしたはずの耳に優しい声が入り込む。少しずつ呼吸をするのが楽になってくる。温かな手が優しく紫央の髪を梳く。
恐る恐る、耳を塞いでいた手を外し、固く閉じていた瞼を開けた。開いた視界に映ったのは心配そうにこちらを見る優しい笑顔。
「……高槻?」
いつの間にか喉がからからに乾いていたようで、七瀬を呼ぶ声は酷くかすれていて、彼の耳に届くかどうか微妙なものだった。しかし、七瀬は紫央の声をきちんと拾ったのか、笑みを深め、頷いてくれた。
「委員長、深呼吸しようか。」
はい、吸って、吐いて。七瀬の言葉に素直に従い、深呼吸を繰り返す。ぼんやりとしていた思考が少しずつはっきりしてくる。
そうすると自分の状況もわかってくる訳で、紫央はまず、自分と七瀬の顔の近さに驚き、羞恥で頬を染める。そして七瀬に抱きしめられている自分の状況に気付き、慌てて彼から離れた。
「お、戻った。」
口調こそ軽く、いつもの七瀬だが、その表情はほっとしているようだった。
わけがわからなくて混乱する。そもそも、意識が混濁する前、七瀬はいなかったはずなのだ。しかし気がつけば七瀬に抱きしめられていて……。
混乱している紫央の冷えきった手にふわり、と温かなものが触れる。驚いてそちらを見れば、心配そうに自分を見る円華がいた。
「ごめんね、紫央。」
突然謝られ、何がなんだかわからない。紫央はもう一度深呼吸して、心を落ち着けると、この状況が起きた原因をゆっくり思い返した。
先ほどまで、円華と話していたのだ。本来の自分。変わっていく自分について。
「ごめんね、紫央。私が、変なこと言ったから……。」
「違うよ、円華の所為じゃない。私はもう、大丈夫だから。」
円華の手を握り返し、彼女の顔を覗きこみながら微笑んだ。紫央の笑顔を見た円華もほっとしたように笑みを浮かべた。
「七瀬も、ありがとう。」
「いいえ。」
からかうでもなく、ふざけるでもなく、七瀬は一言そう言った。その表情は今まで見た中で一番落ち着いていて、大人びていた。
本来の自分。それがどんなものか、まだよくわからないし、そんな自分が受け入れられるのか不安は残る。けれど、目の前の2人は、きっとどんな自分も受け入れてくれる。そんな確信があった。