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05.降り積もるもの

 自室で勉強をしていた紫央の耳にガシャン、と何かが割れる音が聞こえてきたのは21時を少し過ぎた頃だった。夕食も風呂も済ませ、あとは寝るまでゆっくりと過ごすはずだったが、その物音に静かで穏やかだったはずの平穏は崩されてしまった。

 物音の原因は簡単に想像できた。シャーペンを置き、部屋を出る。足音を忍ばせて階段を下りていけば、泣き叫ぶ女の声とそれに鬱陶しそうに答える男の声がした。思った通りの展開に紫央はため息を吐く。

 泣き叫んでいるのは母の柏木紫。その対象となっているのが兄の柏木圭太。先ほどの物音は恐らく癇癪を起した紫が床に何かを叩きつけた音。音からしてガラスが割れたのだろう。後片付けは紫央の仕事だ。自然、ため息が口を吐く。

 兄の圭太は紫央の3つ上だ。順調に行けば大学2年生、もしくは社会人2年目というのが妥当な所だ。しかし圭太は大学にも行かず、働いてもいない。所謂フリーターだ。いや、バイトもちゃんと行っているかすら怪しいところだ。


 「どうしてそんな風になっちゃったの?高校の時はあんなに頑張ってたのに……。」

「頑張る?今更何を頑張るんだよ。俺に何を頑張れって言うんだよ!」


紫の昔を掘り起こす言葉にとうとう圭太の怒号が家中に響き渡った。怒っているのに、その声は酷く悲しげで、紫央は階段に座りながら立てた膝に顔を押し当てた。


「ごめんなさい……。」


紫央の小さな呟きは勢いよく開いたリビングのドアの音に掻き消された。驚いて顔を上げれば、出てきた圭太と目が合った。ほんの一瞬だけ合ったその瞳は驚きと後悔の色を滲ませ、苦虫を噛み潰したような顔をして、圭太はすぐに紫央から視線を逸らした。そして、そのまま紫央の横を通り抜け、階段を上がって行った。

 圭太が階段を上がって行って暫くしても物音ひとつしないリビングの様子が気になり、紫央は立ち上がると開け放たれたドアから中に入った。

 昔は家族みんなで囲んでいた食卓のテーブルの前で母、紫は力なく座りこんでいた。彼女の前には花瓶だったものが粉々に砕け散っていた。

 紫になんと声をかけていいのかわからず、紫央はとりあえず割れた花瓶を片付けるために動きだした。大きなかけらを集め、細かな欠片は濡らした新聞紙を当てて取った。


「圭太は?」


消え入りそうな小さな声で紫は尋ねた。破片や新聞紙をまとめてゴミ袋に入れる手を止め、一度だけ紫の方を見てから紫央は部屋に戻った、とだけ答え、作業を続けた。


「どうして、あんな風になっちゃったのかしら。」

「………。」

「こんなはずじゃなかったのに……!!」


抑えていたものが堰を切って溢れだしたかのように紫の瞳から大量の涙が零れ落ちた。泣きじゃくる母親の姿に紫央は唇を噛みしめる。


(ごめんなさい。)


紫央は肩を震わせ、嗚咽を滲ませる紫の背に何度も何度も心の中で謝罪した。

 割れた花瓶の片付けが終わる頃には、紫も大分落ち着き取り戻していた。紫央は紫に紅茶を淹れてやり、彼女の向かい側の席に座った。


「怪我、しなかった?」

「紫央はお兄ちゃんみたいになっちゃだめよ。」


紫央の問いかけに応えることなく、紫ははっきりとした声でそう言った。先ほど泣いていた人が出した声とは思えないくらいに冷たい声で。


「いい大学に入るためにたくさん勉強しなさい。問題なんて、起こしちゃだめよ。」

「……うん。」


紫は紫央に完璧であることを求める。完璧などありえないと紫央は知っている。綻びは必ず何処かにある。完璧だったはずの圭太の道が崩れたように。だから、紫の言いつけを守る必要はない。自分らしくすればいい。


(そんなこと、出来るわけがない。)


自分で自分の考えを否定する。必死に紫の期待に応えようとする紫央の心の中は複雑だった。罪悪感、嬉しさ、絶望……。様々な感情がない交ぜになりながら、その全てが紫の言葉に逆らえなくさせる。まるで呪いの様な言葉たちは紫央を雁字搦めにして動けなくさせる。

 そして、何より紫央を怯えさせるのは、完璧が崩れた時、完璧で無くなった自分を母は必要としてくれるのか、ということだった。虚像でない自分が愛される自身がなかった。

 怖くて聞けない疑問は不安となり、紫央の心に降り積もっていく。


◆   ◆   ◆   ◆


 吹き抜ける風の冷たさに紫央は体を震わせる。自然と体に力が入り、持っていた教科書を強く抱きしめた。ここ最近は温かな日が続いていたが今日は一気に気温が下がり、どんよりと曇った灰色の空からは今にも雨か雪が降ってきそうだ。

 なんとなしに教室へと戻る足を止めて窓の外を眺める。青空が見えない空は閉塞感があって、なんだか心が重くなる。先日の紫の言葉が頭の中に何度も蘇ってきて自然と口からため息が零れる。自分はどうやら相当参っているらしい。そう思ってまたため息が出る。


「随分暗い顔してるね、委員長。」

「神出鬼没ね、高槻。」


いつの間に傍にやってきたのか、紫央の隣には七瀬が立っていた。気がつけば近くにいる七瀬の神出鬼没さに大分馴れてきた紫央は驚くことなく冷静に反応した。


「雪、降るかな?」

「雨の可能性の方が高そう。」


そもそもこの地方はあまり雪が降らない。寒いし、雪が降りそうだとは思うが、恐らく降ってきても雨だろう。だが、七瀬はそんな現実的な予想はどうでもいいらしく、自分の希望を呟くように言う。


「俺は雪の方がいいな~。」

「どうして?」

「雪が降るとさ、わくわくしない?」


そう言って笑う七瀬は無邪気で子どものような発言も相まって余計に幼く見える。そんな彼につられて、紫央も笑みを浮かべる。雪が降ったら、と楽しそうに語る七瀬に紫央は相槌をうって聞いた。先ほどまで感じていた閉塞感が今はもうなくて、胸には温かな気持ちが広がっていく。

 不思議だ、と思う。あんなに嫌いだった七瀬の隣にいるというのに、紫央の心は誰といるときよりも穏やかだった。


「雪、降るかな。」


今度は紫央がそう呟く。空を見上げる紫央の瞳は期待を込めたように輝いていて、その横顔は少し幼い。いつも大人びて見える少女の年相応の表情だった。


「降るかな?高槻。」


空に向けられていた瞳を今度は自分に向けられたことに七瀬は内心驚く。以前は強く感じていた紫央の自分への嫌悪を今は感じられなかったから。そのことがなんだか照れ臭くて、それを誤魔化すように窓の外に視線を向ける。


「降ったらいいね。……委員長。」

「ん?」

「もし、雪が降って、積もったらさ……、一緒に雪遊びしようよ。」

「雪遊び?」

「うん。雪合戦に雪だるまとか、色々。」


きょとん、としている紫央にそう説明すると彼女の表情は段々と明るくなってくる。自分と七瀬、それから円華。三人で真っ白な絨毯の上で遊び回る姿を想像して、紫央は自分でも気付かぬうちに柔らかな微笑みを浮かべていた。


「楽しそう。」


そう呟くように言って、再び視線を空に向けた。そして厚い雲で覆われた灰色の空に願う。

 どうか、雪が降りますように。


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