02.嫌よ嫌よも好きのうち?
職員室へ行った七瀬は4限が終わってから教室に戻ってきた。クラスメイト達に冷やかしの声をかけられ、それを笑顔でかわしながら談笑している。
「七瀬、戻って来たね。」
「ふ~ん。」
クラスメイト達の中で唯一関心を持たない紫央に円華は苦笑いを浮かべる。相当嫌っているらしい。しかし円華としてはそこが気になる点でもあった。紫央はあまりに他人に対して好き嫌いの感情をあまりはっきりと持つタイプではなかったから。
「嫌よ嫌よも好きのうち?」
「は?あれだけは勘弁して。出来るなら関わりたくないんだから。」
辛辣な言葉に円華は目を瞬かせる。紫央の言葉や雰囲気から感じるのはまさしく嫌悪だった。だから言葉を重ねようとして、何を言っていいのか円華はわからなくなってしまった。
「何の話?」
ひょっこり顔を出した人物に円華は驚きの声を上げ、紫央は心底嫌そうな顔をする。本当は顔面を殴ってやりたくなったが、関わりたくない気持ちの方が先行して、紫央は次の授業の準備を始めた。
「もう!七瀬、驚かせないでよ。」
「委員長は驚かないの?」
「わー、びっくり。」
紫央は七瀬の方を見ようともせず棒読みで言う。そこに京子がひょっこり現れた。
「委員長、昼休みは七瀬捕まえられた?」
「うん。あの時はありがとう。」
笑顔を向けて柔らかい口調で京子と話す紫央に七瀬は呆れを通り越して感心する。ここまで口調や態度が違えば最早別人だ。七瀬の考えていることがなんとなくわかる円華は笑いを堪えるしかない。
「七瀬。あんまり委員長に迷惑かけちゃだめよ。」
「おー。……委員長。」
京子が離れて行ったのを確認して七瀬は紫央に声をかける。
「俺のこと嫌いでしょ。」
「大嫌い。」
七瀬の顔を見てはっきりと告げてやれば、七瀬は嫌な顔をするどころか楽しそうに笑った。笑顔を向けられる意味がわからず紫央は怪訝な顔をする。
「俺、委員長のこと好きだよ。」
「……円華、この人殴っていい?」
「紫央、落ち着いて。目がマジだよ。」
慌てて円華は立ち上がると七瀬と紫央の間に割って入る。それでも七瀬は笑顔を崩さない。それが紫央の苛立ちをさらに増させた。人を馬鹿にしたようなその笑みが気に入らない。好き勝手に日々を過ごすのが気に入らない。高槻七瀬が気に入らない。
「委員長はさ、俺の何を知って嫌いだというわけ?」
「じゃあ高槻は私の何を知って好きだというわけ?」
「………。」
そう返されるとは思っていなかった七瀬は言葉に詰まる。大抵の女子は七瀬に好きと言われれば喜んだから、そこに意味が必要だと考えたことはなかった。好きか嫌いかと言えば好き。その程度の気持ちしか籠っていない。
「私はあんたが嫌い。その軽々しい所もいい加減な所も全部嫌いよ。これで満足?」
「紫央!言いすぎだよ!七瀬も興味本位で紫央の神経を逆なでしないで!」
紫央は円華に叱られ、勢いをそがれ、七瀬は円華によって追い払われた。その後姿を紫央は苦々しげに見つめていた。
「ごめん、円華。」
「いいけど。珍しいね、紫央が感情的になるなんて。」
「うん。ちょっと、失敗した。」
空笑いを浮かべ、ため息を吐くと両手で顔を覆った。そんな紫央の様子を円華は心配げに見つめ、頭を優しく撫でた。
◆ ◆ ◆ ◆
学校の図書室で本に読みふけっていた紫央だったがふと時計を見上げて思わずあっ、と声を上げた。慌てて口を手で押さえるが幸い、下校時間間近の図書室には他に人はいなかった。図書司書の先生に挨拶をして、紫央は図書室を後にした。真冬の今は日が短く、もう外は真っ暗である。校内であるにも関わらず体が震えるほど寒い。雪が降るのではないかというくらい冷え込んでいる。
「今何時だろう。」
家に遅くなると連絡を入れていなかったことを思い出し、鞄の中を探るが携帯がない。コートのポケットやスカートのポケットも探すが見つからない。もし置いてきたとするなら先ほどまでいた図書室が一番可能性が高いのだが図書室で携帯を開いた覚えはない。
「とすると……。」
もうひとつ置いてきた可能性のある場所を考え着き、紫央はげんなりとする。そして踵を返して階段を上がった。自分のクラスへと。
紫央のクラス2年4組は先ほど図書室があった北棟ではなく南棟の3階で少々遠い。さらに言えば昇降口からも遠い。行ったり来たりは面倒で仕方がない。そんなこんなでようやく2学年の階に到着すると暗いはずの教室のひとつに明かりが点いている。しかもそれは4組だ。不思議に思いながら首を捻り4組に近づく。そして、なんとなしにこっそりと中を覗いた。
「あ……。」
中にいたのは七瀬だった。窓際の席に座り、視線は外に向けられている。しかし、その瞳には何も映していないように見えた。瞳から一筋、涙が零れる。それを見た瞬間、紫央の心に溢れたのは罪悪感だった。
“委員長はさ、俺の何を知って嫌いだというわけ?”
何も知らない。七瀬のことなど何も知らない。知ろうともしなかった。
毎日を自由気ままに楽しそうに過ごす彼を疎ましいと思った。悩みなどないと勝手に決め付けた。そんなはずないとわかっていたはずなのに。それが大なり小なり人は悩みを抱く生き物だ。だって、生きているのだから。みんな悩みを抱きながら日々を過ごしている。
彼のように自由気ままに、自分をさらけ出せないから疎ましく感じた。完全な八つ当たりだ。
扉にかけた手を下ろし、紫央は踵を返す。何かに苦悩する七瀬にかける言葉はない。きっと彼も今の自分の姿など誰にも見せたくはないだろう。
「委員長。」
廊下を歩く紫央の背中に声がかかる。声をかけられるとは思っていなかった紫央は驚きに目を瞬かせながら振りかえる。
七瀬に悲しみの表情はもうなかった。そこにあるのはいつもと同じ軽薄そうな笑み。いつもなら腹の立つその笑みが、紫央には仮面のように見えた。
「これ、取りに来たんでしょう?」
七瀬が紫央に差しだしたのは紫央が取りに来たはずの携帯だった。
「ありがとう。」
小さな声で礼を言い、差しだされたそれを受け取る。相変わらず笑みを浮かべ続ける七瀬に、紫央は唐突に理解する。彼も仮面を被っている、と。
“委員長ってうそつきだよね”。
七瀬はそう言った。でも、と紫央は思う。自分が嘘つきなら、七瀬も相当嘘つきだと。