11.味方
「柏木さん。」
静かな声で名前を呼ばれ、紫央はゆっくりと顔を上げた。七瀬はただ真っ直ぐに紫央を見ていた。いつも色々な表情を浮かべるその顔には今は何の表情も浮かんでいない。けれど、その瞳は色々な想いを含んでいるように見えた。
その瞳に見つめられ、紫央の体に緊張が走る。何故、七瀬に自分の話しをしてしまったのか。全てを聞いた七瀬は何を思ったのか。呆れられただろうか、嫌われるだろうか。色々な考えが頭を巡り、不安が渦巻く。七瀬の次の言葉が何なのか、紫央は緊張しながら待った。
しかし、訪れたのは言葉ではなく、紫央を包みこむ温もりだった。腕を引かれ、気がつけば、紫央は七瀬の腕の中だった。驚きに目を見開く。
「ごめん。何て言えばいいのか、わからない。」
弱々しい声で、悔しげにそう言う七瀬に紫央は黙って頷く。
何も、言ってくれなくていい。どんな言葉も今の頑なな心には届かないのだから。
例え、圭太の事故が紫央のせいではないと言われても、紫央は自分を責め続ける。紫央自身がそう思っているのだから、その考えは変わらない。
例え、泣いてもいいと言われても、紫央は泣かない。圭太が泣いていないのに、自分が泣くのはずるい、と言って紫央は泣かない。
どんな言葉も、今の紫央には届かない。だから、何の言葉もいらない。何も言ってくれなくていい。それよりも、見捨てずにこうして傍にいてくれることの方が紫央には嬉しかった。放れて行かない温もりが、優しさが、嬉しかった。
そっと、七瀬の胸を押し返し、紫央は笑みを浮かべる。
「高槻に話したら、ちょっと楽になったよ。……ありがとう。」
心からの感謝と笑顔を向けたつもりだった。けれど、ほっとした表情を見せてくれると思った七瀬の顔も悲しげに歪められたままだった。
「高槻?」
「……から。」
「え?」
「頼むから……。これ以上、嘘つかないでよ。」
悲しげに揺れる瞳に見つめられ、七瀬が本当に心配してくれていることがわかる。これ以上、甘えるべきじゃない。そうわかっているのに、頬を生ぬるいものが伝う。ずっと我慢してきた涙が溢れだす。
「どうしよう……、高槻……。おに、ちゃん……、出てっちゃう。もう、家族一緒には……、いられない、のかな?」
子供のように泣きじゃくりながら、どうしよう、どうしよう、と何度も繰り返した。高槻、どうしよう、そう言って泣き続ける紫央の手を掴み、七瀬は立ち上がらせた。
「高槻?」
「行こう。」
何かを決意したように、はっきりとした声でそう言って七瀬は紫央の手を引いたまま図書室を後にした。無言で進んでいく七瀬に紫央は戸惑いながらついて行く。
「紫央?七瀬?」
昇降口までやってくると円華が下駄箱に預けていた身体を起こし、不思議そうに首を傾げる。紫央は泣いた顔を見られたくなくて、七瀬の後ろに隠れる。
「円華、柏木さんの家わかる?」
「え?」
「な、何言ってるの?」
戸惑いを浮かべながら紫央は七瀬の制服の裾を引く。しかし七瀬は構うことなくもう一度円華に尋ねた。
「柏木さんの家わかる?」
「えっと、わかるけど……。」
「案内して。」
紫央の戸惑いも円華の戸惑いも全て無視して、七瀬は紫央を引きずるようにして学校を出た。状況を飲みこめない円華だったが、慌てて2人の後を追う。
円華の言葉通り電車に乗り、紫央の家の最寄り駅に降りる。本気なのだ、と感じ紫央は慌てる。
「ちょ、ちょっと、待って!」
自分を掴む七瀬の手を空いた手で掴み、制止を呼び掛ける。しかし七瀬は構うことなく歩を進める。紫央の中に焦りが増す。
「待ってってば!」
今度は七瀬の手を振りほどこうとするがしっかりと掴まれた手は離れない。
「高槻!」
大声で名前を呼べば、七瀬はようやく足を止める。振り返った七瀬はこつり、と紫央の額を小突いた。強くはないが決して弱くもない衝撃に、構えていなかった紫央はよろめく。体制を立て直して、おでこをさすりながら何をするのだ、と七瀬を睨み上げ、紫央は目を瞬かせた。
七瀬はとても複雑な表情をしていた。色々な感情の混じった表情。
「高槻?」
「俺、今怒ってる。」
「え?」
「柏木さんを悲しませる家族にも、全部自分の所為だって閉じこもっている柏木さんにも、何もしてやれない俺にも。」
怒っている。七瀬はそう言うけれど、怒っている人の表情ではない。確かに怒りもあるように見えるが、それ以上に悲しんでいるようにも見える。
「怒っているだけ?」
「怒っているし、悲しんでいるし、喜んでいる。」
意外な言葉が混ざっていて紫央は訝しげに七瀬を見る。喜ぶべき所など、あっただろうか。そんな気持ちがありありと表情に表れていたのだろう。七瀬が苦笑する。
「嬉しいんだ。柏木さんが、俺に話してくれたこと。嘘をつかないでくれたこと。」
不謹慎でごめん。そう言って七瀬は笑う。その言葉が、紫央にとってどれだけ嬉しいか、きっと七瀬はわかっていない。泣きたくなるくらい、今すぐ抱きつきたいくらい嬉しい。
「紫央。」
それまで黙っていた円華が七瀬の隣に並び、真剣な表情で紫央を見る。
「私は、今どういう状況なのかよくわからないけど私は、紫央が大好き。もっと紫央のこと知りたいし、私のことも知って欲しい。だから私にもありのままの紫央を見せて?そうしたら、今度こそ本当の友達でしょ?」
そう言って優しく笑う円華に、止まっていたはずの涙がまた零れる。
こんなにも完璧を装いながら、こんなにも不完全で、ずるい自分を。普通の女の子としての自分を。本当の柏木紫央を受け入れてくれたことが嬉しい。
「ありがとう。」
泣くのを我慢しながら、掠れたような声で紡がれた言葉に七瀬も円華もただ優しく笑ってくれた。
「何の役にも立てないけど、味方ではいられるから。だから、頑張れ。柏木さんが本当に受け入れて欲しい人たちに、自分を晒すことを恐れないで。本当の柏木さんで、家族に話しておいで。」
エールを送るように優しく背を押される。目の前には見慣れたドア。
いつの間にか、紫央の家に到着していたのだ。
ごくり。紫央の喉がなる。緊張と不安と恐怖で体が震える。本当は今すぐ逃げ出してしまいたい。
けれど、味方でいてくれる人がいるから。
紫央は後ろを振り返る。優しく微笑んでくれる七瀬と円華に笑みを返す。緊張していて、ぎこちなくなってしまったが、それでも笑った。
(頑張るから。)
そう、心の中で誓った。