夜すこし前
吸い込まれそうな瞳ってこういうものか。
日本じゃまずお目にかかれない、不思議な色のつややかな瞳がエリを映す。どちらも口を開かない。まずいなぁとエリは思った。
(なにかに似てると思ったらまいちゃんだよ。こういうの、邪険にしにくいんだよねー…)
高校卒業結婚した友達の、先月生まれたばかりの赤ちゃんを思い出す。その赤ちゃんばりに純真な目でエリを見つめるアジサイの顔が、もう一度近づいてきた。
「ちょっ…と!」
すんででかわした顔の、側面を向ける形になって、アジサイの口唇が耳をかすった。肩が震えて声が漏れる。戸惑うようにアジサイが離れた。しかしすぐに、今度は狙いを定めて耳をはむ。逃げないように力を込めて。
(もう…恥ずかしい!声だすなよわたし!)
なにがうれしくてこんな大自然の中で会ったばかりの男と艶場を演じねばならんのだ。だが両手はぎっちり掴まれている。暴れるほどアジサイに引き寄せられる。握り締めたエリの指に這わせるように、その長い指がなぞる。腰をひこうとすると足がひざを割った。
(好き放題しやがって…)
目を側めると下っぱらに力を込めて、
「んっ、…ってってば!」
なんとか身をよじるとすねめがけて渾身の蹴りをはなった。
手の離れたすきに距離をとって、捨て台詞、家のなかへかけこむ。
「バカ!変態!二度と顔見せんな!」
ああ、もうちょっと気のきいたこと言いたい!今度極妻でも見て勉強しよう。だいぶ混乱した頭で考えてながら、ドアを閉める前に振り返って睨みつけてやった。
アジサイは、相変わらず無表情だった。
ドアを背に、大きなため息が出る。
てっちゃんに言えない秘密ができてしまった。とびきりめんどくさい秘密が。…なんとしても帰らなければ。はやく!
虎に言ってもむだだろうけど、人相手ならなんとかなるはず。虎以外にもわたしを帰すことが出来る人だっているはずだ。計画は穴だらけ、それでも勢いのまま、食堂の反対側の部屋にエリは飛び込んだ。
「カナリア!」
「あ?どうした!?」
ぎょっとしてエリを見る狩人ふたり。そのうち籠絡しやすそうなカナリアを狙ってその胸にすがりついた。
涙をあふれさせたまま。
「なにかあったのですか、クスノキさま」
「クスノキさま!」
ふむ。ファルカも女の涙には弱かったようだ。でもまあ妻の目の前で夫にすがりつくのも問題あるし、いいか。
もちろん、嘘泣きである。あまり得意ではないのだが、高校球児最後のマウンドを必死に想像してなんとか涙を搾りだした。エリにとっては映画より小説より泣ける風物詩である。
「帰りたい…、……」
「…急にどうしたんだよ」
カナリアがエリの背をやさしく叩く。
「だめなの…。すこしでも長く、そばにいたかったのに…」
ちょっと悪質なうそだ。ごめんね、カナリア、ファルカ、亀のヨキ。
「もう長くないの。…こうしてる間にもヨキが死んじゃったらって思うと……」
「ヨキ?」
「……弟」
ヨキは、去年買ったペットの銭亀。今のところ死ぬ気配はない。ベタなうそだがエリの精一杯だった。先ほどからの自分の機転のきかなさに、エリは少し悲しくなった。
「昨日はそんなことおっしゃらなかったではないですか」
さすがにファルカはうさんくさそうに眉をひそめる。
「だって夢だと思ってたんだもん」
「神使さまがあちらの時を止めてくださっています。心配はないのでは?」
「そんなの信じろっていうの?」
やっぱり無理か。
「いじめるなよファルカ。弟が心配なのはしょうがないだろ」
「カナリア…」
ファルカが八の字眉になる。勝機が見えた!
「でもな、エリ。帰しかたなんてわからんぞ。神使さまに頼んだってやってくれるわけないしな」
…のは気のせいだった。
「なんでぇ!」
「なんでって。神使さまが呼んだんだから帰すのも神使さまの胸ひとつだろ。あたしらが意見することじゃないよ」
「ついでに言えば神使さまのほかにこのようなことが出来る方はいらっしゃいません」
「うそ…」
「いえ。神使さまより貴い方はいらっしゃいませんから」
(どんな信仰だよ!まるっきり原始宗教じゃないの?)
エリは、神使としてまつるくらいなんだから神崇拝があって、それなりに宗教の体系が出来ていると考えていた。シンボルとして虎がいて、神主とか神官が形をまとめていると。
「…司祭とか…聖職者はいないの?」
「神事に携わる者という意味なら…わたくしでしょうね。わたくしとカナリアのほかにはいません」
その言葉を反芻して考える。これは、そんなに大規模な信仰ではないのかもしれない。もしかすると。ファルカの知らない(もしくは言わない)同じような力を持った存在がいるかもしれない…?