夕方すこし前
「…この世界の一般的なあいさつなの?」
「…あれはこの地域では親しい恋人や夫婦間のあいさつです」
うん。そうですか。
ナンパ慣れしているエリでも、今のは予想外だった。まあ、おでこだしいいけど。しかし、迂濶にもドキドキしてしまったのが恥ずかしかった。実をいえば、てっちゃん以外にキスされたのは初めてだ。
いつまでもぼうっとしたままのエリを、虎がしっぽでぺしぺし叩いた。焼きもちやいてるのかい。生意気だねー。頭をわしわしかいてやった。
それからカナリアに向き合う。
「服届いたけど、今日はこれ着てていいかな?着替えるのも面倒だし」
固まっていたカナリアがはっとして答えた。
「あ?ああ。いいぞ」
まじまじとエリを見つめる。
「クスノキさますげえなぁ…。アジサイが女に惚れる日がくるとは思わなかったよ」
「アジサイ?今のが?」
「そうです。神使さまを最初に見つけた子です。無口だったでしょう」
そういえば、一言もしゃべらなかった。あれでよく働けるもんだ。
それにしても、とエリは荷物を抱え直した。
「ずいぶん買ったね…。その八月さん?にお礼言いたいんだけど」
ファルカがにっこり笑った。
「必要ありません。どのみち忙しい方ですから、面会を願い出てもひと月は待たされるでしょう。用があればあちらから呼び出しがきますよ」
「…そう」
あくまで言葉はやわらかだが、目には有無を言わせない光があった。会いたくないと顔にかいてある。どうやら八月さんとやらには近づかない方がいいらしい。それきりその名を口にだすことはやめた。
狩人とはいうものの、彼らは聖職者でもあった。
朝食のあとも虎が家の周りをうろうろしているので、出かける必要がないらしい。いちばんの仕事が虎を守ることだからだ。そこで、二人はたまっているらしい書類仕事を片付け始めた。だいたいが、虎のご利益を分けてくださいという嘆願書。どうするのかと聞いたら、ときどき虎と共に巡業(?)して回るのだそうだ。
「わたし、そういうのを手伝えばいいの?」
手元から目をあげて、ファルカが言った。
「クスノキさまはそのようなことなさらなくても結構ですよ。神使さまのお側にいてさえくだされば」
「…ほんとうに、そのためだけに呼ばれたの?」
「……神使さまがおっしゃるには…その通りです」
窓から木陰で寝転がる虎が見えた。あいつ、わたしにどうして欲しいんだろう。気の済むまで撫でてやれば満足して帰してくれるかな――。
二人して机に向かう狩人を残して、エリは外へ出た。虎はしらんぷりして寝たままだ。エリは散らばっているがらくたを避けながら、虎のそばに座った。そっとつついてみると、耳をぴくぴく動かす。その毛皮になんどか手を滑らせて、大きな背にもたれかかった。
「困るんだよねぇ~わたし…。誘拐だよ?きみのしたこと…」
答えるはずのない虎に話しかける。返事は返せなくても、虎はエリの顔をじっと見つめる。こはく色の美しい瞳に射ぬかれて、息が詰まった。
「あんたが悪いんだからそんな目で見ないでよね。とにかく、帰してもらえるとうれしいんだけどなー、出来るだけ早く」
(言っても無駄かな)
しかし虎以外に帰る手段を知らない。地道に懐柔作戦をとりながら他の手段も調べることにしよう。
一日中カナリアたちが仕事でこもっていたので、日が暮れるまでエリと虎は並んで座っていた。一人でしゃべるエリと、大人しく聞いている虎。太陽がだいぶ傾いたころ、おもむろに虎が立ち上がり、二、三度しっぽを振るとそのままどこかへ行ってしまった。ファルカさえ知らないという住みかに帰るのだろう。
(ファルカたちはまだ仕事中みたいだし、わたしが晩ごはん作らないとだめかな。あんまり得意じゃないだけどな。)
しばらく虎を見送って、中へ戻ろうかと方向転換したとき。
「ぎゃっ」
すぐ鼻の先に人が立っていた。いつの間に現れた!?
「びっくりした…。えっと…アジサイさん?ファルカに用ですか」
相変わらずの無表情でアジサイは首を横にふる。かわいた暖かな手がエリの指をつかんだ。
「…離してくれます?」
無言。
引き抜こうとしたが結構力が強い。抜けない。半目で見上げると、アジサイが口を開いた。
「なまえ」
「名前?あ、カナリアに聞いたんです」
「あんたの、なまえは?」
「…楠エリです」
「くすのき?えり?」
「はい。エリです」
アジサイが小さくうなずいた。
腕をひいて抱き寄せ、もう一方の手でエリの後頭部を支える。紫の瞳がすぐそこに、吐息のかかる距離にあった――
のを、必死に自由な手で押し戻す。
「彼氏いるので!」
なんだこの積極性、こわい!
「おれにしたら、いいよ」
まっすぐにエリを見つめて、少しかすれた声がささやく。近い、こわい、こわいよう!……でもかっこいい。
たすけててっちゃん!