アジサイは虎がきらい
七年前のこと。
元々温暖で雨の多い土地であったが、その年はいささか度が過ぎた。年明けは落雷と共に訪れ、一ヶ月も雨が降り続いた。土中の栄養は流れ、土地は痩せ、陸の生き物は住みかを奪われた。再び太陽をおがんだ人はみな、家族か友人を失っていた。
雨が上がったのに最初に気付いたのはアジサイだった。
アジサイは、その花を名の由来に持つ無口な青年だった。人々が不安な夜を屋根の下で過ごす中、アジサイはひとり、道にあふれる水に浮かべた小舟の上にいた。
雨が、水がすきなのだ。そのせいでアジサイと名付けられた。
小舟に雨がどんどんたまる。ついに、ゆっくり舟が沈み始めたとき、アジサイはどこからか明かりを感じた。沈む舟に刺激を与えぬよう、静かに辺りを見回す。まつげからしずくが垂れた。
アジサイが見たのは、金の光を放つ動物だった。まぶしくてよく見えない。目をこらすうちに光は弱まり、それが虎であるのがわかった。そして、光がまったくおさまってしまうころには、アジサイに降り注ぐのは霧雨になっていた。
あの虎が雨を止めた。アジサイにはわかった。
それだから、アジサイは虎がきらいだった。
「これは神の使いに違いないと。それ以降この庭で神使さまにお過ごしいただいているのです。罰当たりなことですが、異郷のものなどは神使さまのお美しい毛並を知り、それを奪おうとやって参ります。それを追い払うのがわたくしどもの仕事です。わたくしどもは神使さまがお姿を現されたときから神使さまにおつかえして参りました。わたくしが多少、神使さまのお言葉がわかるものですから…。クスノキさまもどうぞ、なんなりとお申し付けください」
虎はごろんと横になって、しっぽを軽くゆらしている。エリはそれに背を預け座っていた。ファルカは少し離れたところに行儀よく座り、カナリアはその後ろであぐらをかいている。荒々しい態度は変わらないものの、敵意はすっかり消えていた。むしろ今は、話が終わるのを今か今かと待っているようだ。
ずいぶん原始的な話だとエリは思った。まるで昔話じゃないか。
虎が現れたとき雨が止んだのも、偶然にしか思えない。そうしてエリは虎を撫でて、でもこの虎がただものではないということはなんとなくわかっていた。
わたしを食べなかった。それどころか、対峙しても恐ろしさを感じなかった。動物園で見た虎は獣でしかなかったが、この虎には知性があるように思える。おとぎ話みたいだけど。
「それで、この虎がわたしをここに呼んだってこと?」
ファルカが、この虎よばわりに少し反応する。
「そうです。神使さまがクスノキさまを召喚してくださいました」
「なんで?」
ファルカは言葉を失った。とてもなめらかに動いていた口はぽかんと開けられて息すら忘れている。
「…神使さまが、お呼びになったのです」
「うん。だから、なんのために?」
ファルカは困ってカナリアを仰ぎ見る。カナリアは別段表情も変えず、ファルカと見つめあった。ため息をついてファルカがまたこちらを向く。
「それはその…わたくしどもに至らぬ点があるなど……身の回りのお世話などするためでは…。神使さま?」
お世話!?飼育員が欲しくてわたしを呼んだっていうの!?
呆れた返事に多少怒りを感じながらエリは虎に向き直った。虎の表情なんてわからないけれど、とてもリラックスしている…。しっぽがゆらゆら振られてる。事態がわかってるんだろうか。虎だからわからないのか。
「クスノキさま…。神使さまはクスノキさまを選んで連れてきたとおっしゃっています。そばにいて欲しいと」
ファルカが言う。虎の言うことがわかるって言ってたっけ。
会ったこともない虎にどうして選ばれるのだ。エリはだんだんイライラしてきた。カナリアはずいぶん前から退屈して手で地面に穴を掘っている。ファルカはぎゅっと眉を寄せてエリを見た。
「神使さまは連れてきた、とおっしゃいました。…クスノキさまは、どちらからいらっしゃったのですか?」