アジトと青
渡されたタオルで頬を拭った。
「どうもお見苦しいところをお見せしました…」
ああ、鼻声だ。眼も赤いんだろうな…。
情けなく見上げるエリをイズがふわりと見つめる。
「そんなことないよ。言うだろ…女の涙はアクセ」
「はいあの本当にすみませんタオルも洗って返しますので」
またなにかきざな台詞を言う前にエリが遮る。言葉を遮られてもイズはにこにことエリを見つめていた。気まずい。エリは視線をそらした。
人前で泣くなんていつ以来だろう。それもよく知らない男の前で!
つけいられたら困る、気を許したと思われたら困る、とエリは考えた。てっちゃんがいないのだ。あの便利な強面はいない、自分で言い寄る男を蹴散らさなければならない。
いま、エリたちは空中に腰掛けてふわふわ浮かんでいる。まさに空気椅子。とは言ってもエリが空を飛べるわけではなく、見えない椅子に座る恰好のイズのひざに、エリは座らされている。下ろせと言っても聞きゃしない。だから、ごく近くに端整なイズの顔がある。ちらっと見上げると目が合ってしまった。エリの腰を支える左手、そして空いているほうの右手がエリの頬に触れた。
(まずい。まずいなあまずいまずい)
逃げ道がない。命をはってまで逃げる気はない。彼氏がいるって言ったのにどうしてこんなにやさしく、ムードたーっぷりの方向に持っていこうとするんだろう。困る。
エリの緊張を感じとったのか、イズの手が離れた。それでも笑みは絶やさずに、エリに聞いた。
「よしよし、怖かったな…。大丈夫だぞ、もうファルカたちに手出しはさせないからな。誘拐犯はもう来ない。おれが必ず家に帰してやる。その前におれのアジトへ行こうな、うまい飯を用意してやるから。それから…話してくれるか?」
素性を。
イズが言外ににおわせた。
そのまま、空を飛んだまま、エリたちは塔の方角の森の中へ入っていった。いつの間にかお姫様抱っこに抱き変えられていて、逃げることなんか出来ない。逃げる場所だってない、とエリは思った。ずっと庭にいたって、もう元の世界に帰ることなんてできないに違いないのだから。だってなにも教えてくれなかった。外の世界のことも。あんな塔のことも。ふと目を上げると、ちょうど塔が木の向こうに消えるところだった。
目に入るのは樹木ばかり。落葉樹もあるらしく足元には草が生えていた。その木に取り囲まれるように、ぽっかりと、小さな広場が出来ている。そこに蔦に覆われ窓の割れた家が建っていた。これが…?と見上げると、うんとうなずく。大丈夫なのかとエリは思った。どう見ても人が入る場所じゃない。廃墟だ。
「アジトだ!見た目は悪いけど見た目だけだ、中はそこそこだ!」
イズが胸をはった。そこそこってどれくらいだろう…。それにしても人気もない。アジトというからには、さっき見たような子分たちがいるのかと思っていたのに。
不審を隠さないエリの手を引いてイズが家の裏手へ回る。窓が二つと裏口が並んでいて、とってつけたような物置部屋があった。イズはその物置に入ると真っ暗になるのにも構わずドアを閉め、エリの手を離した。
(騙された!?暗がりに連れこんでなにを!)
さすがにエリは色をなくした。暗闇二人きり、力でこられたら敵わない!思わず一歩ひいたそのとき、再びイズがエリの手を握った。
「ぎゃっ――」
襲われる!
「悪い悪い、暗いの苦手だったか?でもま、アジトってのは秘密基地だからな、見つからないようにしないとだめなんだよ、窓あったら見られちゃうかもしれないだろ?大丈夫だぞ下は明るいから…ほら」
なんの緊張も見せずイズがまたべらべらしゃべる。杞憂に安心しつつ、すこし顔が熱く感じた。
(なんとも思われてないのに勘違い恥ずかしっ)
でも警戒は間違ってないはずと自分をなだめる。その目にオレンジの光が飛び込んできた。ほら、と言ったイズがどこをどうやったのか床板を持ち上げると、隙間から光が漏れ地下へ続くはしごが姿を現した。促されて先にはしごを下りる。地面に足がつくと、辺りを見回した。…本当に、そこそこ…かな。
下りた場所は廊下になっていた。すれ違うのがやっとの幅に、左右にひとつずつのドア。その向こうは右に折れている。突き当たりの角には小さなくもの巣。ほこりはあまりたまっていなかった。それよりなによりエリを辟易させたのは、廊下の幅を半分に狭める、積み重ねられた荷物の山。そのほとんどが高価に見える、カップやつぼや美しい織物。
(虎の毛皮を狙ってるって聞いたけど何者なんだろ…この人たち)
あんまりよろしい集団ではなさそうだ、と改めてエリは思った。
イズが下りてきて板を元通りはめた。はしごを外して壁に立てかけ、廊下の奥へとエリを案内した。地下も静かだ。ふたりの立てる物音以外はなにも聞こえない。
廊下を曲がった先は食堂になっていた。椅子が十数脚乱雑に置かれ、四角いテーブルが左に寄せられている。右奥に小さなキッチンがついていて、おそらくは食べ物の入った木箱が置かれていた。電球がひとつついているだけだが割りあい明るい。テーブルの向こう、キッチンの背後にはドアがひとつあった。
さて、と言ってイズが一脚だけ赤い椅子に座った。それからエリにもすきな椅子に座るよう促す。エリはテーブルのそばの比較的きれいな椅子を選んだ。
「腹減っただろ?エリ。さきに飯にしようか、な!青、めし!」
あお?
エリが首を傾げると同時に背後で気配が動いた。びっくりして振り返ると、中学生くらいの男の子が丸いソファから身を起こすところだった。
…誰もいないと思ってた。
男の子はゆっくり立ち上がると、うつろな目でイズを見た。深いグリーンの瞳。ぐしゃぐしゃの髪ははしばみ色。…どこにも青の要素なんてないけど。なんでそんな名前になったんだろう。
青は無表情にイズを見る。イズはうなずいて、うん、そうだとか言っている。
「二人分!頼むな!二人の初めての食事にふさわしくゴージャスでロマンチックで色気たっぷりの!」
青はうなずきもせずキッチンへ向かってしまう。なんだか見たことあるわ、この無口っぷり…。だがエリは思い出すのを止めた。あの無口にはまだ腹が立っている。
青を追う目を正面に戻すと、イズの飴色の瞳と目があった。整った顔立ちに寸の間息が止まる。まっすぐ人を見る人だと思った。
「エリ。おれに出来ることならなんでもする。だから話してほしい…エリのことを」
「…はい。その前にわたしも聞きたいです。どうして虎を狙うんですか」
すべて、ここからだ。イズが虎に対してどれだけ本気なのかでエリへの扱いも違ってくるはず。虎がエリを呼んだ。エリは対虎の切札になるのだ…たぶん、おそらく。きっと。