思い出(恋人)
「信じらんない。ばかだと思ってたのに」
「うるせ」
…前にも同じようなこと言ったような?
寒の戻りで冷え込む三月、わたしたちは並んでパソコンを眺めていた。画面にはずらり数字の列。そこにてっちゃんと、わたしの受験番号が行儀よく並んでいた。
このばかは大学までわたしと一緒のところを選びやがった。しかも受かってるんだから腹立たしい。
「ん」
「ん?」
差し出したでかい手のひらにはかわいい陶器の小物入れが乗っている。蓋の部分にうさぎの置物がくっついている。受け取って開けると、小さなうさぎのついたネックレスが入っていた。
「かーわいいー。なにこれ、くれるの?」
てっちゃんは無言でうなずく。
「合格祝いってこと?てっちゃんがこれ選んだの?すごい、かわいい!ありがとう!」
また無言でうなずく。
おや。照れてるな…。
「ごめんね、わたしなにも用意してない。なにが欲しい?買ってあげる!」
てっちゃんは本気で照れているようで顔がうっすら赤い。まさか、この男をかわいいと思う日がくるとは、とわたしは思った。
めったにないことにわたしは上機嫌でてっちゃんににじり寄る。ひとつの画面を覗いていたためすぐ近くに顔がある。
てっちゃんにもまつげは生えてるんだなぁ。虹彩がびっくりするほど真っ黒だ。鼻の横にちっちゃな傷がある。子どものころガラスで切った痕だ。唇が乾燥してる。なんか、いい匂いがする。
近いなあ、キスできるなあ、と思って。
でもてっちゃんはキスしなかった。
すっかりわたしに馴染んだ右手でわたしの頭を撫で、わたしの頬をつまんだ。信じられないくらいやさしく。もう、それで気づいてしまった。
ばかで乱暴もので、口が悪くて顔がこわくて。それに臆病なんだ。知らなかったよ。
そんなにわたしがこわい?
しょうがないなあと、思った。
あんたにはこわいものなんてないはずなのに、…わたしがこわいのはあんただけなのに、あんたはわたしがこわいのね。触れるのもためらうほど。
泣きたいような気持ちになった。そして思う、しょうがない、目の前のこの男のためならなんだってしてやろう。
恋愛なんていらないはずだったのにな。
右手をのばしててっちゃんの頬に触れた。てっちゃんの肩がかすかに動いた。目が戸惑いに揺れる。
その目にじっと伝える。
…あんたがしないならわたしがするからね。
すこしだけ、唇で触れた。相手の感触も残らないくらい軽く。でも意味だけは伝わる。
ばか、真っ赤になってるよ。かっこわるい…ああ、わたしも人のこと言えないんだろうな。今更手が震えてきた。
「エリ」
「うん」
「もっかい」
「…うん」
てっちゃんの右手がわたしの頭を支える。左手がわたしの右手をつかむ。唇が、ゆっくりわたしに触れる。やさしくただ重ねるだけ。それが離れると腕の中にすっぽり包みこまれた。額にてっちゃんの胸が当たる。
「てっちゃん」
「…」
「心臓はやいよ」
「…うるせ」
顔を見たくて腕から逃れようとするが、がっちり抱きしめられていてかなわない。それはとても心地よいけど、痛い。
「ちょっと離して…」
すこし力が緩む。息をついて顔を上げるとすぐ前にてっちゃんの顔がある。
にやりとしか笑えない、てっちゃんの笑顔。弧を描く唇が開く。
「お前、もう知らねえからな」
なにが、と聞く前に唇で口を塞がれた。今度は食べられそうなほど、性急なキス。なんでこんなの、どこで覚えてきたんだろ…。
考える頭は吹き飛びそうだ。ただ唇から手のひらから、あつい熱と気持ちが伝わってくる。
あー。これもう、逃げられない。
ぼんやりした頭で悟る。
ようやく口を離したてっちゃんが、その通りとでも言うようににやりと笑った。
どうしてこうなったんだろな。てっちゃんにだけは惚れるはずなかったのに。だめなとこばかり知ってるのに。
目を閉じて、てっちゃんの心臓の音だけを聞いた。音も、匂いも、体温も。てっちゃんに包まれている。てっちゃんを感じている。
まあいっか、と思った。 こんなにいい気持ちならてっちゃんのそばにいるのもわるくない。
四月には家を出て、一人暮らしが始まった。 てっちゃんのアパートとは道路をはさんだ向かい側。とは言っても四車線の道路だから実家のころよりは遠くなってしまった。
学部も違って建物も離れているから、大学で会うこともほとんどない。土日の夜だけ、必ず一緒にいるようになった。時間があれば日中も出かけたりのんびりしたりする。
生活に慣れてくると、大学でお昼を一緒に食べる機会も増えた。てっちゃんはなるべくわたしのそばにいようとする。それはその、たぶん、わたしがいろいろ、ちょっかいかけられるようになったから。高校のときからなんとなく、この胸が人気あるんだろうな~とは思っていた。でも大学では比較にならない。同級生ならまだしも先輩は、なにせ相手は大人である、なれなれしさにも磨きがかかっている。
それがてっちゃんが現れてからぱったり止んだ。
男連れというだけではなく、もちろんその強面のせいである。便利。
成人式のとき、さわやか笑顔の浜口くんが言ってた。
「楠さんのことすきなやついっぱいいたよ。おれの友達にも何人かいたし。でもそいつらもだいたい加藤の友達だったからさ、言えなかったの。加藤が楠さんすげえ大事にしてるってみんな知ってたからさ。しかもちょっとでも楠さんに近づこうとするやついたら全力でつぶしにかかるからね。あの加藤が。そのくせ告白できないんだよな。あの加藤が!」
「ふうん…でも、あのわたし何回か告白されたよ?」
「知ってる。命知らずだよね」
「…」
「まあちょっと嫉妬ぶかいかもだけどさ。楠さんにしかなつかないから…愛想つかさないでやってね」
浜口くんがきゅっと笑う。
「ま、おれが言うまでもないことかもだけどね」
ほんとに、だめなやつだ。友達に心配かけて。でも大丈夫だよ。ずっとそばにいるから。わたしがずっとそばにいるから、もうてっちゃんにはこわいものなんかないよ。