思い出(受験生)
高校生最後の春。
てっちゃんが珍しく話しかけてきた。
「きょう飯おごるからー、勉強教えてください」
しかも敬語で。
いつもと変わらない、無言の登校時間の一年めのはずだった。とっさに誰にむけて言っているのかわからなくて聞き流してしまう。
「おいコラ無視とはいい度胸だな」
「はっ?わたし?」
「そーだよ他に誰がいんだよばかが」
ばかにばかとは言われたくない。むっとして言い返すがきょうのてっちゃんは割りとしつこい。
「なんでわたしが…」
「お願いします」
「…就職すると思ってた。大学行くの?」
「まーね」
自然と並んで歩く格好になる。もうほとんど忘れてたあの感情が思い出された。…触りたい、とか。恥ずかしすぎてやっぱり斜め前を歩く。
「ごはん。なにおごってくれるの?」
「…じゃーいいの?」
耳が赤いのが自覚できる。
「いいよ」
休み時間。
結局なにをおごるとも言わなかったてっちゃんがいつものように教室にやってきた。三年のクラス替えの後なんだけど教室に友達いないのかな…。
そのかわいそうなてっちゃんが、学校で初めてわたしに話しかけた。
「おうエリ。飯あしたでいいか?きょう金ねえから。きょう図書館で教えてくれる?」
かちん、とわたしが硬直した。ついでに一緒にいた友達も硬直した。あの、大丈夫だよ、顔はこわいけれども。
「わかった…」
なんとかそれだけを返す。こんなところで言わないでよ!
「ケータイ」
「?」
「アドレス」
ああ。そういえばお互いアドレス知らなかった。毎日会ってて変な話だけど。わたしが携帯を買ってもらったのが、高校入ってしばらくしてからだったから。
震えそうになる手で赤外線通信。衆人黙視。いたたまれなかった。そんなに目立つかな……このばかがばかみたいにでかい体してるから…。
「んじゃ連絡すっから」
てっちゃんの戻っていったあと、てっちゃんの友達がにやにやわたしを見ていた。
携帯を見てわたしはなんだかわくわくしていた。なんどもアドレス帳を開いててっちゃんの名前を確認する。つながった。これで、離れてしまっても会いに行くことができる。
いつのまにか、離れる覚悟をしていたのに気づいた。それをさみしく思っていたことにも。
放課後の図書室は思ったより人が多い。
てっちゃんの頭脳は思ってたより賢い。
「高望みしなきゃそこそこいけるんじゃない?大学、どこ行きたいの?」
「……おれでも行けるとこ。エリは?」
「わたしは公立の法学部」
「…お前賢いんだな…」
なにを今更。
てっちゃんは暗記ものが全然ダメ、でも数学がやたら出来る。地頭が賢いんだろうな。
うつむいてひたすら英単語を書き写すてっちゃんの顔を見る。ごつい。全然かっこよくない。でも必死に机にむかう姿は小学生のころと変わらなかった。なにかしてると前しか見えなくなっちゃうのだ。
口角が上がっているのに気づいて慌てて無表情を装う。てっちゃんは気づかない。わたしもちゃんと勉強しなきゃ。
それから毎日、てっちゃんと勉強するようになった。
そう毎日おごられるわけにもいかないので、ほとんど図書室を利用する。まあ、だからほとんど話したりはしない。わからない箇所は、てっちゃんが問題集をずいとこっちへ押してくる。わたしはそれにちょっと書き込んで押し戻す。それで理解できるんだから賢いやつだ。
毎日一緒にいるもんだから、いやでもわたしたちは目立った。てっちゃんの友達は相変わらずにやにやとわたしを見るし、わたしの友達はてっちゃんにだいぶ慣れた。
意外なことに、話したこともない女子から睨まれることも多くなった。こんなばかがもててたんだろうか…。顔もよくないのに。背が高くて強そうだからかな?
もっと意外なことは、…告白されることが増えたこと。
ふたりに一人は必ず、てっちゃんと付き合ってるのかと聞いてきた。付き合ってると思うならどうして告白してくるのだろう。わたしは違う、と答える。でも誰かと付き合う気にはなれなくて、みんなお断りした。
さすがに若槻くんのときのように動揺することはすくなくなっていたが、やっぱり申し訳ないし断るのは気が重い。ありがたいことなんだとわかってはいるものの恋愛すらいやになってきていた。
ずっと一緒にいると、慣れる。
たとえば隣に座るあいつと手が触れることも。ふいに頭を撫で回されることも。
いちいちときめいてたらやってらんない、と思うのに、やっぱりあのごつい手がさわるとわたしの心拍数ははね上がった。
触れられてきゅっと心がはねる、でもてっちゃんは平気な顔をしてる。だからこのごつい手と自分の気持ちにも慣れてしまった。その手の意味も、周囲から見たときの意味も、まったく頭から抜けていた。
「ちょっと~見たんだけど…やっぱり付き合ってるんじゃないの?」
「違うよ?」
友達が不満そうに聞いてきた。なにを見たんだろう。
友達はまだほんとにぃ、とかでも、とかまだなにか言っていたが、違うときっぱり言うわたしにため息をついて席に戻っていってしまった。
めったにてっちゃんの来なくなった休み時間、今度はいつもにやにや見てくるてっちゃんの友達がふたり近づいてきた。ふたりとも柔道部には見えない。聞くと、てっちゃんとは友達の友達だそうだ。顔が広いなあ。
「ねえ、あいつどう?」
至極ご機嫌で坊主頭の田中くんが聞く。
「どうって?」
さわやか笑顔の浜口くんが言う。
「なんか言ってない?加藤」
なんか。なんか言ってたかな?
首をひねるわたしに、ふたりはため息をはいて笑いあった。
「なにあいつ、全然ダメじゃん。ヘタレ」
「まあまあ…。ごめんね楠さん、なんでもないから」
離れていくふたりの背を見送ってその言葉の意味を考える。…ヘタレって。どういう意味だろう。
……そういう意味かな。
ずっとふたりでいるのに、告白もできないようなヘタレ…?
じわ、と熱が顔に広がって、気持ちが浮揚するのがわかった。慌てて頭を振る。違う、自意識過剰はよくない。よくない。恋愛だって出来るだけ避けて通りたい。
でも、もし……もしそうなら、わたしはどうなんだろう。もし告白されたら付き合うの?
いやいや。ないよないよないよ。小学生のころから知ってるばかな幼なじみに、今更惚れたりするはずない。惚れる要素もひとつもないのに。