そと
「やめてくださいってば……わたし彼氏いるんで!」
もしかしたら落とされるかもしれないと思いながらエリは口に出した。落とせるものなら落としてみろ、と全身全霊でしがみつきながら。
「へえ。彼氏がいるとキスしちゃだめか?」
「だめ!でしょう。…普通」
あんまりにもまっすぐ聞いてくるので最後は疑問系になりそうだった。
「少なくともわたしはだめなんです!」
「はあ。そのわりにこーんなにくっついてきてるじゃねえか」
「は!?おろしてくれたらすぐに離れますよっ…」
「じゃあおりるわけにはいかなくなっちゃったなー」
上機嫌でイズが言う。さっきまで女性の頼みならなんとかかんとかって言ってたのにこの変わりよう。
「なんでそんなに変わるんですか…二重人格ですか」
「モットー!女性にはやさしくあれ、だ!あなたが望むならどんなわたしにもなってみせますよ、愛しの人よ…。ってな。なんだエリ、震えてるか?寒いか?」
思わず身震いしたのはきざな台詞が性に合わないからだ。それでも、寒いですおろしてくださいと頼んだ。イズはすこし残念そうな顔を見せたものの、舞う木の葉のようなはやさで下降を始めた。
草原へ向かって二人はおりていく。ずっと遠くのほうにファルカの家が見えた。これから歩いて帰るとなると夜になってしまいそうだ。 そのまた向こうに草原が広がり、森に続いているのが目に入った。その森のなかに、なにかがつきでているのが霞んで見えた。よく目をこらす。そして思わず息をのんだ。
森から生えていたのは、文字通り天をつく高さの塔だった。いや、塔というのは正しくないかもしれない。それはただ家や建物を積み上げただけのものに見えた。どうやってバランスを保っているのか、ところどころ部屋が飛び出ていたり傾いたままくっついたりしている。
(あれに人が住んでるのかな。…言葉ばらばらにされちゃいそー…)
驚きを隠して言葉ものみこむ。
イズは虎を狙ってきた男だ。虎に呼ばれて異世界から来たなんて知られたらどうなるかわからない。なにも言わなかったのは正解のようで、イズも黙ったまま微笑んでいる。その顔を見て、ふわふわ漂う二人が実際にはすこしも下におりていないのに気付いた。
「…イズさん?寒いんですよ、おろしてくださいよ」
「もうひとつだけ、教えて」
やさしい声でイズが聞く。
…やっぱり黙ってたのは不正解?
「エリ。何者なんだ?」
「なんで…」
「虎の信者ならあれのこと虎なんて呼ばないからな。信者でもないのになんで庭にいたんだ?」
あらためて、この世界の常識が欠落しているのにエリは気付いた。こちらに来てしばらく経つのに。それは、虎とファルカとカナリアと、この庭の中で本当に箱庭で飼われているように過ごしていたからだ。そう思い至って、目の前が真っ暗になった。
エリはこの世界のことを何も知らない。知っているのはこの庭だけ。そこにいるのはエリを呼んだ虎とその仲間だけ。
全身を不安が包んだ。閉じ込められて、いたのだろうか。少なくともあそこにいる限り、帰れる可能性は極めて低い。こんな外の世界があることも二人とも教えてくれなかった。
虎が絶対の存在じゃないと気づいていたはずだ。なぜ、もっとしっかり考えなかったんだろう…。
頭の中でぐるぐる考えるだけでなにも話さないエリの顔を、イズが覗きこんだ。
「やっぱり…そうなのか?」
「……。…えっなんですか?」
慈愛に満ちた目がエリを見つめた。
「誘拐されたんだろう。かわいそうに…。見損なったぞファルカ!虎のいけにえか!?信じられねえ。安心しろ、エリ。大丈夫だ。おれのところに来い。うちへ帰してやるからな」
あながち違う、とも言えない…。
どうしよう。イズについて行けば、家に帰れる可能性はあがるだろうか。
不安そうな顔を見せるエリにイズが力強く微笑みかけた。
「大丈夫だ。おれが守るから」
(またもうかっこつけて…)
顔をしかめようとするがうまくいかない。変だなと思って、気づくと涙がこぼれていた。 びっくりして、ただ流れるままに涙を流す。
…それは、聞いたことのある台詞だった。あんなばかしか言わないような台詞を、こんなところで聞くとは。
いつか帰れると、楽観的に考えていた。なのに、そうじゃないかもしれなかったのだ。広い異世界の小さな庭に暮らしていたということに気づいて、不安でたまらなくなった。
イズが、壊れ物に触れるようにそっと涙をぬぐう。
エリは声ひとつ出さずに、ただただ涙を流し続けた。
どうしよう、てっちゃん。もう会えないかもしれないの?