寝ても覚めても
つないでいた手がほどかれて、ひとりぼっちになっていた。
瞬きをした間に、町も人も、てっちゃんも消え失せ、今エリの眼前に広がるのは一面の野原。コンクリートの歩道に踏み出したはずのパンプスは、柔らかな土を踏んでいた。
振り向いても野原。
「あれ…?」
てっちゃんと、デートしてたはず。本屋に寄って、映画を見ようとして、おなかすいたからとりあえず先にお昼にしようって、歩いてたはずだ。いつもの通りを。今の今まで。
エリはぼんやり首をひねった。
(わたし…出掛けてたんじゃなかったっけ?夢見てたのかな、まだ起きてなかった、っていうかまだ夢のなか?)
こんなリアルな夢見たことないな。夏用のボーダーワンピースの裾を風が揺らす。風はしめった春の匂いがして、すこし肌寒い。感触まであるなんて。
起きないと遅刻するかな、と思ったが、気持のいい風に誘われて、深く考えず歩き出した。せっかくの気持ちいい夢だ。目安になる建物も、山さえも見えないから、ただ風の吹く方へ向かって。
(それにしても…てっちゃんの夢見たの初めてだなぁ)
ここに来るまで見ていたデートの夢だ。いつも時間ちょうどに着くエリを、てっちゃんは十分ほど前から待っている。そしてせっかちに歩くエリを繋ぎとめるように、手をつなぐのだ。その感触を思い出して、少し頬が緩んだ。はやく起きて、てっちゃんに会いたい。でもこの気持のいい場所に、もう少しいたいとも思った。
ずいぶん歩いた。心なしか陽も少し傾きかけている。気候に対して薄着だが、うっすら汗ばんできた。
歩いても歩いても、草原、だ。
エリはぴたっと歩を止めた。
「もうっいい加減飽きるっつーの!なんなのこの夢ぇー!疲れてきたし」
足元はお出かけ用の華奢なパンプス。小指が痛むのだ。おまけに草地に向いてない。
悪態をついて座り込もうとしたその時、目の隅で影が動いた。顔を巡らす、その目の前に影が落ちて、それが静かに唸り声を出した。それと、目と目が合った。
虎だ…。
エリと同じくらいの高さに顔がある、えらく大きな虎だ。金に近い輝く毛並に、口からはみだす牙。獣の匂い。
しかしエリは、これは怖いなあと頭では思うものの、危機感薄く虎と見つめあうだけだった。だって夢だし。
虎もただじっとエリを見つめる。だから食べられはしないだろう。そんな気がする。
ふいに虎が目を伏せ、鼻をすり寄せてきた。ごく自然に、エリもその鼻先をなでる。
「思ったより柔らかい…。よしよし虎。かわいいねー」
生来猫の好きな性分だ。がしがしなでてやっていると、虎もごろごろ喉をならしエリに甘える。ずいぶん人なつっこい。目の前のもふもふに、エリはぎゅうと抱きついて、獣臭さを胸いっぱいに吸い込んだ、と同時にはらがきゅるんとなった。
「そういえばお昼食べるとこだったんだっけ…。おなか空いた。夢なのに…はやく起きて朝ごはん食べたい…」
ぎゅうぎゅう絞められて不快だったのか、虎が体をゆすってエリを引きはがした。そのままどこかへ歩きだすので、なんとなくエリも後をついていく。しかし、何歩も進まないうちに歩みを止めてしまった。明らかに様子の変わった虎が、一点を見つめたまま動かなくなってしまったからだ。
エリは、初めて金縛りを体験した。と思った。
なにかが怖くて、身動きが取れない。
突然、風を切る音がそんな空気を引き裂いて、それに反応して虎が地を震わす唸りをあげる。草ばかりの視界に二人の男が現れた。
エリは頬に手を当て後ろを見た。飛んできた矢が刺さっている。頬から離した手には血がついていた。
威嚇する虎に、男たちが近づいてくる。
エリは呆然と手についた血を見つめていた。
…痛い。
……もしかして、夢、じゃない…?