プロローグ
二十八歳の冬、父が置いていった銀行袋を開けると、
中には百万円の束が二つ、沈黙のように並んでいた。
「これで自立しろ」とだけ書かれたメモの字は、
昔より小さく、どこか諦めの色が混じっていた。
その二束の重さは、金額ではなく、
父が僕に残した“最後の猶予”のように感じられた。
フリーター歴は長く、履歴書の空白はもっと長い。
曖昧な現実に振り回され続けてきた僕にとって、
真相のある世界――サスペンスだけが裏切らなかった。
気晴らしに商店街を歩いていたとき、
端の方に、昔は駄菓子屋だった狭い空き店舗があるのに気づいた。
シャッターの塗装は剥げ、ガラスケースには
子どもたちの指紋の跡が薄く残っている。
色褪せたラムネのポスターの跡だけが、
かつての賑わいをかろうじて証明していた。
家賃の貼り紙は驚くほど安かった。
その場所を見た瞬間、胸の奥で小さな音がした。
“ここなら、何かを始められるかもしれない”。
そんな考えが、ふと浮かんだ。
本屋をやるつもりなんて、これっぽっちもなかったのに。
その夜、空き店舗のことが頭から離れず、
スマホで“低予算 開業”と検索していたとき、
偶然、小規模書店向けの仕入れサービスの記事が目に入った。
初期費用を抑えて本屋を始められるという触れ込み。
その瞬間、僕の中で点と点がつながった。
扱うなら、サスペンスだけにしたい。
古城や秘境の写真集――舞台装置になる風景。
科学や医学の入門書――トリックの種になる知識。
サスペンス小説、映画の原作本、推理漫画――物語の核心。
気づけば、駄菓子屋の跡地に並ぶ本の姿が、
まるで“事件現場の再構成”のように鮮明に浮かんでいた。
子どもの頃、初めて買った推理漫画も、
この商店街の駄菓子屋だった。
真相に辿り着く快感だけが、
曖昧な世界の中で僕を救ってくれた。
「Delusion and Deduction」。
妄想と演繹。
その二つの言葉が、自然と口をついて出た。
僕の人生をそのまま看板にしたような店名だった。
現実的に考えれば、二百万円で本屋を開くなんて無謀だ。
棚も内装も最低限。仕入れは慎重に選ばなければ破綻する。
それでも、翌日には不動産屋に電話していた。
開店準備の様子をSNSに投稿すると、予想外に反応が良かった。
「この棚、完全に事件の匂い」「その写真集、舞台に使えそう」
フォロワーは増え続け、コメント欄は小さな事件現場のように賑わった。
現実の店はまだ誰も知らない。
でも、SNSの中では、すでに“サスペンス専門書店”として
誰かの期待を背負い始めている。
明日、店を開ける。
誰が来るのか、本当に来るのか、何も分からない。
それでも、SNSの向こう側にいる“まだ見ぬ読者”たちが、
僕の背中をそっと押してくれている。
こうして、Delusion and Deduction は産声を上げた。
静かに、しかし確かに。
――僕の人生もまた、ここから始まる。




