第八話 地下の迷宮 前編
暗闇の中、空気の冷たさに意識を取り戻した。
頬と指に触れる氷のような冷たく硬いものが石張りの床だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。『虚ろの間』から落ちるときにぶつけたのだろう、体のあちこちが鈍く痛む。周りに漂う冷気が突き刺さるようだ。
つまるところ、自分は今どこかの床に倒れているのだ。
まだ閉じたままの瞼の裏を見つめ、シュウはそう結論付けた。見えるのはただ黒だけ。それは構わない。自分は目を閉じているのだから。
うっすらと、シュウは目を開けてみた。
「……」
嫌な予感がしたとおり、辺りは暗かった。ほとんど闇に包まれていると言ってもいい。背中が粟立ち、シュウは身を震わせた。寒さ半分、怖さ半分だ。倒れた姿勢のまま、恐るおそる傍にいるであろう人物の名前を呼んでみる。
「ジフト、そこにいる……? 」
ほとんど息だけで発した言葉は、暗闇の中に吸い込まれて消えていった。辺りは再び静寂に支配され、人の気配すら感じられない。
そのまましばらく待ってみて、本当に返事がこないことを確かめると、シュウはゆっくりと身を起こした。今度はしっかりと目を開く。倒れている間に目が慣れたのか、思っていたより目が利いた。どこまでも広がる暗闇の中に、幾つもの石の柱が連なっている。そのうちの自分からそう遠くない柱の根元に、青い帽子が落ちていた。もしやと思い、手を伸ばす。掴んだ帽子は、紛れも無く自分のものだった。シュウの脳裏に、これをジフトに貸したときの記憶が一瞬浮かぶ。
「……まさか――」
「よっ。起きた? 」
急に後ろから肩を掴まれ、シュウが裏返った声を上げた。短いながらも耳をつんざくような悲鳴に、肩を掴んでいた手が離れる。
「な、なんだよ。うるさいなー」
「後ろから現れないでくれっ! 」
両耳を押さえて顔を顰めるジフトに、シュウが涙目で訴える。かちかちと歯を鳴らしているシュウを見て、ジフトが笑い混じりの声を漏らした。
「……オバケ怖いんだっけ」
にやついて茶化した質問に答えは無かった。ジフトから目を逸らしたまま、無言で帽子を被るシュウ。立ち上がって衣服についた埃を落としている最中も口を尖らせている。気まずい雰囲気の中、ジフトが小声で謝ると、シュウも口を開いた。
「で、どこなんだ? ここは 」
あからさまに機嫌の悪い声だ。空色の目が冷たい感情を帯びて、痛いほどの視線をジフトに浴びせる。棘を感じる質問に、ジフトは頭を掻いた。
「それが――」
言葉を濁すジフトに、シュウが懐疑の目を向ける。少しの間言い渋った後、ジフトはシュウが気絶していた間のことを話し始めた。
「――なるほど、やっぱりここは機械宮の地下なのか」
話を聞き終わったシュウが腕を組んで呟く。羅針球はここへの鍵だったのかもな、とジフトが握った手をシュウに差し出した。首を傾げて広げたシュウの手の平に、小さな金属の球が落ちる。弱く発光し続けている球を両手で握り締め、ほっと安堵の息を吐くシュウ。その横でジフトは、頭上に広がる暗黒を仰ぐと気の抜けた溜息をついた。
「来た道から帰るのは難しそうだな……」
見つめる先には、針で突いたような小さな光。自分達と一緒に落ちてきた『虚ろの間』の床を調べてみるけれど、浮上するような仕掛けはどこにも見つからなかった。床自体は何の変哲もないものでできているようだ。今度は地下に広がる石の床を熱心に調べだすジフト。その様子を未だ若干冷めた眼で見ていたシュウが、はっとして辺りを見回した。
「ん? どうかした? 」
落ち着きの無いシュウに、ジフトが探索の手を止めて呼びかける。
不安そうに眼だけ動かしているシュウは生唾を飲み込み、女の子の声がした、と歯の根が合わない口でそれだけ言った。
拳を握って震えているシュウの横で、ジフトが暗闇の向こうへ耳を澄ませる。瞬きもせず真剣な表情のジフトに、シュウが情けない声で話しかけた。
「ほ、ほら――。『助けて』って、女の子の声が」
「……機械の音が聞こえる」
真剣な表情そのままにジフトが呟いた。予想外の言葉にシュウが戸惑っているうちに、ジフトは素早く音が聞こえてきた方向を推測する。闇の中へ走り出そうとするジフトの手を、シュウが掴んで引き止めた。迂闊に動いたら危ないと言うシュウに、ジフトは嬉しそうな表情で返す。
「機械があるってことは、そこに何か仕掛けがあるかもしれないってことだろ? 行って確かめてみようぜ」
「もし罠だったら? 不気味な声も聞こえるし、今は動かないほうがいいと思う」
寒さと恐怖で白んできた唇でそう主張するシュウ。それを聞いて片方の眉を上げると、ジフトは疑問符を飛ばした。
「女の子の声なんて聞こえなかったけど」
「そんな、今も聞こえてきてるじゃないか」
互いに食い違った言葉に、双方口を噤む。焦げ茶の瞳と空色の目がお互いを覗き込み、ジフトが沈黙を破った。
「……もしかして、機械の駆動音が声に聞こえるのか? 」
「そんなことない。機械の音も、女の子の声も、両方聞こえる」
疑われるのが嫌なのか、シュウは険しい顔で断固として譲らない。そう言われれば聞こえないこともないかな、と、今度は耳に手をあててジフトが呟いた。
「よし、じゃあ声のするほうへ行ってみよう」
「ええっ? 」
情けない声を出すシュウの肩に手を置くジフト。不満そうなシュウの顔を覗き込んで、語り掛ける。
「確かに、ここは暗くて何があるか、何が起こるかわからない」
覗きこむ焦げ茶の瞳が瞬きする。つられるようにシュウがうなづく。
「そんな状況で、誰かもわからない女の子の『助けて』って声が聞こえてくる」
そのとおり、とシュウがまたうなづく。それをみると、ジフトは満面の笑みを浮かべた。
「だったら助けに行こうぜ! 」
「なっ――」
何を言ってるんだ、と、絶句するシュウ。常識はずれの考えを聞いて固まっているシュウの前で、ジフトは小さい子に話しかけるような口調で自分の考えを述べた。まず始めに、自分達が『虚ろの間』からここまで落下してきたこと。次に、『虚ろの間』の抜けた床は全く動かないこと。最後に、同じ階層に助けを求める人がいること。
「ここから導き出される答えはすなわち……『虚ろの間』から落下する以外にも、この地下へ来る方法があるってことだ。そうだろ? 」
同意を求める焦げ茶の円い目に見つめられ、シュウは納得がいかないと口を尖らせた。
「その人が地下に来た方法も、ぼく達のように不可逆なものだったら? ここがどんな場所かもわからないのに、考え無しにうろつくのは危険すぎる。救助が来るまで動かないほうがいいよ」
頑として動こうとしないシュウの様子を見て、ジフトは頭の上で腕を組む。そのまま、遥か上方にある『虚ろの間』に開いた穴へ視線を移すと、助けなんて来るのかな、と呟いた。暗く冷たい石造りの空間に、獣のうなり声のような駆動音が響く。暢気に穴を見上げるジフトの背後で、シュウが生唾を飲んで身を縮ませた。
不安そうに周囲へ視線を走らせているシュウを肩越しに一瞥して、ジフトがやれやれと首を振る。借りていた青い上着を脱ぐと、ジフトはそれをシュウに投げて返した。衣擦れの音に飛び上がったシュウが、上着を掴んで怪訝そうな顔をする。鼻から白い息を出して棒立ちしているシュウを指し、ジフトは口を開いた。
「わかった。おまえはそこでじっとしてろよ。俺、やっぱり気になるから行ってくる」
「ちょ、ジフト――」
この期に及んでまだ何か言いたげなシュウに背を向け、ジフトはすたすたと一人で闇の中へ進んでいってしまった。『虚ろの間』から届く僅かな光の下で、取り残されたシュウが上着を抱えたまま二の足を踏んでいる。
まるで周囲の闇が寄って来るのを恐れるように光の中心へ移動するシュウ。光の中から、遠のいていくジフトの背中を凝視する。濃い闇の中へジフトの姿が溶けきりそうになってようやく決心がついたのか、上着を羽織るとシュウも闇の中へ駆け出した。
冷たい石畳みを駆ける足音が、そびえ立つ石柱に反射して幾重にも響く。たった一人だけの足音のはずなのに、まるで何十もの人間が走っているようだ。いや、本当に誰かついてきているかもしれない。足音に紛れて柱の影から近付いてくるものを想像して、シュウは思わず走る速度を上げた。
走る音に気付いたジフトがこちらを向いて立ち止まっているのをみて、シュウが胸を撫で下ろす。傍に来たシュウに、ジフトは頭を掻きながら困惑した声を出した。
「おまえが落下地点から動いたら、万が一救助が来た時こまるだろー……」
「だからって置いて行くなよっ」
こんな場所で一人助けを待つなんて絶対に嫌だ、と、半泣きで駄々をこねるシュウ。そんな姿をみたジフトは苦い顔で肩を竦め、息を吐いた。暖かい息が冷たい空気に触れて白いもやとなり、闇の溜まる暗い頭上へ昇っていく。これならいつもつるんでる仲間の誰かを連れてくればよかったと後悔するジフトの脳裏に、ちらっとキアラの顔が浮かんだ。
あいつはこんなことじゃ怖がらないだろーな、とジフトが小声で漏らす。聞こえた言葉に首を傾げるシュウに、ジフトはなんでもないと片手を振った。
疑問符を浮かべているシュウの前に、ジフトのまめだらけの手が差し出される。
「まぁ、丁度いいや。こう暗くちゃ足元も見えないし、羅針球を起動して灯りに使おうぜ」
差し出した手を動かして催促するジフト。その手の平に、シュウが羅針球をのせる。起動した球が明滅して、広大な石の間に長い影をつくった。これで辺りが見えると喜ぶジフトに、シュウは片頬を膨らませた。
「今度羅針球を雑に扱ったら、ただじゃおかないからな」
「うんうん、わかった――なぁ、声が聞こえたのってこっちの方からだったよな? 」
ちかちかと瞬く青白い光の中に、ジフトの日に焼けた手が浮かぶ。その指が示す方向を見定め、シュウが頷いた。黒い前髪が目に掛からぬよう分けるシュウの横で、ジフトが何かぶつぶつ呟いた。
どうかした? と尋ねるシュウに、いや……、とジフトが返す。
「声の聞こえる方向に、羅針球も転がってくからさ。――やっぱり、何かあるんじゃないかと思って」
機械の駆動音が聞こえたのも同じ方向だったし、と付け加えるジフトの横で、シュウの目が輝いた。さっきまで怯えていた気持ちはどこへやら、秘宝が見つかるかも、と一人意気込んでいる。だったらはやく確かめに行こう、などと手の平返して急かす様を見て、ジフトは呆れた視線を送った。
相変わらず秘宝探しにのってこないジフトに、シュウは不満そうな顔をしている。
「……ジフトは興味ないの? 二百年前、王国を築いた英雄アガシャが隠した秘宝なのに」
口を尖らせて拗ね気味なシュウの質問を、ジフトはまた片手をひらひら振って否定する。
「ないない。どうせ山みたいに積まれた金貨とか、頭ぐらいある宝石とか、そーいう金銀財宝の類なんだろ。俺が興味あるのは、お宝探しの過程なんだけど。それもこの羅針球があれば事足りちゃうしなー」
手の平で転がる光る球体をみつめ、凝った暗号や罠でもあればやる気出るんだけどなー、とつぶやく。
つまんないの、とシュウが天井を仰いで後ろ手を組もうとしたその耳に、かさこそと石畳の上を何かが通る音が聞こえた。驚いて身をすくめるシュウの横を、ジフトが平然とした顔で歩いていく。
「今、何か……」
「虫だろ。こんな広い場所に何もいないほうがおかしいって」
羅針球に導かれるまま歩を進めるジフトの背が遠ざかり、シュウは頬を膨らませつつ後に続いた。ジフトと会ってから、調子が狂うことばかりだ、と、青い制服に包まれた胸の内で考える。いや、それよりももっと前から――。
父が失脚した後のことを思い出し、黒髪の下で空色の目が苦しそうに細くなった。明滅する羅針球の光が、まるで催眠術のように思考を意識の深くへと誘う。背後から長い影が近寄ってきていることにも気付かず、シュウは黙々とジフトの後を歩いた。
揺れる黒髪の下からのぞくうなじに温い空気が触れ、シュウの歩みが止まる。
「――? 」
恐る恐る振り返った目が捉えたものは、刃物のように冷たく笑った口と、闇から伸びる二本の腕だった。




