第七話 一条の光
薄汚れた下町に、昼時の窯の煙があがっている。ジフトやキアラ達が寝起きしている長屋からも、白い煙が立ちのぼっていた。匂いにひかれたのか、崩れ落ちそうな住居の間々から子ども達が顔をのぞかせる。一緒に遊んでいたのだろう、野良の子犬が鼻を天に向けてひくつかせた。
そんな良い匂いの漂う窯の横、鍋をかき混ぜるへらを握ったキアラが通りを眺めている。
「ジフト、遅いな……」
薄紅色の唇を開いてそう呟き、つま先で地面に落書きをする。沈んだ気分で鍋の中を混ぜるキアラの隣では、鼻水を垂らした男の子が木の器を持って待っていた。
「キアラねーちゃん、ごはんちょうだい」
何か色々とすすり上げながら催促する声に、キアラがはっと我にかえる。
「あ、ごめんね。――はい、どうぞ」
使い込まれて染みだらけの食器に煮込まれた根菜と肉が注がれ、男の子は礼を言うと長屋の奥へもどっていった。出入り口でキアラの様子をじっと見ていた子ども達が、次々に自分の食器を持って駆け寄ってくる。
「おねーちゃん、わたしも! 」
「ぼくが先っ! 」
順番も何も無しに群がる子どもたちの皿に昼食を注ぐキアラ。煤や埃で汚れた顔の女の子が、両手に持った欠けた陶器の皿を覗き込む。芯まで煮えた根菜と、一口大に切り分けられた肉が皿の七分目ほどまで入っている。
「えー、これだけ? もっとちょうだい」
「ちゃんといつもと同じくらい注いだわよ? おかわりは一回目のぶんを食べ終わってから、ね」
不満を漏らす女の子をたしなめると、後ろにいた少女がくすくすと笑った。怪訝な顔をして振り返るキアラに、少女は薄茶色の目を細めて言う。
「わかってるよ。ジフトにいちゃんの分が無くならないようにしてるんでしょ」
長い髪に挿した造花をいじり、薄茶の目の少女がいたずらっぽい眼をキアラに向ける。キアラの頬が紅潮するのを見て、子ども達の声が催促から囃し立てに変わった。わいわい騒ぐ子どもたちに、キアラは赤い顔のまま半ば無理矢理食事を配る。全員に食事が行き渡ったころには子ども達も静かになったけれど、鍋の中身はほとんど無くなってしまった。
根くずや肉くずが転がる鍋底を眺め、キアラが溜息をついて蓋を閉じる。晴天の下で窯の横の台に腰掛ける。大きな茶色の目を少し潤ませて、通りへ続く路をみているキアラの足元に、影が落ちた。
「当番お疲れさま、キアラ」
声のするほうへ首を回すと、ふくよかな中年女性が立っていた。不思議そうな顔をして軽く頭を下げるキアラの前で、中年女性は赤茶けた前掛けを揺らして辺りを見回している。
「おや、ジフトはもう目抜き通りのほうへ戻ったのかい? 」
女性の尋ねる声に、キアラは目を閉じて首を振った。朝出かけたきりだ、そう答えると、女性は意外そうに目を円くした。
「珍しいこともあるもんだねぇ。キアラが料理を作る日は、どんなに遠くへ出かけてもきちんと食事時に帰ってくるのに」
だから今日もここに居るものだとばかり……、と女性は太い腹の上で肉付きのいい腕を組んだ。そんなことを言われても、こちらも居場所を知らないので何と言うこともできない。台に腰掛けて黙っているキアラの横で、中年女性は呻りとも溜息ともつかぬ声を幾度も出した。大事な用でもあったのかと、キアラが口を開こうとした一瞬先に、中年女性は眩しい太陽を見上げてこぼした。
「あの子、また組合外の子どもに獲物を渡したからねぇ。フレン婆さんからジフトの食事を一食抜くようにって言われて来たんだけど……。ま、これで一食ってことにしとこうか」
いたずらっぽく語尾を上げ、中年女性は眼だけキアラに向けて笑顔を見せた。どう返していいかわからず戸惑っていると、女性はてきぱきと窯の周りを片付け始める。食後の片付けまでが当番の役割なので、キアラは慌ててそれに続こうとした。まだ少し熱い鍋のみみを布巾で包もうとするキアラの手を、中年女性の手が遮る。
首を傾げるキアラに、中年女性は笑って片目を瞑った。
「ここはあたしがやっとくから。ジフトを探しておいで。――あ、ちょっとお待ち」
ぱっと顔を輝かせて踵を返そうとしたキアラを呼び止め、女性は前掛けの裏側に手を突っ込んだ。取り出した銅貨をキアラの白い手に握らせる。
「これでジフトと一緒に何か食べな。そう大したもの買える額じゃないけどね」
「え、でも……」
言葉を濁すキアラに、女性は屈託ない顔で笑ってみせる。
「いいんだよ。実を言うと、ちょっとした臨時収入があってね。ジフトには、施しするなら次からはもうちょっと人目を忍ぶようにって伝えといておくれ」
話を聞いてキアラは二、三度瞬きしたが、大人しく銅貨をしまうと礼を言った。笑顔の女性を後にして、目抜き通りに繋がる路を駆けていく。貰った銅貨が袋の中で跳ねて、軽快な、けれども少し耳障りな音を立てた。
――臨時収入……?
中年女性の話した一言が、少し引っ掛かる。組合の中での金銭の動きは厳しく管理されている。男性や子ども達と違って、ほとんどの女性は花売りや組合の食事の世話といった、ごまかしがきかない仕事をしている。そんな中でどうやって臨時収入とやらを得たのだろう。
「……何か売ったのかしら」
走る速度を落とし、呟く。しかしあの女性は大戦が始まる前から組合に居たそうだ。戦火が消えてジフトについて組合に入ったとき、そう聞かされた。組合の中で長以外に自分の家を持っている人の話は聞いたことがない。身なりを見ればわかるように、売ってお金になるようなものも持っていなさそうだった。そう、だとすると。
考えを巡らせていたキアラの目の前を、大きな馬車が横切った。体を竦ませて立ち止まるキアラに、御者が大声で何か言って去っていく。
激しく打つ胸を押さえて、去る馬車を見つめるキアラ。視線の先、目抜き通りの奥には、埃だらけの大気に霞んだ機械宮の門が見えた。少し放心していたのだろう、いつもならすぐ眼を通りのほうに戻すのに、そのときだけは機械宮から眼が離せなかった。そして。
「え――? 」
土埃と錆の向こう、冷たい金属の門に囲まれた機械宮から、一条の光が空へ昇る様を、キアラは見た。
手の甲で目をこすってもう一度機械宮を見たときには、その光はもう消えていた。
「なに、今の……」
秀麗な眉を寄せて立ち尽くすキアラ。背後では、人々がいつもと変わらない様子で行き交っている。人々のあまりの普通さに、今見たものは幻覚だったのでは、という思いがキアラの胸に渦巻いた。その思いを、近くから聞こえてきた声が打ち消す。
「ねぇ、お母さん、竜が空を飛んでいたよ! 」
興奮気味のあどけない子どもが母親の手を引き、空を指した。母親は店主との交渉で空を見ていなかったらしく、そんなもの見なかったわよ、と言いながら銅貨を店主に渡している。話を聞かない母親に、子どもは手を離すと地団太を踏んだ。
「ほんとだもん! 大きな金色の竜が飛んでたんだもん」
またそんなでたらめを……、と、母親は顔をしかめている。品物を受け取り、家路につく親子の背中を見つめるキアラ。無意識に唇が開き、ほとんど消え入るような声でキアラは呟いた。
双頭の黄金竜、と。