第五話 虚ろの間
雲ひとつない澄み渡った空の下、朝市は朝食を求める人々でごった返していた。右を向いても人、左を向いても人……。そんな状態の目抜き通りから一本外れて、人通り疎らな道をジフトは歩いていた。朝市から流れてくる香ばしい料理の匂いに、ジフトが鼻をひくつかせる。円い焦げ茶の目が、黙々と前を歩くシュウを見た。
「……あのさぁ、俺まだ飯食ってないんだけど」
そうシュウに告げる声には、若干いらだちが混ざっている。疲れているところを叩き起こされ、さらに空腹に苛まれているからだろう。見るからに不機嫌そうな顔で足を止めたジフトを、シュウは振り返って見詰めた。
「大丈夫、ぼくもまだ朝食をとっていないから」
「そういう問題じゃなくて――」
冗談か真面目か困る返答に、ジフトは頭を掻いた。立ち止まっている間にも、シュウは手の上の羅針球に従ってどんどん進んでいってしまう。穴の開いたポケットに手を突っ込み、ジフトはその場で目抜き通りのほうへ眼を遣った。黄土色の建物の隙間から、湯気と煙と、美味しそうな匂いが流れてくる。空のポケットの穴から指を出して溜息をつくと、ジフトはシュウの後を追った。
追いついて横を歩くジフトを、シュウが素っ気無い目で一瞥する。
数十分歩き続けた後、町並みが少し綺麗になってきたところで、シュウの方が音を上げて二人は食事をすることになった。貧困街に建っていた屋台よりも頑丈そうな建物の下、軽食を買うシュウをジフトが遠巻きに見ている。熱そうな包みを三つ持ったシュウが、民家の壁に寄りかかるジフトのところへ戻ってきた。
「三つも食べるなんて、おまえ結構大食いなんだな」
湯気の立つ包みを眺め、ジフトが率直な感想を述べる。驚き半分呆れ半分のジフトに、シュウは包みを一つ差し出した。円い目で顔を見て首を傾げるジフト。その手に無理矢理包みを握らせると、シュウも民家の壁に寄りかかり包みの中身を食べ始めた。
焼いた肉と生の野菜を薄い米の皮で巻いた料理が、次々とシュウの口の中へ消えていく。パリパリと歯ごたえの良さそうな音を立てて、がむしゃらにかじりつくシュウの姿を、ジフトは目を円くしてみつめた。あっという間に一つ平らげたシュウが、包みを握ったままぽかんとしているジフトを促す。
「それきみのだから、食べていいよ」
「あ、ありがと」
礼を言って包みを開け、食べようとしたところで残り一つの包みに眼を向ける。素朴な疑問を含んだ視線に気付いたのか、シュウは包みをジフトから遠ざけた。
「これはぼくの」
だよなー、とジフトが呟く。それ以上言葉を交わすことなく、二人はそれぞれの包みを開いて料理に口をつけた。朝市の喧騒からやや遠のいた民家のまわりに、パリパリと新鮮な野菜を齧る音だけがする。同じ時間に食べ始めたはずなのに、シュウはもう食べ終わって包みを綺麗に折りたたみ始めた。それを横目で盗み見るジフト。こいつ食べるのはえー……、と心の中で呟いて、最後の一口を飲み込んだ。それを見計らっていたのか、シュウが壁から背を離す。
「ここから先は馬車を使おう」
「え? なんで」
「尾行けられてる」
低く抑えたシュウの言葉を聞いて、ジフトは思わず周りを見回した。目抜き通りから一本外れた道だからか、そんなに人は多くない。けれど、その中にジフト達を監視するような視線は見つからなかった。思い過ごしではないかと考えるジフトに、シュウが小声で耳打ちする。斜め後ろの民家と民家の間、と言われて、そちらを盗み見る。視界の端に、背の高い金髪の青年の姿があった。気付かれたと悟ったのか、青年は建物の隙間に身を隠した。
――あのときの……。
ジフトの脳裏に、竜紋の財布を盗ったときの記憶が一瞬浮かぶ。そして、後頭部に突きつけられた回転式銃の重みも。生唾を飲み込んで身を固くするジフトの腕を、シュウが掴んで引っ張った。ずるずると引き摺られるまま移動して、往来の激しい方へ避難する。なぜか丁度良く止まっていた馬車をシュウが招き寄せ、二人はそれに乗り込んだ。ほっと一息吐いて前を向いたジフトの目が円くなる。
「おかえりなさい、シュウ坊ちゃま。それにジフトさん」
飾り刺繍に覆われた馬車の中、灰色の瞳を持つ女性が穏やかな笑みを浮かべて座っていた。唖然として固まっているジフトの横で、シュウは脱いだ帽子を女性に渡している。対面になっている座席の向こう側から、女性は二人に絞りたての果汁をすすめてきた。
「特産品の血苺のジュースですよ。滋養豊富で朝にぴったりです。……お食事はもう済まされましたか? 」
まだでしたらこちらを……、と、女性は暢気に脇に置いた籠から包みを取り出そうとする。それを遮って、シュウが御者を急かした。手の平の羅針球は転がり続けていて、落ちないように手を球の進む方向へ差し伸べている。
「急いで機械宮まで。妙な輩に追われてるんです」
シュウの声がきちんと聞こえなかったのか、御者はのろのろと馬車を発進させた。人が歩く速度と同じくらいだ。ゆっくりと後方へ動く景色を見て、シュウもジフトもはらはらと手に汗握る。もう一度シュウが御者に声をかけようとしたそのとき、鋭い警笛の音が通りを貫いた。
「ひっ」
「――? 」
反射的に座席から飛び上がったジフトの横で、シュウが水晶の窓を通して外の様子を窺う。空色の瞳に映ったのは、けたたましく警笛を吹くたくさんの警吏たちの姿だった。髭を生やした警吏が先頭に立ち、警棒で誰かを指して追っている。荒削りの警棒の先には、身を翻して逃げる金髪の青年がいた。
「どうして、こんなたくさんの警吏が……」
牛歩のような速度で進み続ける馬車の中から、シュウが言葉を漏らした。対面に座った女性が柔らかな唇を押さえ、ふふふ、と含み笑いをこぼす。はっとして振り返るシュウに、女性は不可思議な色味の笑みを返した。
「ささ、シュウ坊ちゃまにジフトさん。ぬるくならないうちにどうぞ」
銀のポットを傾け、水晶の器に真赤な果汁が注がれる。ふわりと漂う甘い匂い。すでに水滴がつきはじめた器を受け取り、シュウは目の前の女性をみつめた。馬車内の不穏な空気に、ジフトは器を持ったまま困惑している。懐疑の眼を浴びても、女性は少しも気後れしていない。
「……どこまで知ってるの? 」
「ばあやは、シュウ坊ちゃまのことなら何でも知っていますよ」
灰色の瞳を優しそうに細め、女性は答えた。空が好きなことも、幽霊が怖いことも……、と、シュウのことを話し出す。慌ててそれを制止すると、シュウは顔を赤くして座席に身を沈めた。オバケ怖いんだ、と茶化すジフトを横目で睨む。
「も、もういいよっ。――母上には内緒にしてね」
青い制服の袖を握り締め、念を押す。心配かけたくないから、と口篭るシュウに、女性は微笑んだまま頷いた。二人の間で話がついたのを見て、ジフトが器の中身を飲み干す。甘い匂いの真赤な果汁は、脳が溶けそうなほど甘ったるい味がした。ゆっくりと後方へ流れていく景色を眺め、隣で黙りこくっているシュウに尋ねる。
「追われてたから馬車に乗るのはわかるけどさ、なんで機械宮に行く必要があるんだ? 羅針球の指す場所を探すんだよな」
「球が機械宮を示しているんだ。ほら、見てみて」
差し出された手と羅針球をジフトが凝視する。一見止まっているように見えるけれど、球は手の平で転がり続けていた。羅針球が進む速さと馬車のそれが同じだからだろう。向かう先が同じでなければ、こんな現象は起きない。納得したジフトの前では、女性が空になった器を片付けている。銀のポットを籠にしまうと、女性は御者に合図を出した。馬車の速度が上がり、それに合わせて球も回転を速める。
機械宮へと走る馬車の中で、ジフトはこの先に待つ出来事を想いながら懐にある手袋を握った。
貧困街のさらにはずれのほうに建つ、朽ちかけた長屋を朝日が照らしている。長屋の外、錆付いた井戸で、キアラは顔を洗っていた。軋む井戸から汲み上げた冷たい水が、桶に満ちている。洗い終わってさっぱりした顔をねずみ色の布で拭うキアラの背後から、誰かの足音が近付いてきた。
「……おはよう、キアラさん」
声に驚き、キアラが布から顔を上げる。振り返った先には、暗茶の長髪を風になびかせる女性が立っていた。果実から抽出した香油の甘い匂いが、離れているキアラにまで流れてくる。昨日機械宮で会った女医との再会に、キアラは小さく口元をゆがめた。
「キュベレー=ブラッドベリー……さん、でしたっけ。どうしてこんなところへ? 」
柔和さを装い、けれど刺々しい警戒心を隠し切れず、キアラは尋ねた。寝起きしている場所まで監視の目が届いていることに恐怖を感じつつも、勝気な茶色の目が女医を見る。白衣の女医でなく中流階級の夫人に扮したキュベレーは、目の前の少女に裏のある笑顔を向けた。綺麗な刺繍に覆われた布の鞄から、絹の財布を取り出す。
「あなた、報酬をもらわずに帰ったでしょう。リオナードが心配していたわ。はい、約束の金貨よ」
近寄ってくる女性と微妙に距離を取りながら、キアラは絹の財布を受け取った。その重みに、茶色の目が見開かれる。思わず中を確認すると、そこには聞いていたより多くの金貨が詰まっていた。薄紅色の唇を開いて息を詰まらせるキアラに、キュベレーが近付く。そっと肩に手を回され、キアラは女医の顔を仰いだ。
「ど、どうして……。こんなにたくさん……」
「婚前祝い、といったところかしらね。あら、捨てないでちょうだい。中には指輪も入っているのよ」
思い出したくもない単語を聞いて、キアラは財布を投げ捨てようとした。その手をキュベレーに掴まれ、正面から向き合わされる。何を考えているかわからない淡褐色の瞳に見詰められ、キアラは眼をそらした。眉根を寄せて嫌がるキアラを、キュベレーが低い声でなだめる。
「セシル家の指輪は、あなたと、あなたの想い人を守る盾になるわ。受け取っておきなさい」
口から紡がれた言葉に、キアラの肩が強張る。ジフトのことを知られたと、キアラの顔から血の気が引いていった。震える肩に暖かい手が触れ、キュベレーがキアラの顔をのぞきこむ。顔色が悪いわ、と囁かれ、キアラは平静さを装った。顔を見られないよう自分の足元を見詰め、言葉を捜す。両手で持った絹の財布が、指の動きに合わせて金貨の擦れる音を立てた。
「で、でも――公爵様の好意を利用するなんてこと、わたしには……」
「そのほうが都合がいいのよ。リオナードにとっても、わたしにとっても――ね」
色味を押さえた口紅が陽光にきらめき、キュベレーは意味深な微笑みを浮かべた。状況が飲み込めず、女医を懐疑の目で見詰めるキアラ。その柔らかな頬を指で撫でると、キュベレーは井戸横にある洗い場のふちに腰掛けた。だいぶ高くなってきた日を見上げ、キュベレーが口を開く。
「わたしね、共和国に行くことになったの。留学生として」
「そう、なんですか」
唐突に自分のことについて語りだしたキュベレーに、キアラはぎこちなく相槌をうつ。顔色は元に戻っているが、心の中は緊張と恐怖が渦巻いている。キアラも洗い場のふちに寄りかかると、へりに乗っていた小石が、手に触れて落ちていった。
「共和国へはどのくらいの期間滞在する予定なんですか」
沈黙に耐え切れず、キアラは自分から切り出した。さぁ、と、隣に腰掛けるキュベレーは肩をすくめる。
「最低でも四、五年。長く見れば……いつになるか分からないわ」
「そんなに長く? 」
驚いて訊きかえすキアラに、キュベレーは淡褐色の眼を細める。朝市の方角からのぼる煙を眺め、キュベレーは厚く口紅を塗った唇を開いた。
「……帰って来るころには、わたしはもうおばさんね。リオナードもおじさんになってるかしら」
いたずらっ子のようにおどけるキュベレーを、キアラは困惑した表情で見詰めている。未だ話の方向が分からないでいると、夫人に扮した女医は再びキアラの肩に触れた。あなた達を見てると昔を思い出すわ、と呟く声。それが自分とジフトのことを指しているのだと気付いて、キアラはキュベレーの瞳を覗きこんだ。淡褐色の瞳は陽光に揺れて、少し熱を帯びているようにも見える。
「公爵様とキュベレーさんって、もしかして――」
キュベレーがそっと口の前で人差し指を立てて、キアラは言いかけた言葉を飲み込んだ。事情を知って茫然とするキアラの手を、キュベレーがそっとにぎる。二人の手の中には、指輪の入った絹の財布が。
鋭い視線を周囲に走らせ、キュベレーはキアラの耳に囁いた。
「『狐』が機械の都を狙っているの。お願い、リオナードを助けてあげて。指輪を着けて隣に立っているだけでいいから……」
「狐――? 」
疑問符を浮かべるキアラを置いて、キュベレーは洗い場のふちから立ち上がった。不可思議な言葉の意味を聞こうと手を伸ばしたキアラの耳に、低く抑えた囁き声が響く。
「王国の六血統……。隠された最後の血筋は……」
あなたのすぐ傍に、いる。そう告げると、長髪の女医は踵を返して角を曲がり、裏道へ去った。慌てて角を曲がり、キアラが見たものは、誰もいない裏道を吹き抜ける風だけだった。犬の鳴き声が響く細い裏道で、キアラの肩から力が抜けていく。まだ少し震える指で財布を開けると、キアラは指輪を取り出した。金の台座にはめこまれた大きな宝石。その中に刻まれた紋章を、大きな茶色の目がみつめる。
小さく息を吐くと、キアラは指輪を指に通した。白い細い手を太陽に翳し、キアラが眩しそうに目を細める。華奢な指を飾る古めかしい指輪は、陽光を乱反射してまばゆく輝いていた。
四人乗りにしては豪華な馬車が、機械宮の前庭を進んでいる。退屈で眠りかけていたジフトは、日光に白く輝く機械宮を見て飛び起きた。水晶の窓に張り付いて、憧れの篭もった視線を機械仕掛けの城へ注ぐ。屋根の上についたくるくる回る仕掛けをみつめていると、馬車の速度が次第に落ちていった。完全に停止した馬車の扉が開き、シュウがジフトを呼ぶ。
「ほら、こっちだよ」
「――うん」
名残惜しそうに機械宮から視線をはがすと、ジフトは馬車から降りた。昇降台から飛び降りて靴先で地面を蹴る。掌中の羅針球に従い機械宮へ向かうシュウを見て、ジフトは思わず破顔した。遅れて馬車から降りる女性を、御者が手を差し伸べて支えている。
「……いいのですか、子どもだけで行動させても」
帽子を目深に被った御者に尋ねられ、女性は灰色の目をきゅっと細めた。
「機械宮の中なら安全でしょう。シュウ坊ちゃまにも、たまには息抜きが必要なんですよ」
その間わたしたちはお茶でもいただきましょうか、と女性が御者を誘う。女性が地面に降りたことを確かめると、御者は手を離して帽子をさらに深く被りなおした。鍔の下で首を横に振る御者に、女性は残念そうに声を漏らす。一礼して馬車を出す御者に手をふると、女性は振り返って機械宮を見上げた。灰色の目のみつめる先には、球体の仕掛けが日光を透かしてくるくると回転していた。
「ジフト、こっちこっち」
服の裾を引っ張られ、ジフトは球体の仕掛けから眼をはなした。肩越しに首を回すと、シュウが片頬を膨らませて立っている。羅針球をのせていないほうの手を腰にあてて、シュウは顎で進路を指した。先に進みたがっているシュウの気持ちなど露知らず、ジフトが屋根の上の球体を指す。
「なぁ、あれって何? この前見たときから、ずーっと気になってたんだ」
完全に周りが見えなくなっているジフトの言葉に、シュウが帽子の鍔を上げて屋根を見上げる。反射した光が眼に入ったのか、空色の双眸が細く窄まった。
「さぁ……? ただの飾りじゃないかな」
昨日習った原子の模型に似てるけど、とシュウが続けた。原子って何? と、ジフトが真顔で尋ねるのを聞いて、シュウは無言で歩き出す。答えが気になって仕方無いのか、ジフトはシュウの周りをうろついて何度も尋ねる。
「だから、原子って何なんだよー。教えてくれたっていいじゃん」
「――原子っていうのは、えーと……ぼくたちのまわりにいっぱいあるもので……。というか、ぼくたち自身も原子の集まりでできてて……ん? あーもう! 今はそんなことより、羅針球のほうが先だろっ? 」
口篭った後に地団駄を踏み、空色の瞳がジフトをにらむ。汚れた鼻先をこすり、ジフトは首を小さく傾げた。口を尖らせて黙々と歩くシュウの後ろを、ジフトがついていく。極彩色の植物たちの間を抜けて、機械宮へとシュウが向かうのを見て、ジフトの胸は躍った。白い陽光に照らされた機械宮の回廊は、昨日よりも一層ジフトの興味を引いた。足元を移動していく埃に、その反対側の壁を見る。予想通り、そこには空気の噴き出す穴がいくつも開いていた。よくみると、空気を取り込む穴が壁の上部に開いている。植物の模様で上手く隠してあるそれを、ジフトはじっと目を凝らして眺めた。あの暗い穴の奥には、大気を循環させるための装置があるに違いない。周りが許すなら、今すぐにでも分解して仕組みを調べてみたかった。
機械のことを考えて一心に壁をみつめるジフトの耳に、シュウの声が聞こえる。苛立った声で名前を呼ばれ、ジフトは渋々その場を離れた。
途中すれ違う人々から奇異の目で見られて、ジフトは薄茶色の髪を手櫛で梳いた。磨き上げられた壁に映る自分の姿とシュウのそれを見比べて、ジフトの足が止まる。
「……俺、かなり浮いてない? 」
尋ねる声に、シュウが振り返る。そのとき初めてジフトの容姿に気付いたらしく、シュウの視線がつま先から頭までを何度も往復する。シュウの表情が段々曇っていくのを見て、ジフトは頭をかいた。おもむろにシュウが青地の上着を脱ぎ、帽子と共にジフトに渡す。それがどういう意味なのかよくわかっているジフトは、何も言わずに上着と帽子を身に着けた。
慣れない手つきでボタンを留めていると、シュウの手の上で羅針球が強く輝き出す。
「な、何が起きたんだ? 」
「たまにこういう風に光るんだよ。本当なら目的地に近付いたとき、強く発光するはずなんだけど……。機械宮の中だと、わりとどこでも光るから、やっぱり壊れてるんじゃないかな」
肩を竦めて説明していたシュウが、足音に気付いて羅針球を拳の中に隠した。ジフトが帽子を深く被ったところで、貴族の少年たちと思しき一団が廊下を歩いてきた。剣の練習でもしてきたのだろう、少年たちの腰にはそれぞれ身の丈にあった木製の剣がさげられている。
一団の中で一回り体格の良い少年が、シュウとジフトに気付いて眉を上げた。羅針球に気付かれないか冷や汗をかくシュウを、一団は微妙な眼で眺めて去っていく。黒髪の蛮族――、と噂する声が聞こえてシュウは少し顔を顰めた。拳を開いてうつむくシュウに、ジフトが暢気に声をかける。
「見つからなくてよかったなー」
胸を撫で下ろすジフトの横で、シュウは声も出さず頷いた。再び動き始めた羅針球に従い進もうとしたとき、少年たちが去っていたほうから人影が近付いてきた。その顔を見て、ジフトの口から思わず声が出そうになる。昨日馬車の中からキアラに手を振っていた青年だった。こちらに気が付いたのか、青年がにこにこと笑いながらやってくる。
何も知らないふりをして帽子を深く被りなおすジフトの足元に、青年の影が落ちた。
「昨日、姿を見かけなかったから心配してたんだよ。元気そうでよかった。――機械の都にはもう慣れたかい? 」
「は、はい。えっと……昨日はごめんなさい。庭の植物を見てたら夢中になってしまって。首都にもない品種のものばかりでしたから」
しどろもどろに答えるシュウの声。それを目深に被った帽子の下で聞いて、話しかけられたのが自分でないことにほっとする。隣の子は友達かと訊かれ、少し間を置いてシュウが肯定した。名前を尋ねられるかも、と緊張するジフトの耳に、青年の嬉しそうな声が聞こえる。
「そうか、よかった。ルシアスから手紙で君の様子を尋ねられて、どう返事しようか困ってたところだったんだ」
「兄から手紙が来てたんですか」
急にシュウの声色が明るくなり、ジフトは二人の会話に耳を傾けた。どうやら首都にいる誰かについて話しているらしい。二人が楽しそうに会話するのを聞いて、長くなりそうだと壁に身を預けた。ひやりとした金属の感触が、服の上からでも僅かに感じる。壁に這わせた手へ微かに伝わる駆動機の振動を感じて、ジフトはこの不思議な城に思いを馳せた。
もしシュウが暫らくこの青年と話を続けるのなら、一人だけでも機械宮の中を探検してみたいのだけれど。そう思ってちらりと様子を窺うと、羅針球がまた激しく光った。
「――! 」
青年と話して気を抜いていたらしく、シュウの指の間からは羅針球の光が漏れている。さっと顔色が青くなり、今更ながら両手を背中の後ろへ回すシュウ。隠し切れない光が、背後の壁をまだらに照らした。言い訳を考える二人の前で、青年が笑みを漏らす。
「羅針球か、懐かしいな。小さい頃は、よく羅針球を使って宝探しの真似事をしていたよ」
遠くを見詰めてそう話す青年の前で、シュウは言葉を濁している。疎んじられていると思ったのか、青年は小さく肩を竦めると二、三歩下がった。
「遊びの邪魔をしてしまったようだね。宝物を見つけたら僕にも知らせてくれるかな? それまで大人しく部屋に篭もっているよ」
だから存分に探検してごらん、と、青年は二人を後に廊下を歩き始めた。ほっと息を吐き出すジフトたちの声を聞いて、青年が振り返る。ひとつ言い忘れてた、と青年は人差し指を立てた。
「『虚ろの間』には近付かないでくれ。修繕工事のために扉を開けたんだが、壁や床の痛みがひどくてね。怪我でもしたら大変だ」
「……はい。わかりました」
シュウが神妙な顔でうなづくのを見て、青年は去っていった。ひゅうと息を吐き、ジフトが帽子の鍔を上げる。その横でシュウが胸を撫で下ろすと、また羅針球が光った。慌てて両手で球を隠すシュウに、ジフトが口を開く。
「『虚ろの間』ってなに? 」
「宮の三階にある、儀式のための場所みたいだよ。ぼくも入ったことないから、詳しくはわからない」
そっと手を開いて、再び球の導くほうへ歩き出すシュウ。その後ろをジフトがついていく。へぇー
、と気の抜けた相槌をうつと、ジフトはにやりと笑みを浮かべた。
「ちょっと見に行こうぜ! 」
「えっ? 見に行くって――。『虚ろの間』は行っちゃだめだって、さっき言われたばっかりじゃないか」
足を止めて声を上げるシュウを、ジフトが宥め賺す。あの手この手で頼み込まれ、どうしても機械宮の中を全部見て回りたいと頭を下げるジフト。その様子を見て、シュウはしぶしぶ頷いた。
「わ、わかったよ。そんなに言うならちょっとだけ見にいこう。あ、ホントにちょっとだけだからね! 『虚ろの間』の中には絶対入らないって、約束だよ! 」
くどいほど念を押すシュウに、ジフトはへらへら笑って頷いている。羅針球を握ると、シュウは懐から古びた一枚の紙を取り出した。畳まれたそれを丁寧に開く。少し黄ばんだ紙の上には、髪の毛より細い線で緻密な図が描かれていた。シュウが持つ紙を横から覗き込み、これなに、とジフトが尋ねる。機械宮の地図だと答えるのを聞いて、ジフトの目が大きく見開かれた。
「……すっげー! って、なんでこんなもの持ってるんだよ」
壁の裏の機械の所在まで書き込まれた詳細な地図。とても普通の人間に渡されるような代物ではないことがわかる。疑問符を浮かべた目で見詰められ、シュウはすこしはにかんで答えた。
「ぼくの兄上、セシル公爵と仲がいいんだ。父上が失脚して、ぼくが首都の士官学校にいられなくなったときも、セシル公爵が機械の都に招待してくれたんだ。とてもよくしてもらえて、感謝してる」
この地図もその一環なわけ、と、シュウが説明する。それとこれとはあんまり関係ない気がする――、とジフトが考えているうちに、シュウの拳の中で羅針球が光った。激しく明滅する羅針球を、二人の目がみつめる。
「よく光るなー」
「ここまで反応があるのは初めてだよ。もしかして、知らず知らず目的地に近付いているのかも」
頬を紅潮させて一人盛り上がっているシュウ。ジフトはというと、空賊の探す宝よりも機械宮の中身のほうが気になるらしい。地図に視線を戻して、宮の内部を眺めている。ジフトがのってこなくて興ざめしたのか、少し冷静になったシュウが地図を取り上げた。口を尖らせるジフトを手招きして階段へと向かう。『虚ろの間』まで連れていってくれるらしい。
廊下に差し込む色硝子越しの光を浴びながら、ジフトは胸を躍らせてシュウの後をついていった。その様子を公爵が角から窺っていたことも、知らずに。
広大な機械宮の中をひたすら歩き続けて、ジフトは足がしびれてきていた。シュウが地図から読み取った情報によると、一階の面積だけで小さな町ひとつ入ってしまうほどだからだろう。そんな広さの上、さらに入り組んだ階段を求めて行ったりきたりを繰り返した。最初のうちこそ機械宮の中が見れて楽しかったが、シュウの歩く速さが尋常でないので、最早ついていくだけで精一杯になっていた。
とうとう膝に手をついてジフトは止まってしまった。後ろからついてくる足音が急に聞こえなくなって、シュウが振り返る。視線の先には、肩で息をするジフトの姿があった。顎から汗が流れ落ちるのをみて、首を傾げるシュウ。その息は少しも乱れていない。
「どうしたの? もうちょっとで『虚ろの間』なのに」
「お、まえ……歩くのはやすぎだろ……」
荒れる息を抑えてそれだけ言うと、また俯いて息を整える。完全に消耗してしまったジフトに、シュウは肩を竦めると地図を後ろ手に持って近寄ってきた。傍らの壁に寄りかかり、ジフトの体力が回復するまで待っている。暇そうに地図を眺めるシュウの手には羅針球が無い。『虚ろの間』へ行くまでの間、羅針球は停止して財布にしまっておくことになったからだ。財布から光を失った羅針球を出して眺めているシュウの横では、ジフトが床に座り込んでいる。
シュウの言うとおり、二人はもう機械宮の三階西側まで来ていた。ここも下の階同様金属の壁と床だけれど、あまり手入れされていないらしく、壁面は少し曇っている。中の機械も油を注していないのか、時折悲鳴のような軋む音が聞こえる。窓から差し込む光で浮き出された宙に舞う埃を見て、ジフトが呟いた。
「ここって、あんまり人が来ないんだな」
みたいだね、とシュウが答える。それをぼんやりと聞いて、ジフトは壁に背を預けた。火照った体に金属の冷たさが心地良い。先ほどシュウが儀式に使う場所だと言っていたけれど、とジフトは考える。大切な場所だったら、もっときちんと手入れしているはずだ。それを壁や床が傷むまで放置しておくとは、どういうことだろう。本当はどうでもいい場所なのか、反対に誰にも知られたくない秘密があるのか……。
「ジフト、もう大丈夫? 」
名前を呼ばれ、はっと我にかえる。額の汗を拭いて立ち上がると、ジフトは頷いた。あくびをかみ殺していたシュウが金属の壁から背を離し、地図を見ながら歩き出す。
「えっと、角を曲がって四つ目の部屋だから……あれだ」
指した扉を見て、ジフトが、そしてシュウまでも目を瞠った。植物の模様に囲まれた装飾の中で、その扉だけが異質な空気を放っている。埃だらけの金色の扉には、猛々しい竜の姿が彫られていた。思わず言葉を失くして立ち尽くす二人の前で、竜紋の扉が鈍く煌いている。その様子は、まるで訪問者を妖しく誘っているようだった。吸い込まれるように、ジフトが扉に近付いていく。取っ手に触れようとしているのを見て、シュウが声を上げた。
「あ、こらっ、入っちゃだめって言ったじゃんか」
「えー、ここまで来て扉見て帰るだけなんて……。シュウもちょっと中見てみたいだろ? 」
伸ばした手を引込める気などさらさら無いらしく、ジフトがシュウをほだしている。それは、その、と、シュウも強く言い切れず口篭るのを見て、ジフトはますます調子に乗った。
「ほら、今なら誰もいないし! 見られてなきゃだいじょーぶだって。ちょっと開けてちらっと見るだけだから! な? 」
「……しょうがないなぁ」
なんて言いつつ、シュウもちゃっかり扉の前まで来ている。黄金の扉にジフトの手が触れ、蝶番が軋む。糸のように細く開いた扉の隙間。それを息を呑んで見詰めるジフトとシュウ。大きく息を吸うと、ジフトは力いっぱい扉を押した。




