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第四話 壊れた羅針球

 夕日に照らされた真鍮の門をくぐり、キアラは機械宮の中に足を踏み入れた。ジフトと話していたときより陽はさらに傾き、赤みの強い橙色の光が前庭の植物を染めている。その甘い香りに誘われたように舞う蝶を眺めるキアラ。佇む町娘キアラの姿に気付いた小間使いが、足音を立てぬよう小走りで近付いてきた。


「キアラ様、セシル公爵が噴水の前でお待ちですよ」


 自分より少し年上の少女に急かされ、キアラの表情が一瞬かげる。こっそりとこちらの顔を窺う小間使いに、キアラは偽りの笑みを向けた。


「……知らせてくださって、どうもありがとう。中庭への道は覚えているから、案内しなくても大丈夫よ」


「は、はい」


 暗に付いて来るなと言われたのを理解して、小間使いは庭の中へ下がった。枯れた花を摘んでいたのだろう。足元にあったくず籠を持って、肩を竦めたまま小間使いは走り去った。

 その姿を最後まで見届け、目を伏せる。栗毛色のまつげが夕日を透かし、茶色の瞳に淡い陰を落とした。機械宮の中でしか見たことの無い植物の葉に触れ、可憐な唇から微かに溜息を漏らす。吐息に揺れるように、大きな葉が動いた。青色の蝶が、とまっていた花から飛び立つ。

挿絵(By みてみん)


「あ……」


 ひらひらと夕空を舞う蝶に、キアラの視線が注がれる。青い蝶を追うように、キアラは中庭に向かった。極彩色の花果ばかりの前庭と違って、ステンドグラスの壁と柱に囲まれた中庭は淡い色の花ばかりだ。水彩画のような淡い庭の中心には、都の外から引いた水が柱のように噴き上げられ、夕日を反射している。

 水を飲みにきたのだろうか、青い蝶は宝石を散らすような噴水の端にとまった。


「やぁ、遅かったね」


 羽を揺らす蝶に見惚れていたキアラの視線が、噴水近くの椅子に腰掛けていた青年へと移った。会釈して弁解しようとするキアラに、青年は首を振って笑った。


「ああ、責めているのではないんだ。親しい友人ほど共に過ごす時間が短く感じられるのは、僕もよく知っているから。――頼んだものは持ってきてくれたかい? 」


「はい、ここに」


 黒檀の椅子に座ったまま手招きする青年に、キアラはしずしずと近付いた。造花の入った籠の中から紙束を取り出す。それを受け取る青年を、キアラは上目遣いで盗み見た。

 リオナード=セシル。公爵の爵位を持つこの青年は、キアラの雇い主であると同時に、機械の都の最高権力者であり、この機械宮の主でもある。大戦終結の後、歳の離れた彼の父親が何者かに暗殺されて以来、歳若い公爵は気ままに享楽の日々を送っている。それでもそろそろ身を固め、世継ぎを、と、周りから急かされているようではあるけれど。


 そんな風に公爵の略歴を考えているキアラ。友好的とは言えない視線に、リオナードは気付いていない。黙って紙束を捲るリオナードの横で、青い蝶が飛び立った。


「ふむ……」


 一通り文書に目を通し、息に乗せて声を吐く。少しずつ傾く夕日がステンドグラスを通して降り注ぎ、リオナードの薄茶色の髪を照らす。黄緑の瞳を持つかおが顰められ、指が紙束を弄んだ。


「ロザリアの艦隊が向かってきているのか――。どうやら、こちらも手を打つときが来たようだな」


 まるで独り言のように呟き、黄緑の瞳がキアラを見下ろした。上目遣いで表情を盗み見ていたキアラが、さっと眼を逸らす。人見知り、と言うにはいささか酷すぎる態度を見ても、リオナードは余裕の笑みを浮かべていた。


「目抜き通りを歩いてくるのは疲れただろう? もう陽も傾いているし、今夜は泊まっていきなさい」


「……はい」


 秀麗な眉間に薄らとしわを寄せて、キアラは頷いた。黒檀の椅子からリオナードが腰を上げると、柱の陰から質素な服を着た男性が現れた。頭を垂れる召使に、リオナードが二言三言何か頼んでいる。その脇を舞う青い蝶を眺めるキアラ。

 リオナードが振り向いた。


「疲れているところすまないが、すぐ着替えてくれ。ああ、服は用意させるから。君に会わせたい人がいる。少し早めの晩餐会といこうじゃないか」


「会わせたい人? 」


 怪訝な顔をしてキアラが訊きかえす。それに答えず、リオナードは召使の男性と共に城の中へ去ってしまった。一人取り残されたキアラの背後から、失礼します、と少女の声がする。振り向くと、先ほど声をかけてきた小間使いの少女だった。お召しかえのお部屋に案内します、と、少女が城の中へ歩いていく。複雑な気持ちを抱きながら、キアラは先導する少女について行った。





 むせ返るような香水の匂い漂う部屋で、キアラが服を着替えている。その横には小間使いの少女と女性が一人ずつ立って、煌びやかな衣装を着せる手伝いをしていた。金の彫刻で縁取られた鏡をちらと見て、キアラは溜息をつく。薄紅色の唇が震えた。


 体の線を整えるための下着がきつく締め付けられて、思うように息ができない。まるで拘束具のようなそれをすっぽりと包むドレスは、どこまでも栄耀えいようで、虚しく輝いている。鏡の中の自分を眺め、キアラは思い切り顔を顰めた。埃っぽいし染みもあるけど、自分で選んで買った服のほうが、よっぽど似合っている。お仕着せの服を纏った自分の姿は、飾り棚に座らされている人形のようで気味が悪かった。

 ――そう、人形。


「大変お似合いでございますよ」


 顔を顰めたのを見られたのか、肩のしわを直していた女性がありきたりな世辞を述べた。ありがとう、と気の無い返事をするキアラの目には、憂鬱なかげが落ちている。

 うんざりしているキアラの態度を気に留めず、女性は、何かが物足りないわね……、と呟いた。すぐさま脇に立つ少女が部屋を出て、数分後に箱を抱えて戻ってきた。


「あの、こちらを着けたらいかがでしょうか」


 おずおずと少女が箱を差し出し、女性が蓋を開ける。中から取り出されたものを見て、キアラの顔に一瞬驚きの表情が走った。これよこれ、と、女性は嬉しそうに手を叩いて、キアラの髪にそれを当てる。

 さらさらと音を立てるそれは、人の髪で作られたかつらだった。


「毛質も色も、キアラ様に似て、丁度いいかと……」


「ほんとうに。これなら髪を結い上げることもできるし、ドレスにもよく合いますわ」


 年頃の少女にしては短いキアラの髪に、女性はかつらを着けようとした。鏡の中で自分の姿を眺めていたキアラが、真一文字に唇を結ぶ。かつらをつけることを気にしているのではない。少しでも見目を麗しく整えようと、または威厳をもたせようとして、貴族がかつらを着けるのは珍しくないことだ。

 キアラの気に障ったのは、今自分の髪に当てられているかつらが、どうやって出来たか思い出していたからだった。


――毛質も色も似てる? 当たり前よ。だって、それ……わたしの髪の毛だったんだもの。


 眉間にくっきりとしわを刻み、キアラの目が伏せる。潤んだ茶色の瞳に浮かんだのは、数週間前の午後の光景だった。初夏の陽光で白く輝く町並みの中、短くなった髪をいじって、とぼとぼと歩く自分の姿。右手には銀貨の入った袋。


『あれっ、髪切ったんだキアラ』


 ジフトの声に、目を上げた。いつものように壁に寄りかかって、ジフトは円い目を不思議そうに瞬いていた。ジフトの腹から音が鳴る。スリで盗った獲物を組合外の子どもたちに分けたから、フレン婆さんに叱られて食事を抜かれているのだ。

 腹を押さえて苦笑いするジフトに、キアラも皮肉な笑みを浮かべてみせる。ジフトより少し長いくらいの髪を手櫛で梳いて、キアラは俯いた。


『うん。――ちょっと短すぎかな。変だよね』


 切るときは平気だと思った。……けれど、いざ想い人の前に立つとなると。どうにも眼をあわせられなくて視線を泳がせてしまう。長くて美しい髪が自慢の町娘たちの中で、キアラは浮いていた。


『似合ってるって! 短いほうがかわいい』


 とびきり明るい声で、ジフトはそう言った。暗い雰囲気が苦手なジフトのことだから、景気づけに言っただけかもしれない。けれどそれだけで、キアラは満足してしまうのだった。


『ねぇ、南通のいちに美味しいガウフ焼きの屋台があるんだって。ちょっと食べに行こうよ』


『でも俺、全然金持ってないよ? 腹減ってるから指の動きもイマイチだし――』


 今日はスリできそうにもないや、と手の平を見詰めるジフト。その腕を掴み、ぐっと引き寄せた。


『いいの。出世払いってことで、貸しにしといてあげる』


『ほんと? やった! ありがとーキアラ! 』


 思い切り破顔して喜ぶジフトに、そのかわり、とキアラが指を突きつける。首を傾げるジフトを見詰め、キアラは頬を紅潮させ口を開いた。


『ジフトが大人になったら……その、わっ、わたしのこと……』


「キアラ様、仕度は全て終わりましたよ」


 夢うつつだったキアラの目が、はっと開いた。甘酸っぱい回想は陽炎のごとく消え去り、目の前には鏡に映った人形のような自分だけ。女性の気に入る櫛が無くて、かつらは着けなかったようだ。短い栗色の髪に触れて、キアラは口元に微かな笑みを浮かべた。結局あの後も、適当に言葉を濁して自分の気持ちをはぐらかしたんだっけ。残ったのはただ、中途半端な長さの髪だけ。

 最後に唇に紅を引かれ、キアラは部屋から連れ出された。





 てっきり食堂に通されるのだとばかり思っていたキアラは、いい匂い漂う広間に足を踏み入れ辺りを見回した。幾百本もの蝋燭が灯るシャンデリアの下で、美味しそうな料理と着飾った人間がところ狭しと並んでいる。

 キアラを連れてきた小間使いの二人は何時の間にか奥へ下がっていた。


 予想だにしなかった展開に眼を白黒させるキアラ。その視界に、見知った影が映った。正装に着替えたリオナードがキアラの手をとり、広間の中央へといざなう。貴族の娘たちの好奇と嫉妬の眼差しを一身に受けながら、キアラはドレスの裾につまづかないよう必死で足を動かした。リオナードはというと、娘たちのドレスの裾を一度も踏むことなく、澄ました顔で歩いている。


「あ、あの――」


 慣れない靴で歩くのも精一杯のキアラは、言いかけた口を噤んだ。ぴたりと足を止めたリオナードの前に、制服を着た男性が立っている。警吏の制服に良く似ているが、少しだけ装飾が豪華だ。そのままでは胸までしか見えない男性を、キアラは首を大きくそらせて見上げた。


「紹介しよう。キアラ、彼は王国治安長のキルロイ=スチュアート君だ。キルロイ、こちらはキアラ=グレイ嬢」


 リオナードの声に、男性は長身の上に乗った頭を動かした。きっちりと後ろになでつけられた葡萄色の短髪が、凛とした容貌を際立たせている。ヒスイ色の目は鋭い光を宿し、キアラは鷹に狙われた兎のようにその場で固まった。

 顔を強張らせあからさまに怯えているキアラに、目の前の男性は顔色ひとつ変えない。ただ短く、よろしく、とだけ言うとシャンパングラスを傾けた。慌てて挨拶するキアラに背を向け、広間の端へと去っていく。


――なんて恐ろしい眼をしているの……。


 去り行く男の背中を見詰めながら、キアラは心の中で呟いた。ドレスに包まれて外から見えないけれど、足が震えている。治安長、とリオナードは言っていた。ということは、警吏たちの長。もし、あんな恐ろしい人がいるときにジフトが捕まったりしたら――。氷のようなヒスイの瞳を思い出して、キアラは身震いした。ジフトには暫らく街で悪戯しないように、きつく言っておかなくちゃ。

 密かに胸に誓うキアラの横で、リオナードは近寄ってきた女性と談話している。どこかで見たことのある顔だ、そうキアラは思った。


 視線に気付いたのか、楽しげに談笑していたリオナードと女性がこちらに顔を向けた。ドレス姿の着飾った娘たちの中で、リオナードと話していた女性は白衣に身を包み、長い髪を頭頂部で結んでいるだけだ。眼鏡の奥で眼を細める女性を示して、リオナードが口を開く。


「既に会っているだろうけど――キュベレー=ブラッドベリー女史、私の信頼する医者だよ」


「お久しぶり」


 淡褐色の瞳をきゅっと細めて、女性が微笑んだ。暗茶の髪が揺れ、甘い果実の匂いが微かに漂う。その匂いを嗅いで、キアラは目の前の女性が誰か思い出した。花売り、もとい情報収集をしていたときに何度も見た女性だ。いつも遠からず近からずといった距離で、キアラのことを見ていた――。


 監視されていたのだと知り、無意識に顔を顰めた。

 腑に落ちない顔をしているキアラに軽く会釈して、女性は他の人のところへ歩いていった。入れ替わるように、立派な服を着た紳士淑女たちがキアラの前に現れる。皆、リオナードから紹介に預かりたいという様子だった。機械宮の主であるリオナードは、その場にいる一人ひとりをキアラに紹介する。よくもまあこんなに人の名前と肩書きを覚えられるものだ、と、キアラは内心感嘆の声を上げていた。とても一回では覚えきれない量の情報だ。目まぐるしく入れ替わる人々の顔に、キアラはくらくらする頭を押さえた。

 リオナードがようやく広間のほとんどの人を紹介し終わったときには、二つの月が夜空に高く昇っていた。





 宴も終わり、夜空に無数の星が瞬き始めたころ。

 行きと同じ二人の小間使いに連れられて、ドレスに着替えた部屋に連れ戻されたキアラは、いつもの服装になっていた。

 肺をきつく締め付けていた下着も脱いで、キアラは鏡の前で大きく伸びをした。


「ふー……。やっぱり、わたしにはこっちの服のほうが似合うわね」


 小間使いたちがドレスを片付けるため部屋から出たのをいいことに、鏡の前でくるくると回ってみる。裾の短い服は、強い日差しに肩の部分の色が抜けかけているけれど、今のキアラにはそれさえも愛おしかった。角度を変えて何度も鏡を覗き込む姿は、本来あるべき自分の姿をしっかりと目に焼き付けているようにも見える。


 そんなふうに鏡の前でキアラがはしゃいでいると、重い木の扉を叩く音が聞こえた。


「――? 」


 無礼をわびる声と共に、質素な服を着た少女が扉を開ける。公爵様がお呼びです、と、少女が言うのを聞いて、キアラは口を真一文字に結んだ。

 造花の入った籠を持ち、案内する少女の後を無言でついていく。


 知らず知らず、進む足が強張っていた。俯くキアラの前には、目前を歩く少女の影がゆらゆらと揺れている。燭台を持って進む少女にも緊張が伝わっているのか、長いながい廊下には風の音が響くだけだ。吹き抜ける風の音が狼の遠吠えのように聞こえて、背筋が震えた。

 やがて前を歩いていた少女が立ち止まった。着替えに使った部屋と違い、金属でできた扉。重厚で、そして冷たそうなそれを目にして、キアラは生唾を飲み込んだ。


 扉を凝視するキアラの横で、少女は扉の横に提がった金属板に触れている。そうすることで部屋の中にいる人と会話ができるらしい。微かに聞こえてくるリオナードの声に、少女はキアラを置いて持ち場へ戻っていった。

 一人廊下に佇み困惑するキアラの前で、金属の扉が音を立て開く。僅かに覗く部屋の中は暗く、キアラは恐る恐る踏み出した。


「……何の御用ですか」


 唇が紡いだ言葉に震えるように、卓上に置かれた蝋燭の火が揺らいだ。とても広い部屋なのに、中央に置かれた燭台以外に灯りとなるものは見当たらない。たった三本の蝋燭で照らされた室内を見回して、寝台がないことを確かめるとキアラは胸を撫で下ろした。いつもならすぐ返答があるのだが、そよ風が蝋燭の火を揺らすだけだ。

 段々と目が暗闇に慣れてきて、キアラはリオナードの姿をみつけた。中庭に面した大きな窓が開いていて、月光が降り注いでいる。丁度その月明かりの下、ゆったりした椅子にリオナードは座っていた。片手には果実酒のグラスが握られている。


 キアラが声を掛けようとしたそのとき、そよぐ風にあわせるようにリオナードがこちらを向いた。


「――あ、すまない。少し考え事をしていた」


「何を考えていらしたのですか? 」


 椅子に座るよう促すリオナードの顔を覗き込むように見上げ、キアラは尋ねた。ふわりと香る果実の匂い。広間で嗅いだ香水と同じ匂いだった。キアラの脳裏にキュベレーだと紹介された女医の顔が浮かぶ。

 リオナードとキュベレーの関係についてキアラが思索していると、開け放たれた窓から柔らかな風が吹いた。そよ風はカーテンを踊らせ、リオナードの額にかかった髪をなでていく。それに後押しされたのか、固く結ばれていたリオナードの口が開いた。


「この土地、機械の都マキナリーは良いところだ。土は豊かで大河は荒れることなく、山々からは鉱石も採れる。王国アガシャの首都から最も遠いけれど、首都についで栄えている。申し分のない領土だ。……ロザリアからの侵略の脅威に晒され続けていることを除けば」


 窓のへりに両手をつき、リオナードは微かに嘆息を漏らした。星を仰ぐ公爵の背を見詰め、キアラは片眉を上げる。


「でも、ロザリアとは八年前の大戦終結時に停戦協定を結んだじゃありませんか。それをロザリアが破るなら、調停役をした共和国マリーノが黙っていないはずです。現に、共和国が派遣した使節団の審査を受けていない船・列車・馬車は、どちらの国にも入国を拒否する権利がありますし――」


 無理に国境を越えようとしたなら、共和国が軍を向けるはず、と続けるキアラを、リオナードが肩越しに見詰める。黄緑の瞳は暗く、物憂げだった。重苦しい空気にキアラは口を噤んだ。絶え間なく吹く微風が、窓際のカーテンを揺らし続けている。その端を弄び、公爵は夜空の彼方へ視線を投げた。


「双頭の黄金竜、ミランダ一味のことについては君も知っているね」


「……はい」


 唐突に空賊のことを話に出したことを怪訝に思いつつ、キアラは頷いた。間を置いた返答に、リオナードは紺色のとばりを透かすように眼を細める。


「ミランダ達はロザリア領内でもお尋ね者だ。その首には多額の賞金が懸けられ、ロザリア軍も討伐に乗り出した。一隻の戦艦と二隻のミサイル艇が東草原上空で待機している。戦艦の艦長は我々に対して、空賊討伐に協力すると意思表明した――ここまでは君が調べてくれたことだ」


 再び頷くキアラに、リオナードは一旦言葉を切った。薄茶の眉を寄せ、物憂げな表情で目を伏せる。


「討伐に協力、か――。一見友好的な態度に見えるが、ミランダ一味は今までロザリアを中心に活動していた。なぜわざわざアガシャの土地、しかも機械の都に空賊が現れたときに討伐するなどと軍を挙げて名乗り出たのやら。どうにも何事かをはかっているように思えてならないんだ」


 苦虫を噛み潰したかのように渋った顔をするリオナード。その表情を見て、キアラも顔色が曇った。風が強くなり、蝋燭の火が煽られる。


「それって……また、戦争が始まるってことですか? 八年前みたいな、大戦が……」


 知らず知らず声は震え、手は服の裾を握り締めていた。こぶしの内側から吹き出る汗が、服の色を濃くしていく。忌まわしい思い出に、キアラは身を震わせた。帰って来なかった父と母。夜になっても赤く燃えていた西南の空。爆発の音、悲鳴――。

 大きな茶色の目に涙をためるキアラを見て、リオナードは険しかった表情を少し和らげた。


「――卓の上に」


 リオナードの手が、キアラの後ろの卓を示す。つられて振り返るキアラの耳に、言葉は続いた。


首都ガイア行きの旅券を用意しておいた。知人への紹介状も同封してある。空賊の出現にガイアも少し乱れているが、ここに残るよりはいくらかましだろう。安全な場所へ行きなさい」


 艶やかな黒檀の卓上に封をした手紙を見とめ、キアラの目が見開かれた。そのまま視線を公爵にぶつけ、キアラが批難の声を上げる。


「逃げるのですか――? まさか、公爵様も? 」


「……私はここに残る」


 疑心に震えるキアラに向けて、リオナードは穏やかに言った。ぬるい微風が窓から吹いて、三つと灯っていた蝋燭の火がひとつ消えた。暗くなった部屋の中で、キアラはリオナードの口調が少し変わったことに気付いた。


「でも、ここは戦場になるのでしょう」


「今日明日にでもというわけではないさ。それに、私はここの領主だ。領土を守らねばならん」


 だから君だけでも安全な首都にいてほしい、と、リオナードは続けた。卓上の封筒を取るよう促す公爵の前で、キアラは尻込みするように一歩下がる。


「いやです、わたし――」


 ジフトを置いて逃げるなんてことできない。そう喉まで出掛かったが、言葉ごと唾を飲み込んだ。影の中に隠れるように後退りするキアラに、リオナードの言葉がさらに追い討ちをかける。


「受け取ってくれ。封筒の中には指輪も入っているから」


「指輪? 」


 鸚鵡返しで尋ねるキアラに、リオナードは頷いてみせた。窓から夜空を眺め、公爵は少し声を落とした。


「もし、無事に空賊を討伐することができたら……渡した手袋と指輪を着けて、私の隣の席に座ってくれないか」


 囁くような告白を聞いて、キアラは目を見開いた。息を呑むキアラに背を向けて、リオナードは窓から夜空を眺めつつ返事を待っている。薄紅だったキアラの唇からみるみる血の気が引いていき、空気を求めてぱくぱくと開閉した。


「わ、わたし……が? 本気でおっしゃっているのですか」


「ああ」


 うわずったキアラの声に、リオナードは応えた。感情の読めない淡白な返答に、キアラはますます蒼白になる。震える両手で胸元を押さえ沈黙すると、キアラは足元を見詰めた。視界に映るのは、贅を尽くした幾何学模様の絨毯とみすぼらしい自分の靴。そして、星明りに照らされ伸びたリオナードの薄い影。

 息を詰まらせて黙ってしまったのを聞いて、リオナードが振り返った。


「ずっと城の中に居ろとは言わない。無理に着飾らなくてもいい。ただ公爵夫人としての役を果たしてくれればそれで――」


「……心に、決めた人がいます」


 唇から紡がれた言葉を聞いて、リオナードは目を上げた。一際強い風が吹き、蝋燭の火が全て消えた。漆黒の闇に飲み込まれた部屋の中で、小さく鼻をすする音がする。驚いたリオナードが名前を呼んで手を差し伸べようと一歩進んだと同時に、金属の扉を乱暴に開く音がした。一瞬だけ廊下の光が差し込み、キアラの走り去る音がする。再び闇に包まれた中で、リオナードは遠のく音に目を伏せてその場に佇んでいた。





 蝋燭の灯る廊下を駆け抜け、月と星の照らす中庭を走りながら、キアラは潤んだ茶色の目から大粒の涙をこぼしていた。頭の中で、公爵の言った言葉がまだぐるぐるとまわっている。駆ける四肢から汗が流れ、息も苦しい。けれど、立ち止まって息を整えようと考えられないほどに、キアラは混乱していた。薄い雲が二つの月を覆い、夜の色が一層濃くなる。


 とにかくはやく帰りたい。皆が、ジフトが待っている下町へ。ただそれだけが心の中を占めて、キアラはよく確かめないまま植え込みの角を曲がった。


「――きゃっ! 」


「うわぁ! 」


 丁度陰に隠れて見えなかった誰かにぶつかり、思わず声を上げてしまった。相手も相等驚いたらしく、立ち上がりながら何度もよろめいている。よく見えない誰かの背格好が自分と同じくらいだと気付いて、キアラは少し警戒心を解いた。


「あ、あの、ごめんなさい。怪我はない? 」


 キアラが声を掛けたそのとき、月を覆う雲が風に流されて中庭に僅かな光が差した。月明かりに照らされて、青地に白い線の入った制服を着た黒髪の少年がこちらを見上げている。黒髪と対比をなす空色の瞳を覗いて、キアラは自分の顔が涙もろもろであられもなく汚れていることを思い出した。

 慌てて少年に背を向け顔を覆うキアラ。その肩を、少年がたたく。


「大丈夫ですか? よかったらこれ使ってください」


 差し出されたハンカチを見詰め、キアラは戸惑った。少し躊躇した後に礼を言って受け取ると、曲がってきた植え込みから人の足音が聞こえた。もしかしたら追手かもしれないと、急に怖くなってきたキアラは、少年に会釈するとその場から隠れるように逃げた。無機質な機械宮から出て、幼馴染の待つ下町へ帰るために。


「――シュウ坊ちゃま、こんなところにいらしたのですか。随分と探したのですよ」


 走り去るキアラの後姿を見送っていた少年が、振り返った。視線の先には、呆れながらも優しく微笑む女性の姿。近付いてくる質素な服の女性に、シュウは背中の後ろで手を組んで唇を尖らせた。


「坊ちゃまって呼ぶのやめてってば」


「ふふふ、そうですね。ばあやの知らないところで、シュウ坊ちゃまも段々と大人になっていたのですね。晩餐会を途中で抜け出して、素敵なお嬢さんと月の下で二人きり……。大丈夫ですよ、奥様には黙っていますから」


 訳知り顔の笑みを向けられて、シュウは赤くなった面を上げた。


「さっきの子は全然知らない子だよ! それに、晩餐会を抜け出したのは知り合いがいなくてつまんなかったから……」


 真赤になって言い訳するシュウに、女性はにこにこと笑って頷くだけだ。気恥ずかしくなって黙りこくるシュウを、女性は手招きした。


「さぁ坊ちゃま、機械の都の夜は冷えます。お部屋に戻って暖かい山羊乳とお菓子をいただきましょう。体が温まりますよ」


 うん、とシュウが答えて女性に駆け寄る。歩き出す女性の横でふと足を止め、シュウは振り返った。空色の目が、見慣れない少女の走っていった道を眺める。すっかり雲の晴れた夜の空は満点の星が輝いて、眠りかけた植物たちを柔らかく照らしている。


「あの子、名前なんていうのかな――」


 涙にぬれた茶色の瞳を思い出し、自らの頬を少し染めてシュウは独り言を呟いた。





 星明りの下で野良犬が鳴く、貧困街。その街のさらにはずれのほうで、焚き火を前にジフトはうたた寝していた。崩れかけた土壁に身をもたせ掛け、倒れかける上半身を何度も元の位置までもどす。その手には、夕方キアラから受け取った片方だけの手袋が握られている。


「ほら、起きろジフト。夜食ができたぞ」


「――んぁ? 」


 恰幅のいい中年男性に小突かれ、ジフトは目を覚ました。声を出した拍子に垂れたよだれを手の甲で拭う様子を見て、焚き火を囲む男性たちがどっと笑い声を上げた。肩をすくめて頭をかくジフトに、鷲鼻の男性が声をかける。


「らしくないじゃないか。いつもならうるさいぐらい機械の話をせがんでくるのに、なぁ? 」


 隣に座る男性に同意を求め、そうだそうだと輪の中から声が聞こえた。はやし立てる声を気にせず、ジフトは大きく伸びをした。差し出された皿から夜食を受け取り、半開きの目をこすっている。


「今日は機械宮まで歩いていったから……足も腰もくたくたなんだよー」


「機械宮だって? おいジフト、なんでおまえさんが公爵様や貴族のいる城まで行ったんだ」


 焚き火を囲む輪のちょうど反対側から、そう尋ねる声が聞こえた。湯気の立つ肉を齧るジフトに、焚き火を囲む男性達の視線が注がれる。皆、興味津々のようだ。

 十数人の男達から凝視されていることに気付き、ジフトは焦げ茶の目をくるくると動かして誤魔化し笑いを浮かべた。あぐらをかいて動いたズボンには、まだ竜紋の財布が隠してある。


「え、えっと……」


 どこまで言っていいものかと悩む間に、顎鬚あごひげをたくわえた男性がしわがれた声で話し出した。


「ジフトのことだから、何かへたをして警吏に捕まったんじゃろ。一日で帰ってこれてよかったな。今はガイアから治安長が来とるから、そいつに睨まれたら物盗りでも極刑に処されるかもしれんぞ」


 途中で声をひそめる顎鬚の男性の話に、周りの男性達もわいわいと治安長について語りだす。


「王国治安長っていうと、あのキルロイ=スチュアートっちゅう男か」


「王国の法に背くものには、女子どもでも容赦しないって話だ」


「俺、聞いたことあるぜ。水の都でキルロイから財布をすろうとした子どもが、財布を握った手ごと切られちまったんだとよ」


 次々と語られる治安長のうわさ話に、焚き火に薪をくべていた男性が身を震わせた。


「恐ろしい話だなぁ……。たしかに人からものを盗るのは悪いこったが、何もそこまでしなくていいだろうに。人の所業じゃない、まるで鬼みたいじゃないか」


 輪の中からちらほらと同意の声があがった。顎鬚をたくわえた男性が小さく咳払いして、ジフトに目配せする。ジフトが首を傾げると、皆に夜食を配っていた恰幅のいい男性が口を開いた。


「まぁ、ここしばらくは大人しくしとくんだな。ジョーとフレンが何か言ってくるかもしれないが、飯のために命を落としちゃ本末転倒だ。腹が減ったら俺んとこに来な。腹いっぱいとは言わないが、一人分の飯ぐらいなんとかしてみせるさ」


 油まみれの拳で逞しい胸をたたき、男性は豪快に笑った。見上げるジフトもつられて微笑むけれど、その眉は申し訳無さそうに下がっている。あぐらから膝を縮めて座り方を変えると、焚き火を囲む男性達が我も我もと名乗りを上げた。ついでに愛妻の料理自慢大会がはじまったのを見て、今度は本当に笑みを漏らす。


「――みんな、ありがとう。俺、絶対に操縦試験受かって、みんなに恩返しするから」


 はにかむジフトの顔を、橙色の焚き火の光が照らす。ぱちぱちとはじける火の粉を見詰めてそう言うジフトに、鷲鼻の男性は声色を明るくして近くの建物を指した。


「よーし、それなら実技の特訓だな! しばらく助手席に乗せてやるよ。おれの操作技術をとくと見やがれってんだ」


「えっ、いいの? ほんとに? 」


 顔を輝かせてききかえすジフトに、男性は気のいい笑顔で頷いた。操縦はさせてやれないけどな、と念を押す。それでも十分うれしかったらしく、ジフトは両手を挙げて焚き火の周りを飛び跳ねた。はしゃぐジフトの手から、握っていた手袋がすべりおちる。

 恰幅のいい男性がそれを拾い上げ、疑問符を浮かべた。


「おや、これは……。ただの綺麗な手袋かと思ったら、空間座標入力用の手袋じゃないか。完全手動操作型機械のための手袋だなんて 、おまえまたえらいもの盗んじまったな」


 光を浴びて輝く手袋を摘み、男性は呆れ顔だ。動きを止めて手袋を受け取ったジフトが、しげしげとそれを見詰める。


「かんぜんじどう――って、手袋をはめて操縦する型の機械のことだよな! 俺、一回でいいから操縦してみたかったんだ」


 好奇心に目をきらきらさせるジフトの前で、男性はやれやれと首を振る。


「まったく、事の重大さがわかってないな。いいか、ジフト。機械を操作する手袋は、その機械しか操れないんだ。逆を言えば、他の手袋では機械を動かせない。代えがきかないってことなんだよ。つまりその手袋じゃここにある機械は動かせない。大人しく持ち主のところに返してこい――今頃血眼になって探してるだろうから」


 ぽん、と肩をたたいてそう諭すと、男性は空になった皿を持って井戸のほうに引込んだ。釈然としない表情で立ち尽くすジフトの耳に、野良犬たちがけたたましく吼える音が聞こえる。そして、誰かの走ってくる音が。

 何事かと振り返ったジフトの目に映ったのは、野良犬に追いかけられて全力疾走しているキアラの姿だった。


 大人たちも追われる少女がキアラだと気付いたらしく、どよめいている。助けに――、と鷲鼻の男性が言いかけたそのとき、ジフトは焚き火を囲む輪を飛び出していた。


「キアラっ! 」


 名前を呼ばれたキアラがはっと眼を上げる。追ってきた野良犬たちはジフトに怯んで、尻尾を巻いて路地裏へ逃げていった。

 肩で息をするキアラの腕をジフトが握り、焦げ茶の目が茶色の瞳を覗きこむ。


「噛まれてないか? ――って」


 キアラの大きな目にみるみる涙が溜まり、こぼれ落ちた。怪我をしたのかと心配するジフトの胸に、キアラが顔を押し付ける。名前を呼んで泣き出したキアラを抱いて、ジフトはおろおろと周りを見た。遅れて来た大人たちが、二人を取り囲んで何事かと見守っている。


「キアラちゃん、大丈夫かい」


「こりゃあキアラちゃんのために犬狩りでもするかな……」


 遠巻きにたむろする男性たちを掻き分けて、白髪の女性がジフトたちのほうへ寄ってきた。油染みだらけの前掛けをたくし上げ、裾の端で泣いているキアラの涙をぬぐう。気を揉んでキアラの様子をうかがう男性たちに、白髪の女性は手で追い払う仕草をした。


「ほらほら、女の子の泣き顔をじっとみるんじゃないよ。ここは女衆にまかせて、男はさっさと明日に備えるんだね」


「だけど、放っておけないよなぁ」


「そうだそうだ。俺達みんな、キアラの親父さんには世話になってたんだから」


 異論を唱える男性もいたが、家々から自分の女房が出てくるのをみて、皆後ろ髪引かれるように下がっていった。ぽつんと残されたジフトを見て、白髪の女性はまた追い払う仕草をする。


「ジフト、あんたも長屋に帰りな。フレン婆さんには、キアラはわたしのところに泊まるって伝えとくれ」


「うん――」


 踵を返したジフトは、何かに服の裾を引っ張られて止まった。首だけ振り返った視界の端に、白い細い手が見える。情けなく鼻をすする音が聞こえ、次いでキアラの声がした。


「わたしも、一緒にいく」


 すっかり鼻声になってしまったキアラの言葉を聞いて、ジフトがぽりぽりと頭をかく。赤くはれた目元をこすりながらもジフトについて行こうとするキアラ。それを見て、白髪の女性は渋った表情を浮かべた。キアラの両肩をやさしくつかみ、自分の方へと向けさせる。


「キアラ、もういいだろう? 夜中に花売りなんかしてる姿を見たら、父さん母さんが悲しむよ。ここであたしたちと暮らせばいいじゃないか。あんたの両親はいい人たちだった。みんな喜んであんたの面倒を見てくれるよ」


 女性の説得に、キアラは口を真一文字に結んだ。きゅっと噛み締めた唇が、血の気が引いて少し白くなっている。近くの家々では、さきほど焚き火を囲んでいた男性達とその女房が、そっとこちらの様子をみていた。その優しい眼差しも、キアラには届いていないようだった。ジフトの服の裾を握る手に一層力を入れて、キアラは女性から離れた。


「ジフトと一緒がいい。一緒じゃなきゃ、いや」


 そう言ってジフトの腕をしっかりと抱きしめるキアラを見て、白髪の女性は小さく溜息をついた。煌々と燃えていた焚き火は、今は燻って黒い煙を夜空にひいている。がっちり腕を掴まれ、動きを封じられて戸惑っているジフトに、女性は口を開いた。


「キアラのこと、頼んだよ」


「え? ……うん、わかった」


 ちらちらとキアラの顔色を窺いながらジフトが頷く。それを聞いて安心したのか、締め付けていたキアラの腕が少し緩んだ。そのままぎこちない動きで長屋へと帰っていくジフトと、そしてキアラの姿を、白髪の女性はなんともいえない表情で最後まで見送った。






 月が沈み、太陽が地平線から覗きはじめる刻。とても屋根とは呼べない板切れの隙間から、眩しい朝日が差し込んでジフトの顔を照らす。眠そうに手で目を覆い、寝返りを打つジフトを小さな手が叩いた。舌足らずな幼い声が、ジフトの名を呼んでいる。


「ジフトにい、おきゃくだよ! おきゃく」


 擦り切れた毛布に包まりながら、ジフトは面倒臭そうに頭を振って見せた。もうー、と舌足らずな声が不満そうに言い、丸まるジフトの背中をぽかぽかと叩いた。起きて起きてと催促する声に、ジフトの隣で寝ているキアラが動いた。それを聞いて、ジフトがやっと起き上がる。寝ぼけ眼で鼻の頭を擦ると、キアラを起こさないように寝床から這い出る。廃屋同然の長屋の床には、ジフトとキアラ以外にもたくさんの子どもが寝ていた。ふらつきながら子どもたちを踏まないように歩くジフトを、幼い女の子が後ろから押して急かす。


「はやくはやく! 」


「わかったって――」


 うんざりした表情で言いかけ、ジフトはまるい目をさらに円くした。朽ちかけた玄関扉の向こうに見える人影に、視線が釘付けだ。女の子の声でジフトが来たと気付いたらしく、人影が振り返る。


「おはよう、ジフト。早速だけど、今から空賊に会いに行こう」


 青地に白線の制服。真黒な髪をゆらして、そこには満面の笑みのシュウがいた。空色の目を、ジフトが口を開けたまま凝視している。無言の二人の背後で、牛が間延びした鳴き声を上げた。その音で我にかえったジフトが、シュウを指して冷や汗をかく。


「な、なななんでっ! どーしておまえがここにいるんだ? 尾行してたのか? 」


「まさか。ふつうに人にいてやって来たんですよ。ふつーに」


 人聞きの悪いこと言わないでください、とシュウが咳払いしてジフトに目配せした。その背後を、空の籠を持った女性が横切っていく。これから朝の市に食材を買いにいくのだろう。女性が通り過ぎ、近くに人がいないことを確かめると、シュウは財布から金貨を一枚取り出した。きらきら輝くそれを、ジフトの後ろで会話に聞き耳を立てていた女の子に渡す。


「きみ、ありがとね。これでお菓子買っておいで」


 女の子は両手で金貨を受け取ると、嬉しそうに朝市が立つ方角へ走り去った。女の子も去って完全に二人きりだ。財布の奥から何かを取り出そうとしているシュウを、ジフトは不信感いっぱいの目でみつめる。


「……で、何しに来たんだよ」


「さっき言ったじゃないか。空賊をおびき出して、羅針球について訊き出すんだ」


 あ、あった、とシュウが顔を輝かせ財布から小さな球体を取り出した。さっきより内容が過激になってるじゃんか……、とジフトが小声で愚痴っている。シュウの手の平で朝日を反射する羅針球に、ジフトの視線が注がれた。


「訊き出すって、何を訊き出すんだよ? 羅針球さえあれば、球が中に記録された場所まで道案内してくれるんだろ」


 それぐらい俺でも知ってる、とジフトが唇を尖らせ頭の後ろで腕を組む。小さな金属の球を握り締め、シュウは黒い眉を寄せて俯いた。


「それが……」


「ん? もしかして起動の仕方がわかんないのか? だったら俺がかわりに」


「壊れてるみたいなんだ、この羅針球」


「――へ? 」


 深刻な内容の割りにはあっさりと、シュウは告げた。どうしていいかわからないといった表情で、手の平に乗った羅針球に触れる。凹凸おうとつのあった球の表面が蠢き、緑と青の光を出す二ヵ所を残して滑らかに変形した。金属の球体が、重力に反して手の平を転がり上がっていく。羅針球を落とさないように、球の進む方向へ歩き出すシュウ。その背中に、ジフトがあくびまじりの声をかけた。


「なんだ、動くじゃん。俺がいなくても大丈夫だな」


「問題はここからなんだってば。……ついてきて」


 むっとして突っかかりそうになるのを堪えて、シュウは声を抑えた。唇に人差し指を当て、シュウが再び歩き出す。その後ろを、面倒臭そうに頭を掻きながら、ジフトがのろのろとついていった。

 二人が牛舎の角を曲がりかけたころ、長屋のすぐ脇にあった廃屋から背の高い青年が身を出した。眩しい朝日に青い目を細め、金髪がかかる額に手をかざす。


「ふーむ、道標はあっちのガキが持ってたのか。危ない危ない、無駄弾を使うところだったぜ」


 誰にともなくそう独り言を呟くと、空賊の青年は襟元についた小型通信機を口元に寄せた。カチリ、と音がして、通信時独特の雑音が機械から漏れる。


「こちらバート。目標を確認した。右心の道標は青い制服を着たガキが持ってる。機械宮のほうへ向かってるみたいだから、挟み撃ちにしよーぜ。今度は手抜きすんなよ、ウィル」


 相手の返事が来るより前に、言いたいことだけ言うと青年は通信を切った。腰から下げたホルスターから青い回転式銃を引き抜くと、青年は冷ややかな笑みを浮かべた。眼帯の下で多重レンズを通した視界には、建物の向こうにいるジフト達の姿がくっきりと映し出されていた。

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