第三十二話 暗空 前編
六角の館を背に、ジフトは両の眼を右手の林に向けて硬直していた。その足は木々と同化して根が生えたように微動だにしない。昼を過ぎた太陽がじりじりと皮膚を焼く。背中に負ったアールの髪が、館地下の空気の名残が如く、ひやりとした感触を足首に纏わりつかせている。濡れた蔦のようなそれに、ジフトは林の先から自分を見つめる人物の視線を無意識に重ねていた。風に揺れる黒い髪と青い瞳が想起させるのは、濁った河にたゆたう枯れた水草。記憶に刻まれた容貌との乖離は少ないものの、瞳に宿る光は全く別人のそれに変化している。
頬を伝う汗。薄く開いたジフトの唇がその人の名を呼ぶより先に、やぁ、と彼方の側から声がかかった。久しぶり、と、感慨深げに発する言葉とともに、幹に添えていた手がゆっくりと撫で下ろされる。きつね色の指が一本ずつ離れるのに、悠久が過ぎるが如き感覚。ジフト、と、森林に潜む影は囁くように呟いた。小鳥も鳴かない静寂の中で、声はよく届く。名を呼ばれたことで、硬直していたジフトはようやく相手に問いかけた。
「シルバ……? シルバ、なのか……?」
木陰で黒髪の少年が首肯する。声は聞こえない。ただ沈黙して、長い髪が揺れただけだ。しかし、それだけでジフトには十分だった。驚きと戸惑いの中に、ふつふつと再会の喜びがわいてくる。感情が拮抗して動きを止めているジフトへ、知り合いなの? と、シュウが訊ねた。先頭を歩いていたバートが遅れて気づき、気怠そうに振り返る。小言でもくれてやろうと開いた口から、なんとも形容し難い呻きが出た。
「――おい、ガキ。『あれ』は何だ」
隻眼の青い瞳は、ジフトがシルバと呼んだ少年へ向けられている。釘づけになっている、というより、固定されている、とでも言うのが正しい見つめ方。無意識に後方へにじり、拳銃を構えるバート。その様子をジフトが見ることはない。ジフトもまた、林中の異貌の少年を見つめていたから。ただし、その胸にあるのは恐れでなく郷愁だったが。呆けて開いたままだった口から、ぽつりと問いへの答えが出る。
「俺の、友達――」
二年前、売られていった、と、後に続く。鉄の都にいるはずの。そうジフトが少年の身の上を語る間、当の本人は一歩また一歩と一行に近付いてきていた。落ち葉の上を歩んでいるはずなのに、不思議と音は聞こえない。こんなにも静寂だというのに。ここに居てはならない少年は、片手をジフトへ差し伸べた。指先が少し震えている。やっと、と、薄い唇が悲哀を帯びた微笑を浮かべて動く。やっと会えた、と。
「ただいま、ジフト」
細めた昏くて青い目に浮かぶのは、再会の喜びの涙か、別の何かか。絞り出すように発した一言は、それだけで彼の二年間の苦難を物語っていた。そしてその表情は、困惑していたジフトの緊張を決壊させるに必要十分だった。強張っていた肩の力が抜ける。気が付けば、おかえり、と返事をしていた。何故彼がここに居るのか。その腰に下げた銀の双剣は何に使うつもりなのか。脳裏に過る疑問も掻き消されて。言葉を返したジフトの口からは、堰を切ったように久方ぶりの友人への問いかけが溢れる。
「あ、その、元気だった? ひと月前に手紙を送ったところなんだけどさ、まさか返事より先に会えるなんて――」
うきうきと話しかけるジフトの肩を、何者かが乱暴に掴む。頭上から、おい、と怒気をはらんだ低い声がした。見ればバートが切迫した様子でいる。押しのけられたシュウがその後ろで事態に困惑しつつもバートに文句を垂れていた。会話を中断されたジフトが口を尖らせる。
「なんだよバート」
「呑気に挨拶交わしてる場合か、ボケ野郎が! てめーのダチってことぁつまり、相手は『短剣』ってことだろーがよ!」
ずいと身を出して少年とジフトの間にバートが入る。その右手には装填された拳銃。暴言に混じった指摘を受けて、ジフトが円い目を瞬かせる。ああ、いや、シルバは『短剣』じゃなくて、と、言いかけたのを今度はシュウが遮った。黒い髪に青い瞳の少年――と、手を顎にやり思案する。初対面の他人を疑うことに多少の躊躇を持ちつつも、その後に続く言葉を止めない。
「もしかしてきみが、東の市で殺しをしたのか?」
ざわり、と、風が林を吹き抜けた。東から西へ抜けた風が、少年の追い風になって長い髪をかき乱す。一層昏い影の中で、青い瞳が妖しく光る。砂の落ちるように表情を消した少年の前で、否定の声を上げたのはジフトだった。
「ち、違うって! シルバはそんなことしないよ、『短剣』でもないってば!」
身を乗り出そうとするジフトを、下がってろ、とバートが片手で制す。少年の傍へ行こうとしても行けない、歯がゆい思いのジフトは、頭を振って擁護を続けた。あいつは二年前、他の子を庇って鉄の都に。言いかけた言葉を静かな声が止める。
「いいんだ、ジフト」
そうさ、と。バートの腕を超えようともがくジフトの前で。
「――ボクが殺した」
長い黒髪を追い風になびかせ、少年は認めた。その顔には後悔の念も自責の感情も無い。在るのはただ、結果だけを淡々と言語化して伝えるという現象。ここ数日で何度も目にした、あの表情。命を奪う死神の眼差し。知己の友に会えて少しは浮かれていたジフトの胸に、冷たい痛みが走った。アールの腕を掴んでいた両の指から、次第に力が抜けてゆく。ずるずると音を立てて、気絶したアールがジフトの背を伝い地面に膝をついた。血の気の引いた口を開き、ジフトが呟く。うそだ、と。
「うそだよ。だって」
うわごとのように繰り返すジフトの前で、少年の手が腰元の短剣へ伸びる。風に揺られる木の葉ずれが、ざわざわと騒がしい。
「だって、シルバ、おまえ、虫も殺さない、魚だって釣らない、そーいう奴じゃん」
否、うるさいのは己の体内を巡る血液だ。
認めたくないが理解しているジフトの瞳に、少年が柄を握るさまが映る。どくどくと血が内側から鼓膜を叩く。
「長屋のチビたちにも一番優しくしてて――」
ひきつるような笑みを浮かべていたジフトの顔に、焦燥と懇願の色が滲む。
少年は無言のまま、柄を握る手を離さない。その瞳はどこか遠くを見つめているようで、けれどまだ呼びかければ戻ってくるはずだと、どこかでジフトは望んでいた。
「誰かが怪我したら、必死で手当てする奴じゃんか! おまえは!」
少年が一歩踏み出す。バートが黙っていろと叫んでジフトを突き飛ばし、発砲する。どちらが先だったのか、判別できない一瞬の出来事だった。鈍い音。喉奥で声にならない悲鳴をあげるジフトが見たのは、銀の剣身を眼前に翳す少年の姿だった。刃の間から、濃い影の下で、少年の口端がわずかに上がる。ぞっとするような、笑みだった。
絶句するジフトとシュウ。その前に立つバートも動揺を隠せず、気圧される。手を伸ばせば触れ合えるほどの距離にいるのに、抜き身で弾丸をはじき返されたのだ。無暗やたらに撃つだけでは牽制にもならないと次の一手を思案するバートの眼前で、少年は悠然と二本目の短剣を抜く。鉄の都で、と、伏せた青い目が懐かしそうに細められた。
「ジフト、キミとキアラがくれる手紙だけが……ボクの支えだったんだ」
視線を落としたその先、胸元に光る装飾に触れる少年。紅い紐に通した機械の部品。見覚えのあるそれに、ジフトは息をつめた。
手紙は燃やされちゃったけど、と、少年は紐に通された部品を指先で転がす。
「時々、一緒に送ってきてくれた機械の部品。これを見るたびにキミとキアラのことを思い出してたよ」
ふ、と、俯く少年の顔に柔らかな笑みが浮かぶ。だがそれも刹那の出来事。ジフトが少年の名を呼ぶころにはすでに、見知った友は未知の感情を湛えた目をこちらに向けていた。ジフト、と、少年が呼びかける。
「キミはずっと、ボクの憧れだった。キミみたいになりたいって、ずっとずっと願ってた」
少年が彼岸のモノになりかけていることに気付いたジフトが、シルバ、と、大きな声でその名を呼ぶ。双剣を握ったままの両手が、優しく此方に差し伸べられる。
「――覚えてる? ジフト。初めて会ったとき、キミが手を差し伸べてくれたこと。親に売られて『花と短剣』に入って、言葉もわからない異民族、ボクは完全に異物だった。髪と目の色が違うからって、誰も相手にしなかったボクを、キミだけが友達と言ってくれた……」
一言一言、懐かしんで語る少年。耳を貸すなとバートの背後に匿われたジフトは、腕を振りほどいて呼びかけに応えた。忘れるもんか、と。奇異な新入りが来たと野卑に話す『短剣』たちの噂を耳にし、シルバを見つけたときのことを。痣だらけの痩せ細ったその姿にかつての自分を重ね、温かい食べ物を運んだこと。パンを差し出すジフトを見て、怯えるだけだったその顔が呆けた後に、青い目が潤んで大粒の涙が頬を伝った。
傷だらけの子どもだった少年は今、銀の双剣を手にジフトの前に立っている。過ぎた時間だけ長くなった黒髪を風に揺らせて。
あの時から、と、少年は黒髪の下で言葉を紡ぐ。その表情は伸びた前髪に隠されてよく見えない。
「あの時からずっと、ジフトはボクの英雄なんだ。……キミみたいに強くなれたらって、いつも想ってた」
黒い睫毛が青い瞳に闇色の影を落としている。静かに伝えられる心情に、ジフトは戸惑いつつも首を横に振った。強くなんかない、助けたいと思ったのだって、本当は――
どうして浮浪児達に食事を与えていたのか。『花と短剣』で活動するには幼すぎる子ども達を長屋に引き受けて世話していたのか。あの日、あの戦火の中、本気で助けを求めて大人に縋りつかず、自分の力だけでキアラを守ろうとしたのか。ジフトの胸中をどす黒い感情が渦巻く。公爵と対面して自覚させられた自我が皮膚の下で蠢く。
「俺は――」
「キミの背中を追い続けて、やっと」
やっと追いついたんだ、と、差し伸べられた手が刃を天に向ける。銀の短剣が眩しい陽光を反射する。蛇腹のような奇妙な刀身の向こう側で、黒髪の少年は笑っていた。白い犬歯は短剣に劣らず鋭かった。もう片方の短剣の刃が、地に向けられる。構える二本の腕は地面と平行で、重いはずの銀の短剣を持っても微動だにしない。
「ボクは英雄に『成った』んだよ、ジフト。だから、今度はボクがキミを護ってあげる」
ざり、と、踏みつけた木の葉と砂利が擦れる音がした。肩幅の広さで立っていた少年の足が、にじるように前後へ開かれる。そう、と、幸福そうに、恍惚と、海底のような青い瞳を歪ませて少年は続けた。
「この世のあらゆる災厄から、キミとキアラを――」
「シルバ……?」
言動と行動が相反する少年に、うそ寒いものを背筋に感じ、ジフトはかつての友の名を呼んだ。瞬きの刹那。ざわめく梢から何か光るものが飛び出す。金属のぶつかり合う音。鼠色の塊が地面を転がる。思わず目で追ったその先で、人ほどの大きさのそれは間髪いれず立ち直った。茶鼠の短髪、灰赤の瞳。昨日退けたばかりの相手に、ジフトが息を呑む。クラウ、と名前を呟く声は、バートが毒づくそれで掻き消された。
「くそっ、やっぱりもう一匹いやがったか……!」
躊躇無く銃口を新手の標的に向けるバート。その腕にジフトが反射的にしがみつく。弾丸が、茶髪の少年の足元を掠めた。灰赤の瞳がバートとジフトを一瞥したが、すぐにそれは味方であるはずの黒髪の少年へ向けられる。構えていた刃の片方を下ろし、悠然と立つ少年へ。なぜだ、と、忌々しそうに下がる口の端が開く。
「なぜ殺さない、なぜ邪魔をする! 貴様も裏切るつもりか、シルバ!」
怒りに震える拳の先には、鉄爪。その一部が欠けていた。先ほどの音が、鉄爪と銀の刃のせり合いだったことにジフトが気づく。憎悪と、そして焦燥を隠さない『短剣』の少年に、黒髪の少年はさきほどまでの笑みを消した。血も凍るような軽蔑の眼差しをちろりと向けて、視線を合わせるのも億劫とでも言うようにそれを戻す。
「どうしてこんな簡単なこともできないのかぁ、クラウ……。ボクが呼ぶまでじっとしてるってだけのことがさァ――」
微かに開いた唇から出るのは、ジフトと会話していたときのように落ち着いた柔らかな声。しかしそれは、押し殺した怒りを内包していた。完全なる無表情で刃を弄ぶ変貌ぶりに、バートを阻止していたジフトの意識が一瞬逸れる。締め付けるのが緩んだ隙に、バートが振りほどいた腕をしならせた。肘鉄がジフトのみぞおちを襲う。腹を抑えてへなへなと倒れこむジフト。その間に、バートは肺いっぱいに大気を吸い込んだ。
「『短剣』だっ! 『短剣』が出たぞ!」
閑静な林、そして機械宮南西に酒焼けした声が響き渡る。何事かと固まるジフトとシュウ、してやられたと顔を顰める『短剣』達。すぐに、長々と続く城壁の向こう側から駆け付ける足音が聞こえた。同時に、『短剣』だと、どこにいる、との喧噪も。バートが何を期待して大声を出したか理解したシュウが、音のほうへ不安げに視線を送る。より近い訓練所のほうからも鎧をまとった足音が聞こえる。それに、こっちだ早く来てくれ、と呼びかけるバートの声。訓練所の裏の林だ、と、ご丁寧に場所も教える金髪長身の青年を、シルバと呼ばれた黒髪の少年は忌々しそうに睨めつけた。
「――なるほどね、荒事には慣れてるってわけだ」
しかし逐一情報を伝えるバートを口止めしようともせず、その場で構えていた刃まで下ろしている。地面すれすれにまで下降した銀の刃には、狼狽えている茶髪の少年が映っていた。援軍が思いのほか大量に来そうだと足音で予感したらしく、舌打ちの後に、未だ疑惑を解いたわけではない瞳を相方へ向けている。
「退くぞ、シルバ」
「誰のせいでこうなったか自覚してるよね……?」
これ以上ここにいれば負け戦になる、と踏んだ少年はすでに逃げ腰になっている。対する黒髪の少年は焦る様子もなく、その場から一歩も動かない。ただ冷たい怒りを背中に滲ませている。ぐ、と、言い返せずに喉を鳴らす。少年が危惧した通り、間もなく城壁の角、そして林の向こう側から複数の男たちが現れた。警吏のような青い服を着た公爵の私兵、そして武装した貴族の子息たち。いたぞ、と息巻く一団の中から、黒髪の少年に激しい憎悪を向ける者がいた。
「貴様が、東の市の――」
その手に握る磨かれた長剣が震えている。昨日の昼、東の市での惨劇の犠牲者が身内だったのか。鎧一式に身を包んだ騎士が剣を構えて突進してくる。青服の一団の中からも、ヌワジの仇、と叫んで襲い掛かる者がいた。身軽な分、青服のほうがはやく少年へ迫る。『短剣』の少年は、黒髪を風にたゆたわせ、それでも動かない。昏い目がちろりと襲撃者に一瞥をくれてやっただけだった。瞬きの間に、少年と青服の距離は縮む。振りかぶった警棒から、仕込み刀が飛び出す。何してるんだ愚図、と、背後で撤退しかけていた茶髪の少年が踵を返した。鉄爪が躊躇いなく敵の手首を狙う。白い光が二筋、空間に走る。響く金属音。とす、と、何かが地面に突き刺さる音。
「ひっ」
それが自分の足元に落ちた警棒であると気づき、シュウが喉奥で悲鳴を上げる。秒にも満たないうちに、長い黒髪の少年は向かってきた者の武器を絡めとり、弾き飛ばしていた。仲間であるはずの茶髪の少年も無効化の例に漏れず、鉄爪を嵌めた右手を柄で極められて苦痛の表情を見せている。青服の喉元に嶺を付けた少年が、音も無く、梃のように短剣の柄を突き下ろす。勢いつけて刀身が跳ね上がり、顎を強かに揺らされた男性はその場に昏倒した。倒れる青服の後ろから、狂戦士の如く飛び出す騎士。最も速く、最も回避が難しいと言われる突きを、少年は歩きながらするりと交わす。すれ違いざまに、首へ嶺を掛けて相手を窒息させながら。ほんの数秒で終わった攻防を見守るだけだったシュウが、震えながら後ろでで壁に縋りついた。がくつく足は無意識に後退している。バートの呼び声に反応してすぐこれた一団は、あっという間に地に伏せていた。槍剣はおろか、飛び道具の類でさえも少年に傷の一つも負わせることができなかった。
強さの、次元が違う。
蛇腹状の銀の双剣を自在に操る少年を前に、シュウはただ怯えることしかできなかった。先ほどバートに手痛い肘鉄を食らったジフトと、気絶しているアール、二人の前に立って、攻撃のとばっちりを受けないように庇うぐらいのことしかできない。足元に刺さる警棒、そして突きを交わした身のこなしを思い出し、勝てるわけがない、とシュウが一人呟く。記念館に行く前、貴族の子どもの突きを交わし、勢いを利用して反撃したが、あれとは比べ物にならない。何年も演武をこなして、相手か自分かどちらかの座標が固定されてはじめて成功させられるはずのものを、あの黒髪の少年はいとも容易くやってのけた。自分も、相手も動く状態で。実戦の中で。あまりに、戦い慣れている。バートの放つ弾丸を笑みすら浮かべてはじき返す少年を食い入るように見つめるシュウのこめかみを、冷たい汗が伝った。年もそう違わないであろうに、同じ髪の色、似た瞳の『それ』は、とても同じ人間とは思えなかった。
ただ一つ幸運なのは、相手にはこちらを殺そうという意志がまだ無いこと。
地に伏せる者たちは、打撲や軽い流血こそすれど、致命傷は負っていなかった。明らかに、手加減されている。向かってくる私兵や騎士たちに気を取られている間に、二人を引きずって物陰に逃げ込めれば……。そう考えて逃げ場を探すシュウの耳に、さらなる増援の声が聞こえた。
「『短剣』だ!」
「すぐに捕縛しろ!」
見れば、警吏と私兵が混ざった一団が。しかし両者ともおっとり刀で駆け付けたようで、先陣を切った者たちと装備の大差もない。赤子の手をひねるように捻じ伏せられるのは目に見えていた。交戦中なのを気付いて早や駆けしてこようとする一団へ、シュウが警鐘のための声を張り上げる。
「だ――だめです! こっちに来ちゃいけない!」
子どもが言ったところで、警備が目的の彼らに通じそうにもない。けれど耳に入るのなら、少しでも気に留めてもらえるのなら、と、シュウは息継ぎも忘れて続ける。
「相手の『短剣』は二人組、でも剣も銃も効かないんです! 強弓と大筒を、そしてもっと増援を呼んでください!」
必死で伝えた言葉は、幾人かの理性に響いたようだ。数人が顔を見合わせ、頷いては来た道を引き返した。おそらくはシュウの要求したものを取りに行くために。しかしそれでも大半は猪突猛進とこちらに向かってきている。その装備じゃ、いたずらに負傷者を増やすだけだ、と、繰り返し警告する。すぐ隣でうるさいほど響いていた銃声が、止んだ。視界の端に映るのは、バートが拳銃に弾丸を装填する姿。弾切れした一瞬の隙をついて、もう一人の『短剣』が飛び込んできた。狙いは、ジフトを庇うシュウ。
「――ッ」
視界を過る灰色の影に反応して身を引いたときにはもう、鉄の爪が耳を掠めていた。反射的に頭を前に出していなければ、耳介を貫通して絶命していたであろう。そのまま頸動脈を狙って下ろされる一撃を、なんとか拳の甲で押しのける。ぢりり、と骨と金属が擦れる音。氷に貫かれたような冷感が甲に走る。
「ぐ……!」
痛みに耐えて目だけ振り返った先には、凶刃を防御したことで開いてしまった顎めがけて繰り出される膝蹴りが。とびかかる勢いを生かしたそれを食らえば、先ほどの青服のように昏倒してしまう。黒髪の『短剣』と違い、この少年からは紛れもない殺意を感じたシュウは、とっさに空いているほうの手で拳をつくり、側面を迫る膝に打ち下ろした。じんと痺れる拳、踏みしめた大地に殺しきれなかった勢いで擦り跡がつく。右は鉄爪を、左は膝を。両の手を使って危機を脱したと詰めていた息が漏れるその瞬間。シュウの眼前にもう一方の鉄爪が迫った。
「あ――」
しまった、と思うがもう遅い。第一波も第二波も、すべてこの最後の一撃のための布石。守る手段のない喉笛めがけ、刃の反射が軌跡を描く。せめて身体が動けば、そう思うも、足が竦んでいた。訓練じゃない、決闘でもない、ただの殺し合いに。最期に見る相手の顔から、シュウは眼が逸らせなかった。ぎらぎらとした灰赤の瞳、薄く開いた口から覗く鋭い歯。それは間違うことなき獣の貌だった。今まさに一咬みで、獲物の生命を絶たんとするモノの。白みゆく視界の中で、何かがシュウの視界を覆った。
やめろ、と、遠くだか近くだかわからないところで誰かの叫ぶ声がする。はたはたと、頬に何か温かい液体が降り注ぐ。来る致死の痛みに備えて自動的に意識が飛びかけていたシュウは、我に返って絶句した。鉄爪が、止まっている。白い手袋を貫いて。赤い血を溢れさせて。呼吸を忘れていた口が、空気を求めて開き、ああ、と意味のない音を上げる。正面で、舌打ちの音。
「どこまで邪魔すれば気が済む」
ジフト――と、獣からヒトへ戻った少年が、これ以上ない憎悪の視線を送っている。シュウの隣に立つ者に。己の手で凶刃を受け止めてみせたジフトに。クラウ、と、刃で手を貫通されたとは思えないほど静かに、ジフトが少年の名を呼ぶ。
「もう、やめにしよう」
背中を向けて、肩越しに見える横顔。激情でなく、しかし確固とした意志を宿すジフトの瞳に、緑の炎をシュウは幻視した。