第二十九話 埋葬された陰謀 前編
白んだ空が、朝日によって染まる。薔薇色の光線を浴びて蛋白石のように輝く機械宮の外壁。その一端、両開き窓に小さな迫り出しまでついた部屋。そこから見える広い寝台に、キアラはその身を横たえていた。
幾何学模様の色硝子を組み合わせて作られた窓が、光によって純白のシーツの上に斑を描く。目元に朝日が差しても身じろぎ一つしないキアラの耳に、木製の扉を控えめに叩く音が聞こえた。扉の向こうの相手は返事が来ることを少しだけ待ったが、応じる様子がないとみるとそのまま部屋に入ってきた。キアラと同じか、わずかに年上の少女。ただしその服装は、機械宮に滞在する子女が身につけるような煌びやかなものでなく、下女のそれであった。
「おはようございます、キアラ様」
見るものもいないのに、少女は律儀に丁寧な礼をした。しかしそれは結果的に吉とでたようだ。シーツの下でキアラが動き、おはよう、と返事が返ってきたのだから。それも、まだ眠そうな寝起きの声でなく、しっかりと覚醒しきった声が。
すぐに身を起こしてこちらを見つめる主人に、まだ寝ているだろうとの予想が外れた少女は驚きを隠せず、一瞬、ほんの一瞬だけ、瞠目して言葉を失った。けれどその表情は風に拭き消されるように顔から消える。脇に抱えた身支度用の小道具を置いて身を屈めると、少女は絨毯に視線を落としたまま尋ねた。
「キアラ様、昨晩はよく眠れましたか」
新しい主人を心配する気持ちが半分、自分の対応が間違っていたのではないかとの不安が半分。思案がない交ぜになった質問に、少女の前でキアラは曖昧に微笑んで答えた。
「ええ、お陰で凍えずに済んだわ。まさかこんなに機械宮の夜が寒いなんて思ってなかった」
どうもありがとう、と、同じくらいの歳のキアラから言われ、少女は顔を上げた。そこには、安堵と困惑の表情が浮かんでいる。前者は自分の対応が正しかったことに対するもの、後者は何故新しい主人がわざわざ自分なんかにあらたまった礼を言うのだろうという疑問。主人が寒いのなら暖を取らせ、暑いのなら涼を取らす。下女として当然のことをしたまでだ。特に昨日は始めて仕えた日だったから、寒がっているのに気付かず、言われて初めて暖房具を用意したというのに。どちらかというと、お叱りを受けて然るべきだ。少女はそう思っていた。実際、機械宮に上がって最初の頃は、似たようなことをしでかしてよく窘められていたのだし。そこまで考えて、少女は脇に置いた沐浴用の道具一式を思い出した。慌てて立ち上がり、幸いにも自分と同じ様に何か物思いに耽っていたキアラに近づく。
「失礼しました。キアラ様、ただいま朝食の支度をしておりますので、湯浴みを――」
呼ばれたキアラもはっとして、頷く。どうやら今度も失態は見逃されたようだ、と、心中安堵の溜息をつくと、少女はキアラの服に手をかけた。
大人しくされるがままのキアラは、また何か考え込んでいる。
――やっぱり、どうもありがとうって言ったの、変に思われたかな?
キアラはキアラで、少女に対する接し方が手探りの状態だった。何しろ今まで下女に仕えられるなんてことなかったからだ。一応、キアラの父は公爵仕えの名の知れた学者だったのだが、その居を構えた場所は、母の研究のため都の郊外だった。だからキアラはたまの晩餐会に父母と共に出席するとき以外機械宮に来たことがないし、母は家のことは全部自分でする珍しい人間だったため、乳母や召使に類する人々に接するときの暗黙の了解が、よく分かっていなかった。今までは公爵に情報を売りにくるときだけ、少しの会話で済んでいたから特に困ることも無かったが、これからはどうしようか。
思考を巡らせるものの、あまりいい考えも浮かばない。少女が背中側に回ったのを見計らって、キアラは小さな欠伸を一つした。寝不足で頭の中に蜘蛛の巣でも張っているような気分だ。本当なら少しでも英気を養うためにしっかり眠るべきだ。そう分かってはいたものの、どうしても眠れなかった。少女には、機械宮の夜が寒いなんて言い訳をしたが、本当は――
「キアラ様、もしかしてお湯加減が熱うごさいましたか?」
キアラの耳に朱が差したのを見て、少女がおどおどと声をかけた。びくりと肩が痙攣し、後頭部が横に揺れている。
「い、いいえ。ちょうどいい加減よ」
為すがまま清拭されているキアラのうなじが、耳と同じように赤くなっている。ふるふると震える様は、何がしか我慢しているようにしか受け取れない。少女は怪訝そうな顔でそれをみると、湯に濡らした布をこっそりと空中で冷ました。別に熱いなら熱いと言ってくれたほうがいいのに、なんて思いながら。
急に声を掛けられたキアラの方は、真っ赤になった顔をなんとかして元に戻そうと、でも少女には気付かれないように、飽くまで平静を装おうと、必死で小刻みに震えていた。
なぜなら、昨日眠れなかった原因が、ジフトと一緒じゃなくて寂しかったから、そして一人で寝るのが怖かったからだなんて、恥ずかしすぎて誰にも言えないと思ったからだ。いや、一度は寝付けたものの、隣に誰もいない寝台は、暖かいはずなのに冷たくて、快適なはずなのに不快で、おまけに悪夢を見て起きてしまったから。
とても、とても怖い夢だった。
キアラの長い睫毛が伏せる。瞳は記憶の中を彷徨う。
大戦中、そしてそれから暫く、幾度も苦しめられたあの悪夢。まさかまた見ることになるなんて、と。
それは孤独な夢だった。白亜の家で、開け放たれた玄関の前で、背を向けて遠のいていく両親を必死に追いかける夢。空は夜なのに茜色に焼け、焦土の臭いが鼻をつく。走っても走っても父母には追いつけず、どれだけ泣き叫んでも、父も母も、振り返ってはくれない。置いていかないで、一人にしないで。何度声を枯らしたことか。涙に枕を濡らしたことか。
あの恐ろしい夢を見る度、汗だくで飛び起きるたびに、側にはジフトが居てくれた。震えが止まらない肩を抱いて、母がよく歌っていた子守唄を口ずさんで。その暖かさに包まれて、元気付けようとする笑顔を見たから、絶望せずに生きれた。……そしてそれ以上に、ジフトに依存してしまっていた。
実は昨日の夜、キアラが最も恐怖を感じたのは、悪夢を見ている間ではなかった。飛び起きたとき、隣にジフトがいないと思い出したその瞬間。今まで感じたことのない寒気を覚えたのだ。
その時のことを思い出して、キアラは頬を染めたまま目を伏せ自嘲した。何がジフトのことが好き、だ。恋だ。今の自分には、ジフトに告白する資格すらない。ジフトに甘えて、頼りきって、さらに相手からの好意まで求めるなんて、どこまで恥知らずで欲深いんだろう、と。成長して、自分以外のことを考える余裕ができたからこそ分かる。キアラが悪夢に震えている間、ジフトだって不安を感じていたはずだ。ジフト一人なら何処へでも行けたのを、足手纏いのキアラを抱えて戦火の中右往左往したのは、どれほど心細かっただろう。なのに、ジフトはキアラを慰めてずっと助けてくれていたのだ。
今の状況だって、結局、立場は変わっていない。キアラがジフトのために、と、一人よがりで始めたことが原因で、ジフトを縛ってしまっている。廊下での公爵との話を聞いて、それが分かってしまった。
きゅう、と、胸の前で組んだ手に力がこもる。
足手纏いになりたいんじゃない。ジフトが自分を守ってくれたように、わたしもジフトの力になりたい。
切なる想いは確固たるものの、ではそれを実行するには。どうすればいいのか、まだ分からない。ただ、布石だけは打っておいたけれど。
ちらり、と、視線が寝台脇の机の抽斗に向かう。簡易な鍵つきのそれの中には、片方だけの投げずに取っておいた手袋。
――はやく、あれをジフトに渡さなくっちゃ。
今度はぶるりと震えるキアラの背中を見て、少女は温度を下げすぎたかと反省した。
機械宮の端、外壁の内側を植樹が疎らに並ぶ土地。幾つかある切り株と、そのすぐ側に整然と立つかかしの群れが、ここは華より武を尊ぶ場所だと主張している。沢山の足跡で踏み荒らされた訓練場を、ジフト達は通り過ぎた。目指す先には、鬱蒼と茂る林。高く伸びた梢の中に、ちらちらと何かが光を反射している。やがて全貌が見え始めた建物の前で、先を行くシュウの足が止まった。緩やかに速度を落とし、ジフトが数歩後方で立ち止まる。
「――ここが、シュウが俺に見せたかった場所?」
鋭い朝の陽射しを浴びても尚、古ぼけた印象が拭えない六角形の建物。それを上から下まで眺め、ジフトは疑問を口にした。
きらきら輝く、幾重にも重なって回転する金属の輪の飾り。屋根の頂点に、その目は釘付けになっている。機械宮の塔の先端についていた飾りと同じだ、と、胸中思い返す。黒髪が揺れて、シュウが頷くのが見えた。
「そう。……この中に」
ざらついた地面を歩き、シュウの手が扉に触れる。機械宮のそれと同じで、金属製の扉だ。しかしそれは、城の扉と違って、人の力のみで開けなければならないようだった。シュウの肩と同じ高さに付けられた仰々しい黄金輪の取手と、武骨にも程がある巨大な蝶番。それら二つが、雄弁に物語っていた。この中に、と、シュウが黒い眉を寄せて言い淀む。王国が封じた過去がある、と。
「――そして多分、きみの秘密も」
シュウの指が金の取手の縁をなぞる。重力に任せて落ちた指先を追うように、空色の瞳は視線を伏せた。もう片方の手は、拳を握っている。僅かに震えているのが、ジフトの目に映った。それは恐怖が原因なのか、それとも武者震いの類いなのか。ごくり、と、ジフトの喉が鳴る。
ここに辿り着くまで、あれほど不平不満をぶちまけて騒いでいたバートが、今はその口を閉ざしていた。灼けつくように真っ直ぐな視線を背中に感じつつ、ジフトは緩く息を吐く。おそらく、と、頭中でジフトは独りごちた。この場所が、ここに眠る何かが、今度こそ逃げ場の無い真実を自分に告げるだろう、と。空賊であるバートが一心不乱に情報を得ようと建物を凝視していることから、シュウのもたらす情報が確かなものだと信じられる。
実は、ジフトは今朝、ある実験をしていた。バートの眼帯の下の『眼』が、どんな力を持っているか確かめるための実験を。
昨日、廊下の角から公爵がやってくる前から、バートには誰が近付いてきているのかが分かっているような節があった。あの時は、地下の迷宮から逃げだした時と違って、変な呪文も唱えていなかったし、青い光も出ていなかった。それなのに誰が来るか分かったのは、もしかしたら、通常でも物体を見透す力があるのだからかもしれない、と考えたのだ。その仮説が真実かどうか確かめるため、今朝はわざと寝たふりをしていた。バートが、扉を透して相手を見ることができるかを観察するために。
結果は、仮説を真に漸近させた。
最初の、扉を叩いただけの段階で、バートは相手がシュウだと、もしくはそれぐらいの身長の者だと看破していた。険しい表情で睨む視線は、大人を相手にするよりずっと低い位置に向けられていたからだ。
ただ、もう一つの仮説、ものすごく耳が良いからノックの音が聞こえた位置に目を向けただけ、というのも捨てることができなかったのだが……。それは今、バート自身が行動で否定していた。
半歩後退して身を捩ったジフトの目線の端。そこに見える空賊の青年は、建物全体余すところなく視線を索走させていた。建物だけでない、その下の基礎の部分にも眼を向けている。これはやはり、視認によって情報を得ていると判断していいだろう。聴覚でなら、そんなことしなくてもいいはずだ。ジフトに対して偽装するつもりでなら話は別だが、今のところバートはジフトやシュウに対して警戒が薄い。ジフトがこっそり実験観察してるのにも気付いてないのが正直なところである。哀しいかな、これも慢心の為せるわざだった。
眼の端に捉えたバートから、ジフトは地面へと視線を落とした。ざらつく土の上に、固まった足跡が三組、行きと帰り分刻まれている。そのうちの二組は、虚の間でみたもの。つまり、公爵と誰か大柄な男性。もう一つは判断に苦しむところだ。年老いた男性か、足の大きな女性か。男物の靴を履いてるくせに、歩幅が小さすぎる。先の方が足跡が深くなっているから、かなり前傾姿勢の人物だろう。とすると、やはり老人だろうか。そして、こんなにくっきりと足跡がつくのは、土が湿っている時だけ。つまり、夜、霧が東の山脈から降りてくる時ぐらいのものだ。
焦げ茶の瞳が、建物付近に並ぶ篝火の台に向けられる。燃えさしはまだ灰が形を保っていて、新しい。やはりこの足跡は夜付けられたもの。恐らく、昨日か。
目の下に薄く皺を寄せると、ジフトは視線を扉へ戻した。シュウ、と、その口が名を呼ぶ。
「『虚の間』で見たこと、覚えてるか?」
「……?」
疑問符を浮かべた空色の瞳が、焦げ茶のそれとかち合う。両手を広げ、ジフトは虚の間で見たことを整理する。
「二組の足跡、操作盤に掛かっていた真新しい布――『虚の間』には、俺達より先に公爵が来てた痕跡があった」
広げた右手を胸の前で握りしめる。手袋の擦れる音。陽光を反射する甲の赤石。あの時は、と、乾燥して割れた唇から独白が漏れる。
「『虚の間』に行った時、俺は、自分の意思で動いてると思ってた。……でも違った。知らないうちに、公爵の張った見えない糸の上を歩かされてたんだ」
記憶を辿る中空で留まった眼。こめかみを、つうと冷や汗が伝う。
ジフト、と、シュウが心配そうに声をかけた。緩く頭を振ると、ジフトは再び自分を見つめる空色の瞳を凝視した。
「ここにも、誰か来た証拠がいくつか残ってる」
眉尻を下げていたシュウが、息を呑んだ。言わんとする所を察し、けれど言葉を促すように沈黙するシュウ。その前で、ジフトは広げた両手を下ろし、拳を握った。きらきらと、公爵から渡された手袋の飾りが動くたび光を反射する。
「――多分、俺は、また公爵の張った糸の上を歩いてる」
巻き込んでごめんって、あの時馬車で言ってくれたけど、と。過去にシュウの放った言葉を復唱しつつ、ジフトが唇を噛み締める。謝るのは、俺のほうだ、と。
「ごめん――」
垂れる頭を前に、黙するシュウの眉が少し寄った。謝るジフトから眼を逸らし、空色の瞳は思案に揺れる。数瞬もしないうち、小さな溜息とともに、呆れた声音が聞こえた。
「……そんな事考えてたのか……」
まるで何でもないとでもいうように。微笑さえ浮かべて、やれやれと首を振っている。その反応に、ジフトはいささか面食らった。そんな事って、おまえ――と、困惑した表情で後頭部を掻く。その耳に、もう一度、今度は苛立ちも混じった溜息が。
「まったく……ジフト、まさかきみ、自分だけがセシル公爵の駒として選ばれたと思ってないよね?」
「えっ?」
衝撃の告白に、思わずジフトは蛙が潰されたような情けない声を上げた。握った拳の内に、どっと嫌な汗がわく。まさか、既に公爵はシュウも取り込んでいたというのか。
自分が契約する時に受けた一方的な交渉を思い出し、シュウはいったい何を質に取られたのか、と、ジフトの胸に苦い感情が広がった。じゃあ、おまえも、と呟くジフトへ、肩をいからせシュウが近付く。
「そーだよ! きみの補佐だってさ。このぼくが!」
「えっ」
弱ったところも困った様子も見せないシュウの言葉に、ジフトは再び予想を裏切られた声を出した。真っ直ぐこちらを見つめる瞳は、快晴の空が如く曇りない。――いや、ほんの少し感情が見える。もどかしさと、極々僅かな嫉妬が。
いったい公爵はシュウにどんな取引を持ちかけたのか、混乱するジフトの鼻先に人差し指が突きつけられた。だから、と、シュウが一際大きく息を吸い込む。
「ぼくたちの立場は平等になったんだよ!」
もはや隠密などという単語はシュウの頭から抜け落ちてしまったらしく、よく通る声が空間を貫く。ぱたぱたと、遠くで小鳥が飛び立つ音がした。突きつけられた指先を見つめ、ジフトが目を瞬く。
「そ――そうかぁ?」
そう! と、シュウが力一杯肯定する。
「謝る必要なんて無い! ましてや、全部一人で抱え込もうだなんて、許さないんだからな!」
怒っていた。シュウは何故か完全に怒っていた。貴族の少年達を威嚇していた気迫もかくやの鬼気。たじ、と、覚えずジフトが後退する。
「そ、そうなのかなぁ……」
抱え込もうとしてる? 俺が? と、自分で自分の気持ちが分からなくなるほどには押されている。腕を組んで考え始めるジフトのまえで、納得しろよ! とシュウが腰に手を当てて威嚇形態を取った。じゃないとぼくが恥ずかしいだろ、と。
正直そこまで自分の感情について深く考察していなかったとは言えない、と、ジフトが逃げ腰に愛想笑いを浮かべ頬を掻く。温度差に我に返ったのか、シュウは肩を下げると、ふいと背を向けた。
「でも、きみが今、話してくれた内容には感謝するよ」
黒髪の肩越しに見えるのは、古びた建物。重厚な扉。
おかげで少し冷静になれた。そう、シュウの口が告げる。
「ぼくはきみを助けたいと、自発的にこの場へ来たと思っていたけど――それすらも、セシル公爵の策謀の可能性があるわけだ」
シュウの手が扉に触れる。
「この扉を開けば、きみも引き返せなくなる。……それでも、来てくれるか、ジフト」
沈黙が流れる。青い制服の背中、それが語るのは。
きみも、ということは、既に、シュウは最後まで進む決意を固めているのだ。そしてある程度、その進む道の困難さを見極めているからこそ、迷う気持ちがジフトに選択肢を提示させる。公爵の手の上でどう戦うかの覚悟を、問うている。
「シュウがこの場所に気付いた原因が公爵にあるなら、もうこれは、偶然じゃない。よな――」
「……そうだね」
金環を握りしめるシュウの手に力が入った。その表情は、背後からは窺い知れない。
それならもう迷わない。
ジフトの言葉を聞いて、シュウの肩がびくりと震えた。黒髪の頭が下を向いた。
「俺は、進む方を選ぶ」
木々が、風に鳴いた。
独白から断られることも強く予想していたシュウが、断言に驚きながら振り向く。
そこには、確たる意思を宿した瞳があった。さっき言いかけてたことなんだけどさ、と、ジフトの口が紡ぐ。機械を操る手袋が、拳の形に結ぶ。
「これも公爵の張った罠だってんなら、俺は渡りたい。渡って、その先に何があるか確かめたいんだ!」
追い風が吹く中、ジフトは決意表明でもするように声を張り上げた。ぽかんとしているシュウの前で、いくらか語勢を緩め、薄茶色の髪をわしゃわしゃと掻き混ぜる。
「……でも、ただ乗っかるだけじゃ、この間みたいに訳わかんないまま言いなりになるだけだ。俺じゃない『誰か』に、外から見た状況を教えてもらわないと、きっと、公爵が俺にさせたいことは判らない」
だから、と、後頭部を掻きつつ、ジフトの瞳がシュウの様子をうかがう。
「その役目を、シュウに頼みたかったんだけど……だめかな……?」
なんか怒らせちゃったみたいだし、と尻込みしている。シュウは呆けた顔で瞬きした。ジフト――と、名前を呟くその頬が嬉しそうに血色良くなっていく。
「だめなわけない! 喜んで引き受けるよ!」
「そ、そう? よかったぁー」
先程指を突きつけてきた時よりも迫力を増して近付くシュウから、たじたじとジフトは後退りした。その顔に安堵と困惑の色を浮かべて。砂利を踏みしめる足から伸びる影に、自分の背後に立つ人物のそれが重なったのを見て、振り向く。
「あ、それと、バートにも同じこと頼みたいんだけど」
動作にあわせてそう言えば、建物を凝視していた空賊の青年がぴくりと反応した。片方しかない青い目が、研いだばかりの刃物のような冷たい視線を下ろす。あぁ? と、高い身長から、地獄の底から聞こえるが如し低音が出た。
「おいガキ、寝ぼけたこと言ってんじゃねーぞ。何で俺が見返りも報酬も無しに、おまえに頼まれ事をされにゃいかんのだ? ええ?」
あれだけ建物の方に集中していたのに、しっかり話は聴いていたらしい。あわよくば急に話を振って曖昧な肯定を言質に取ろうと思っていたジフトは、軽く首を竦めた。
苛々と拳銃嚢を指先で軽く拍を取るように叩くバート。金髪の下の青い隻眼を、ジフトは眉一つ動かさずじっと観察した。
「見返りなら、じゅうぶんあると思うけど」
黒い手袋をはめた指が、止まる。なんだと? と、さも不愉快そうに目下に皺を寄せ聞き返された。身長で威圧してくるバートの前で、ジフトが大きく息を吸う。朝の空気は、まだ霧のにおいが残っていた。ゆっくりと、はっきりと、その単語を口にする。
「――ブレイブハート」
一つしかない目が、見開かれた。バートの表情が、しょうがなく護衛を任された者から、求めるものを手に入れようと全霊を尽くす狩人のそれへと変化していく。先を促す視線を浴びつつ、ジフトは焦らすように間を取って口を開く。
「『双頭の黄金竜』が探してる物、シュウが探してる王国の秘宝。それって多分――どっちも同じ物だよな」
背後でシュウが息を呑み、前方ではバートが苦虫を噛み潰したような顔をした。苦しそうな呻き声に続いて、違う、と言いかけ、その言葉を飲み込んで舌打ちする。ぐいと外方を向いて視線を泳がせるバートの口角は犬歯が見えるほど下がっていた。白い肌の上を、冷や汗が吹き出て玉を作っている。
そうだったんだ、と素直に驚くシュウの独り言に、バートの首筋を伝う冷や汗が増えた。飽くまでも無言を貫いているにも関わらず肯定も同然の、その激烈な反応。過程がまたしても正しかったとジフトは確信した。貝のように頑なに口と目を閉じて腕組みしたまま動かないバート、そして興味深々で聴き入るシュウへ、さらに続ける。
「あの光る壁と俺が契約した時、何でそれができたか、バートにも解ってなかった。つまり『双頭の黄金竜』は、宝を手に入れる方法は知ってるけど、理屈を全て解っているわけじゃない……」
「……」
シュウが相槌打ちながら聴いているのに対し、バートは薄目を開けてジフトを見下ろすだけだ。しかし、そのこめかみはまだ暑くもないのに相変わらず汗をかいている。沈黙の後、理屈なんか解ってなくてもいいんだよ、と、自棄気味な声が聞こえた。金属音とともに、バートが回転銃を抜く。ぎょっとするシュウの前に、咄嗟に片手を広げるジフト。しかし空賊の青年は気怠そうに首を回すだけで、銃を構えもしない。それどころか、透明な陽光の下で、青い躯体がよく見えるように銃を掲げた。
「おまえら、何か道具使う時にいちいちそれがどーいう理屈で動いてるか考えるか? 考えねーだろ? 弾詰めて照準合わせて引き金ひいてズドン。最低限、これだけ知ってりゃ銃は使える。撃鉄が雷管叩いてその爆発力が筒によって方向を固定されて、それも真っ直ぐ飛ばすにゃ筒ん中に螺旋を掘ってどーのこーの、撃つ時気にするか? そんなこと考えてたら死ぬだろ。そして、そんなこと知らなくても銃は使える」
流暢に一息で喋ると、バートは酒焼けした喉を鳴らした。それと同じなんだよ、と、眉間に不機嫌の皺を刻んで吐き捨てる。
「ブレイブハートへの道順さえ知ってりゃそれでいいんだよ。過程をなぞりさえすれば辿り着けるんだから、理屈なんて知ったこっちゃねーよ!」
要するに開き直りだった。だからこの話は終わり、おまえが俺に切れる札は無効、そう言って会話を打ちきろうとする。確かに、と納得しかけるシュウの横で、ジフトは不敵に笑った。
「でも『意思を持つ壁』と契約したのは俺だけど?」
ぐ、と、蛙を潰したような声がバートから出る。道程から外れたはずなのに、何故か脇道にそれたまま続いてしまった探訪の旅。すい、と、白い手袋をしたジフトの人差し指が立つ。
「どうして俺があの壁と契約できたか、その理由を一緒に確かめる。理屈を知れば、もっと効率いい『使い方』も見えてくるかもしれないぜ」
それが見返り、と、円い焦げ茶の目がにんまりと笑う。
不愉快極まりないといった表情で眼を伏せているバート。金の睫毛の下で、青い瞳が小刻みに揺れている。ジフトの提案を飲んで情報を集めるか、単独で行動するか、どちらがより益を齎すか、計算している。逡巡の後、舌打ちが聞こえた。
「わかったよ。ただし俺は、俺と『双頭の黄金竜』の利益になる事にしか協力しねーからな」
悔しげに言い捨てた言葉に、ジフトがぐっと拳を突き上げる。
「へへっ、やりぃ!」
「てめぇ、俺様が都を発つとき覚悟しとけよ……」
淀んだ眼で見据えて年下を脅すが、当の本人が全く怖がっていない。
「あ。ねえ、ジフト。待って」
扉に手をかけるジフトを、シュウが呼び止めた。首を傾げるその肩越しに、シュウが腑に落ちないという顔で立っている。
「こいつが空賊なのはこの際置いておくとして、どうしてもう一人に状況を見守るのを頼む必要があるの?」
当然のようにこいつ呼ばわりするシュウをバートが口角下げて睨む。シュウ自身は、問いかけた相手にむけてひたむきな疑問の視線をぶつけていた。ぼく一人じゃダメなの? という無言の圧力という暗い眼差しを受けて、ジフトが言い淀む。
「えーと、それは……」
それはシュウとバートが、全然違う立場と考え方だからだな、と。返答に、今度はシュウが首を傾げた。
手招きするジフトのもとへ、シュウが近付く。ここで待ってて、と言われ、待機するシュウ、そしてバートの間に、ジフトが位置取る。
「ほら、今が二人の立場だとして――」
ちょうど両者の中点に立つジフトが、前後の二人に交互に顔を向ける。
「間にいる『俺』は、自分で自分の姿を見ることはできない。でも、シュウからは正面から見た俺の姿が。バートからは後ろから見た姿が見えてる」
それぞれが結ぶ像のつもりなのか、前後に腕を広げ、手のひらをみせると、ジフトはそれを胸の前で合わせた。
「二人が見てる俺の様子を教えてもらうことで、俺は、より実際に他人から見えてる『俺』の姿を知れるってこと」
後ろからは見えない説明を聞いて、バートが鼻を鳴らす。
「多面的客観視か。……随分単純で楽観的なモデルに落とし込んだ説明だが」
現実がそう上手くいくんなら苦労しないぜ、と、ぶつぶつ呟いている。母国語でぼやくバートに、ジフトが不思議そうな眼を向ける。胸までしかない身長の少年を見下ろすと、バートはほくそ笑んだ。乾燥した唇の上を舌が舐める。
この考え方が機能するには、協力者が正しい情報を教えてくれるってのが大前提だが、俺がそれを言う義理なんざ無えな、と。
先程の仕返しのつもりでそう考えているバートの耳に、ちょっと待って、と、またしてもジフトを止める声が聞こえた。
「どうした? シュウ」
「ごめん、その発想はいいと思うけど……。それなら、任せる相手は信頼できる人にしないと」
油断も隙もありすぎるジフトの背中越しに、シュウが苦言を呈する様が見える。
「悪い奴がいつも本当の事を教えてくれるとは限らない。嘘が混じってたら、それは実像から歪められたものしか得られないよ」
悪い奴、のところで、完全にシュウとバートの眼が合った。思わず目を逸らしわざとらしく晴天の中に雲を探す。挙動不審なバートを背に、ジフトは気楽に構えを崩さない。
「ああ、それなら大丈夫」
「大丈夫って、ジフト……」
心配して言ってるのに、と口を尖らせるシュウに、ジフトは片目を瞑ってにやりと笑う。
「だって俺もう――バートが嘘つくときの癖、わかったから」
ジフトの後ろで空気がざわつく。声こそあげなかったものの、そこではバートが目を白黒させて焦っていた。だからへーきへーき、と、ジフトはわざとらしく明るく笑って扉前まで歩く。
「ほら、早く中に入ろうぜ」
「……うん」
頭の後ろで腕を組んで呑気な調子のジフト。対するシュウは、不安の混じった複雑そうな表情で鍵を取り出した。頭部に赤い石が嵌め込まれた、棒状の鍵だ。白銀の輝きを帯びた鍵は、すんなりと扉を開いた。見た目に反して手入れが行き届いているらしく、軋むこともなく重厚な入り口は開かれる。そこへ踏み入れたジフトは、円い目をさらに円くして内部を見渡した。
真っ暗かと予想していた建物の中は、外からは見えなかった天窓から注ぐ陽光で照らされていた。六本の光の柱が、中身のいない全身甲冑や、大きな旗が並ぶなかに刺さっているようだ。衛兵よろしく扉から伸びる絨毯の脇を固める全身甲冑の列。整列したそれらが暗い覗き穴を向けて立っているのを見て、ジフトは生唾をのんだ。思わず後ろを振り返り、シュウの様子を伺う。
意外なことに、シュウは冷静な様子で入ってきた。その手にはいつの間に用意したのか、小さな灯りが。
雰囲気に圧倒されているジフトを抜いて、シュウは先へ進んでいく。はっとしてその後ろを慌ててついていくジフト。さらにその後ろに、顔色失いかけのバートが無言でついていく。
「……すごい量の鎧と武器だな」
「そうだね。表向きは、公爵家の戦功記念館ってことになってるから」
最近のでは武闘会の優勝旗や盾も、たくさんあるよ、と、灯りを掲げてシュウが示す。確かにそこには、ジフトも噂に聞いたことのある大会の盾や旗があった。その一角に、あの幾何学模様の盤と駒を使う遊戯の優勝杯も連なっていた。奥へ行くほど年代が遡るのか、鎧も武器も古びていく。
沈黙したまま進む一行のしんがりで、バートは先行する二人に気取られぬよう必死で思案を巡らせていた。くそ、と、胸中で悪態をつく。嘘をつくときの癖だと、と。うかつにものも言えない、と歯噛みするバートを、ジフトは肩越しに見ていた。
――考えてる考えてる。
うまく術中に嵌ったと、にやつきたいのを抑えて、視線を正面に戻す。
――癖がわかってるなんて、それ自体が大嘘なんだけどな。
鎧が導く道を見据える瞳からは、人懐こい表情は消えて策を巡らす鋭光が見える。
そもそも、と、頭の中でもう一度観察の結果を組み立てる。今のところ、バートは自分達をからかいこそすれど、嘘を言ってはいない。先程の、王国の秘宝と空賊の求める宝についても、違うと言いかけたのに結局言わなかった。もっとも、その前の反応で、いくら否定しようが嘘だとばればれの状況だったといえば元も子もないが。それにしてももう少しはぐらかしようはあったと思うのだけれど……。
多分、バートは嘘をつくのが苦手なんだろう、と、これまでの様子から推測される。そして今、鎌をかけたことで一層嘘をつきにくくなった。
これでいい、と、ジフトは左手の拳を握り締める。もしバートが偽の情報を言っても、その言動の不自然さから見破ることができる、と。
握りしめた手を開くと、白い手袋の掌が見えた。何の繊維でできているのか、美しいが違和感を拭えない奇妙な光沢のある手袋。それに包まれた己の手を見つめ、ジフトは昨夜寝台の中でした決意をもう一度思い起こす。
組合を抜ける対価を求める『短剣』から、キアラを守る。そのためには一時安全な場所を提供してくれる公爵のもとにキアラを預ける、と。
――でも、公爵の捨て駒にされるのはごめんだ。
ジフト自身はもちろん、キアラは絶対に、捨て駒になんかさせない。しかし、身を守るには、今の自分では貧弱すぎる。知も、力も、ジフトが対峙するものたちの足元にも及ばない。
――俺は俺を知りたい。そして、もっと、もっと強く――そのためなら――
光と影が交互に掠めていく掌。それを見つめる伏せた瞳は、厚い前髪に覆われ光が届かない。焦げ茶のはずのその目は、瞳孔の内側から濁った色が覗いていた。
前方を歩くシュウが、足を止める。館の最奥、それまで整然と並んでいた鎧が、そこだけ拓けていた。どれだけ古いものなのか、色褪せた巨大な旗が、分厚い壁を隠すように、天井から吊り下げられている。ただ金糸銀糸だけが、時に侵されることなく陽光を受けて輝いていた。頭上から降り注ぐ、光の柱の中。白銀の碑に手を触れると、シュウがこちらを振り返る。金属の碑が、蠢くようにその表面に光を走らせた。