第二十七話 視る者、示す者
空が白み、機械宮の屋根に集う小鳥の鳴き声が聞こえ始める頃。ジフトが眠っている部屋の隣で、空賊の青年バートは窓から吹き込む微風で涼んでいた。床に座り込み、背中は壁に預けて、開いている扉の向こうに見える寝台が見える位置に陣取っている。昨晩、ジフトと挨拶を交わした位置と、全く変わらない。視線の先では、白いシーツの下で監視対象が静かに寝息を立てている。
何度か仮眠をとりながらの見張りも、そろそろ終わりか。そう思いつつ、最後の一眠りでもしようと閉じた瞼は、突然のノックに眠りを妨げられた。
「誰だ」
すぐさま身を起こし、閉ざされたままの扉を睨めつける。扉の向こうで、小さな影が息を呑んだ。そうか……、と、鉄の板を通して独り言が聞こえる。
「おまえもここに居たんだったな。空賊」
小さな影が偉ぶって手を腰に当てる。
「――扉を開けろ。ぼくはジフトに話があるんだ」
どうやら相手は青地に白い制服を着ていたあの少年、シュウのようだ。一昨日の怯えぶりが嘘のように、精一杯威厳があるように振舞っている。普通の相手には見えないはずの、扉の向こうで。
命令されて、バートはにやつきながら腕を組む。
「ほぉー、クソガキがもう一匹来やがったな」
実を言うと、バートはこの部屋の鍵を開閉出来ない。当然のことだが、その権限は与えられていないからだ。そのせいで、昨夜はジフトが帰ってくるまで外出もままならなかった。一旦部屋を出たら最後、締め出しを食らってしまうからである。しかしジフトはさっぱり帰ってこないし、やっと帰ってきたと思ったらあの様子だ。少しでも情報を得たいと願うバートにとって、苛立ちを覚えるには充分な境遇だった。
どうせ自分の意思で開錠出来ないのだし、この少年をからかって気を紛らわせよう、と、意地の悪い口を開く。ついでに何の用か聞き出せたら儲け物だ、とも。
「残念だったなァ、ガキはまだ夢ん中だぜ。用件を聞かせてもらおうか――」
「いや起きてるぞ」
思わず振り返った。
いつの間に起床したのか、ジフトがいそいそと手袋を装着している。開錠! と、手袋を翳し宣言すると、扉がするすると開いた。嬉しそうにシュウが飛び込んでくる。
「おはよう、ジフト。準備はできてる?」
空気か何かの如く当然にバートの横を通り過ぎ、シュウが尋ねる。ちらりと目だけで背後を見ると、ジフトが首肯した。
「おう。公爵はもう出掛けたの?」
耳に入った単語に、身体が反応した。それと同時に、シュウがあたふたと取り乱す。なるほど……、と、バートは二人の間に割って確認することにした。
「今朝は、公爵様は不在ってわけか」
「え、あっ、ち、ちが――あーもう! ジフトぉ!」
答えなど聞かなくても肯定したも同然のこれである。情けない顔でジフトを責めるシュウを見て、久方ぶりに溜飲が下がったとバートは喉を鳴らした。腕を組んだまま壁に寄りかかり、少年二人を身長で見下す。
「それじゃ、今日は自由に行動させてもらうとするか」
ガキ二人が出掛けてる間、機械宮の深部を探索しよう、と。取り敢えずジフトが帰ってくる時間さえ聞き出せれば、部屋には入れるだろうと踏んでの考えだ。もちろん煽るつもりで言った台詞に、面白いようにシュウが食いついてくる。
「ふ、ふざけるな! セシル公爵がいなくても、おまえには監視がついてるんだからな!」
「ほぉーう、どんな監視だ?」
眉を上げてにやつき尋ねる。答えかけて、ぐぐ、と、シュウは言葉を飲み込んだ。言うもんか、と、悔しそうに口を尖らせている。勢いに乗って口を滑らせないほどには、まだ冷静らしい。惜しかったと胸中で舌打ちする空賊の青年の耳に、ジフトの声が入る。
「バートも一緒に来るんだぞ」
がく、と膝が砕けた。
「んだとぉ?」
そそくさと体勢を立て直して凄むバートの隣では、シュウも驚きの声を上げて冷や汗をかいている。一瞬青と空色の目が視線をぶつけ合い、バートとシュウそれぞれが口を開いた。
「ジフト! ぼくは反対だ。空賊と行動するなんて、いつ裏切られるかわからないよ!」
「けっ、こっちから願い下げだぜ。子守りに来てんじゃねーんだよ、誰が行くかっつーんだ。当然別行動、決まってんだろ!」
口々に否定の言葉を吐く二人を、ジフトは頭上で腕を組んで、馬耳東風といった態度で聞き流している。ふーん、と、気の抜けた相槌を返すと、薄茶色の髪の下で裏のある笑顔を浮かべてみせた。
「そっかぁ、残念だなー。シュウとバート、二人の持ってる情報があれば、王国の秘宝について分かるかもしれないのになぁー」
わざとらしくそっぽを向いて残念がるジフト。その言葉を聞いて、シュウとバートに電流が走った。
「ちょ、ちょっと待ってジフト」
「てめぇ何に気付いた? さっさと言いやがれ!」
我先にとジフトに詰め寄ろうとして揉みくちゃになる。当のジフトはというと、俺には関係無いからいいけど、なんて背を向けて戯言をのたまって、さらに二人の反応を観察している。肩越しに、焦げ茶の瞳が楽しそうに細まった。勝利を確信した笑みである。
「――――っ」
「うぅ……」
互いに牽制しあいながら、シュウとバートが声にならない呻きをあげた。わかったよ、とのシュウのあとに、バートの舌打ちの音。
「一緒に行けばいいんだろ!」
ほぼ同時に言い放ったヤケクソ気味の声が、朝の廊下にはよく響いた。
機械宮の一階。眩しく光を反射する曲がり角から、ひょこりと黒髪が覗く。続いて空色の目が現れ、注意深く辺りの様子をうかがった。顔が引っ込み、背後に続くジフトたちに声がかけられる。
「よし大丈夫、見張りはいないよ!」
すごく達成感に満たされた表情できらきらした笑顔を向けてくるシュウに、ジフトがなんともいえない相槌を返す。『ひょっとしたら』見張りがいる『かもしれない』とのことで、ここまでシュウを先頭にして、角に来るたびこれを繰り返してきたのだ。今のところ、見張りはおろか侍女下男の類いともすれ違わないありさまである。ただ雰囲気を味わってみたかったのだろうな、と、なんとなく察せられた。財宝のことと言い、どうにもシュウは冒険に目が無いようだ。
それでも昨日の重苦しい空気よりはマシか、と、強張っていた身体が解れる。それとは反対に、しんがりを務めるバートは先程から不満たらたらだった。
「あー、ったく、何時つくんだよ? あとどれくらいだ!」
「訓練場の裏を通ればもうすぐだよ、ジフト」
浮き足立った調子で振り向きながらシュウが答える。その後ろを、頭上で腕を組みながら、ずるずる爪先を引きずってジフトが歩く。
「あぁー、そうかぁー」
「おい! 訊いてんのは俺様だぞ!」
部屋を出発してからここに至るまで、ずっとこの調子である。シュウとバートの間をのらくら歩くジフトが、堪えきれずに大きく欠伸した。その顔はすっかり弛緩している。そんな様子は気にも留めないで、ほらほらこっち、とジフトを見たままシュウが駆けた。もともと開いていた三人の距離がさらに開く。すぐ先には、また曲がり角が。
左折して前方を確認しようとした瞬間、シュウの身体に衝撃が走り、視界が揺れた。転びかけるのを反射で踏み止まる。
「いたっ――あ、ごめんなさい。ぼくの不注意で……」
誰かと衝突してしまったのだろうと、シュウが頭を下げかけ、息を呑んだ。すまなさそうに寄せた眉が、その眉尻を下げていく。見開かれた空色の瞳に映るは、突き飛ばすために伸ばされた手と、自分を見下す冷たい視線。
剣の訓練を終えた貴族の少年達が、シュウの前に立ち塞がっていた。
気をつけろ、と、シュウを突き飛ばした一際体格の良い少年が顔をしかめる。
「ふらふらと道の中央を歩いて、鬱陶しいな。新調した鎧が汚れたらどうしてくれるんだ」
見れば、確かに少年は真新しい真鍮の鎧を身にまとっている。しかし訓練を終えたあとのそれは、既に幾つか掻き傷や砂埃がついていた。くすくすと、意地の悪い忍笑いが後ろに控える集団から聞こえてくる。
「う、あ……悪かったよ。謝るってば……」
交差路から壁側に後退りして俯くシュウを、少年とその取り巻きが包囲する。死角に入ってしまったから、まだジフト達は気付いていない。
「なんだ? その口のききかたは」
生意気な奴、と少年が吐き捨て、それに追従して幾つかの罵りが浴びせられる。やっぱり蛮族なんて礼儀知らずだな、という言葉に、シュウは唇を噛み締めた。反論せず、耐えてやり過ごそうという態度のシュウを見て、少年の取り巻きの一人が耳打ちする。
「レイ様、東の市の件――」
何か思い出したらしく、もともと敵意に溢れていた少年の視線がより鋭くなった。つ、と、真鍮の鎧を纏う少年がシュウに詰め寄る。
「おまえ、昨日の夕方、東の市でワーブル家の下男を殺したんだってな」
「え――?」
伏せていた目が、思わず少年達へと向いた。
「な、何? その話。ぼくはそんなことしない」
寝耳に水の疑惑を否定するシュウ。しかし少年とその取り巻きは意見など聞く耳も持たない。鎧の少年に耳打ちした取り巻きの一人が、拳を握って叫んだ。
「嘘つけ! 目撃者だってたくさんいるんだぞ」
「黒髪青目の少年――皆口を揃えてそう証言してる。機械の都には珍しい人間だよなぁ。ボクは今までそんな奴一人しか見たことがない」
鎧の少年のすぐ右側で、長髪を後ろで一つに纏めた少年が冷ややかな視線を送った。そうだそうだと、その後ろにいるもの達が囃し立てる。
「そんな――ち、違うよ。だいたいぼくはその時、ジフトと」
「しらばっくれるのもいい加減にしろよ」
弁解しようとするも、途中で遮られる。もう一歩、鎧の少年がシュウに近付いた。体格の差が、鎧でさらに増幅されている。
「昨日の昼、おまえが馬車で東の市の方へ外出するのをこの目でみてるんだからな」
「そうそう。セシル公爵の私兵の後を尾行して行くのをね」
威圧して降伏させようとしてくる少年の後ろで、長髪をなびかせてさらに証言が付け加えられた。
「だから、それは――」
壁に背がつくまで追い詰められて、けれども反論しようとするシュウの声は、また遮られた。そういえば、と、鎧の少年がさらに何か言おうとする。
「この間も、城の中をうろついてたな。しかも貧民街の奴なんか連れて」
少年の追求を聞いて、シュウの眼が曲がり角へ向けられる。丁度ジフトとバートがやってくるところだ。異様な雰囲気の集団に気付いて、ジフトが怪訝そうな視線を送った。
このままだとジフトも弾劾に巻き込まれる、そう思って、シュウは壁伝いに一団をジフトから見えない位置に誘導する。最も近くにいる鎧の少年は動かせなかったが、シュウを糾弾するのに頭がいっぱいで、背後のジフト達には意識が向いていない。ほぅと小さく溜息をつくシュウへ、人差し指が突きつけられた。
「おまえ、もしかして今度は『花と短剣』に情報を売ってるじゃあないか?」
疑惑から発せられた言葉に、少しは冷静だったシュウの顔色が変わった。
そうだ、怪しい、などと、無責任な賛同の声が誰ともなしに出てくる。うまくセシル公爵に取り入って、なんて、嫉妬じみた台詞も聞こえた。俯いて拳を握るシュウへ、長髪の少年が軽蔑の眼差しを投げ付ける。
「長兄がロザリアと繋がって科学省の情報を流したみたいに、今度は機械の都の機密を探ってるんだろ」
沈黙するシュウの肩が、震えた。やっと追いついてきたジフトにも少年達の野次が聞こえ、眉をひそめて歩みを速くする。
「なんだよあいつら……大勢で囲んで好き放題言って」
一言物申そうと駆け足になるジフトを、やめとけ、と、背後からバートが制止する。
「今おまえが出て行っても、火に油を注ぐだけだ」
でも、と、肩を掴まれたジフトが不満そうな眼を返す。あんなの卑怯だしシュウがかわいそうだ、とその手を払い除けようとする。バートが、静かにするよう口の前に人差し指を立てた。
「あれを見ろ」
「――?」
立てた人差し指をそのまま前方へ向ける。それに誘導されて視線を動かすと、シュウが、こちらへ来るなと合図を出していた。あ……、とジフトが困惑の声を漏らす。それでも一応は立ち止まったジフトへ、シュウはさらに目配せした。少年達に気付かれないように。
「――まだ表立っていないが、いずれ証拠が集まって裁きが下るだろう。父兄と同じ獄に入れてもらえるよう、今のうちに、セシル公爵に頼んでおいたらどうだ?」
目配せは、耐えられなくて視線を逸らしたと勘違いされたようだ。鎧の少年は追い討ちの手を緩めない。嫌味を吐く少年の前で、シュウの拳が一層強く、堅くなった。すぅ、と、吸気の音が聞こえる。不可視の気迫に押されて、取り巻きのうちの何人かが後退りした。
よくもそんなふざけた事を、と、俯いたシュウの唇が開く。
「父も長兄も、獄になど入っていない! 王宮審判でその身は潔白と証明されている。謂れなき中傷は撤回してもらおう」
胸に溜めた呼気と共に、はっきりと弁明がなされた。騒がしかった金属の廊下が、一瞬で静まり返る。凛とした反論にたじろぐ少年達の中で、ただ一人鎧の少年だけが腕組みをしてシュウを睨めつけた。ふん、と不愉快そうに鼻を鳴らし、その手が腰に下げた剣へ伸びる。生意気な奴、と、呟く僅かな間。鋼と鞘の擦れ合う音と共に、輝く剣身が構えられた。
「飽くまでも非を認めないのなら、この場で俺が制裁してやる」
朝の日差しを受けて、よく磨かれた剣が光った。
廊下の角からシュウを見守っていたジフトが、円い目を限界まで見開く。飛び出そうとするその肩を、再びバートが引き止めた。
「まだだ!」
瞬時に振り払われた手で、今度は腕を掴んで制止する。掴まれたジフトが焦燥を浮かべた顔をバートに向けて抗議する。
「だって! あれ本物の剣だぞ!」
このままじゃシュウが怪我する、下手したらもっとひどい事になるかも、そう心配したからだ。焦っているジフトに、んなことぁ分かってる、と、バートも苦々しい表情を見せる。
「だからこそ、相手を刺激するなって言ってんだよ」
諭されて、感情で曇っていたジフトの瞳が、はっとした。それでも懸念が抑えられず抵抗するのを、バートが無理矢理押さえ付けている。
そんなことをしている間にも、気迫に負けていた取り巻き達までが剣を構えてシュウににじり寄っていた。武力を得て強気になったのか、一番狼狽していた取り巻きが下衆な笑みを浮かべる。
囲む輪を狭める取り巻き達へ、鎧の少年は苛ついた視線を向けた。
「おまえ達は手を出すな」
へっ? と、耳打ちした取り巻きが素っ頓狂な声を上げる。が、すぐ察したようで、にやけた顔を取り繕い剣を鞘に収めた。
「す、すみません」
それに習い、他の取り巻きも剣を収めていく。鎧の少年の右に立つ長髪の少年も、不服そうに構えを崩した。満足したのか、鎧の少年が横柄な口振りでシュウに命じる。
「剣を抜け。弱者をいたぶる趣味は無い」
言われたシュウは、沈黙したまま真っ直ぐな視線を逸らさない。青地に白線の入った制服は、ぴんと伸びた背筋に沿って綺麗な直線を描いている。その腰に、剣や短剣を下げる鞘は見当たらない。
微動だにしないシュウへ、鎧の少年は焦れた様子もなく挑発を続けた。
「どうした、市で人を斬った短剣があるだろう?」
少年の魂胆は、シュウに武器を構えさせてそれを犯行に使った物と断定することのようだ。
空色の目を眇め、シュウが口端を下げる。
「あいにくだけど、ぼくは公爵の居城で帯剣するほど不躾じゃない」
まして抜刀なんて……、と、心底呆れ果てた声色の言葉。剣を構えた少年が、ぴくりと下瞼を痙攣させた。眉間に深々を皺が寄り、険悪な雰囲気を纏う。少年も、この状況が誰かに見つかれば咎めを受ける類のことをしていると自覚しているようだ。
「ふん、怖気づいたか? 今更逃げようとしても無駄――」
「……だから」
めげずに挑発する言葉は、途中で妨げられた。す、と、シュウの右腕が上がる。左手は背後に、腰を落として敵方に対して半身を取る。
「――ぼくはこの腕一本で相手しよう。きみたちには、それで充分だ」
真直ぐに少年を見据える瞳は、怒りの焔が青く燃えていた。
鎧の少年も、シュウの反発に不愉快そうな表情を浮かべる。二者相睨み、固唾を呑む取り巻きの出すざわざわとした音だけが、辺りの空気を揺らす。互いに視線で牽制したまま。呼吸さえ感じさせないシュウの前で、構えられた剣が筋肉の微細動にあわせて僅かに震える。中線に沿って構えた剣の切っ先が、眉間の真中からほんの少し外れたその時。鎧の少年が床を蹴って駆けた。
「やぁあああ!」
構えを斬撃から刺突に変えて、掛け声と共に突進してくる。床と平行に襲い来る剣身。質量に巻き起こされる風。首を狙って繰り出されるそれを、寸前まで引き付ける。
切っ先が首筋に触れ、鮮血が溢れるはずの一瞬。その一瞬で、シュウの身体は刺突をかわした。剣が跳ね上げられる。主を失った真新しい剣は、くるくると中に舞った。
「な、なぜだ――?」
すれ違いざまに勢いを殺された少年が、驚愕の表情で振り返る。相対した時と変わらず飄と構えるシュウの姿。それを見ると、少年は白目を剥いてその場に倒れた。ほぼ同時に、弾き飛ばされた剣が床に落ちる。取り巻き達が凍りついた。
「レイ様ぁ!」
「おのれ――次はボクだ!」
わあっと情けない声を上げて駆け寄る耳打ちした取り巻きの後ろで、長髪の少年がすらりと剣を抜く。それに勇気付けられたように次々構え出す取り巻き達。
今度は武器を手にした相手に取り囲まれるシュウ。それを廊下から見守るだけのジフトが、冷や汗を滝のように流す。
「あぁあ、どんどん騒ぎが大きくなってる。ヤバいって!」
「で、出るな……俺達の命が危ない」
最早自分一人が出て行った所で加勢にもなりはしないことを分かりつつ、それでも心配で飛び出そうとする。それを押さえつけるバートも、同じくらい冷や汗をかいている。ガキとはいえあれだけの頭に血が昇った武装集団と至近距離でやりあうのは自殺行為だ、と。分析だけはそれらしく冷静である。離せはなせと暴れるジフトがバートの手に噛みつこうとしたその時。
「何をしている」
聞き覚えのある声が、騒がしい廊下に響き渡った。斬りかかる一歩手前まで進んだ長髪の少年の肩がびくつく。恐るおそる振り返るのに同調して、取り巻きの壁が割れる。人集りの向こう側に現れたのは。
「兄様……」
「あ、昨日の人」
東の市裏廃墟にジフト達と同行し、負傷したエオニウスだった。険しい眼差しを、おそらく弟とみられる長髪の少年に向けている。右肩から下がる三角巾。そこに収まる左腕は、しっかりと固定処置をされていた。
怪我してるのに動き回って大丈夫なのかな、と呟くジフト。その隣で、やれやれとバートが安堵の溜息をついた。
「やっと分別ある大人の登場だ」
だったら自分は何なのか、と、思わずバートを見上げる。ジフトが呆れている間に、エオニウスは割れた人垣の中心へつかつかと歩み寄った。
「お前達……恥ずかしくないのか。こんな多勢でたった一人に」
険しい視線をもって諭され、取り巻きが俯く。ごめんなさい、だとか、申し訳ありません、と謝罪の言葉がぼそぼそと聞こえてくる。長髪の少年だけが、剣こそ収めたものの、ふいと顔を背けただけで無言を通した。目を逸らした先には、構えを解くシュウと、気絶した少年に縋る耳打ちした取り巻きの姿。涙目で取り巻きが振り返った。でも、酷いんですよ、と、上擦った声でエオニウスに抗議する。
「レイ様にぶつかってきて、注意したレイ様を気絶させて! 最初に手を出してきたのはあいつの方なんです!」
「えっ?」
全力で言い切った取り巻きに向けて、思わず身体ごと回転してシュウが見開いた目を向けた。空色の目に映るは演技力抜群の嘘泣きである。あまりにも卑怯すぎる想定外の事態に、申し開きもできずシュウは困惑している。
廊下の角から様子を見ていたジフトが、握りしめた拳をわなわなと震わせた。
「もう頭に来た――!」
「よし! 行ってこい!」
押さえていた手が解かれ、どんと背中を叩かれる。そのまま勢い受けて飛び出すと、ジフトは胸いっぱいに吸い込んだ息にのせて糾弾の声を上げた。
「嘘つくなぁ! 最初にそっちがシュウを突き飛ばしたんだろーが!」
突如現れた薄汚い証人を見て、耳打ちした取り巻きが口を開けてその場で固まった。硬直する取り巻きを指差し、畳み掛けるようにジフトが叫ぶ。
「丸腰のシュウに剣で斬りかかっといて、なぁにが酷いだ! この卑怯者ォ!」
「うわっ、昨日の浮浪児――?」
取り乱す他の取り巻きの前へ、バートも何を思ったか偉そうに胸を反り返して現れる。
「俺もいるぞ!」
「うわぁあ! ロザリア人が城内に!」
狼狽える少年達へすたすたと歩いて行き、混乱がさらに拡大している。バートから逃げ惑う取り巻きの中、シュウか嬉しそうにジフトの名を呼んだ。
やりたい放題な二人を見て、公爵の部下エオニウスが集団を一喝する。静まる少年達に、エオニウスは二人を恭しく紹介した。
「お前達、失礼だぞ。……いいか、今はこのような身なりをしていらっしゃるが、こちらの方は」
ちらりとエオニウスの瞳がジフトを見る。
「偉大なアガシャ王の血を引く、ジフト=クレイバー=ドラクル様であり」
「へ?」
目を瞬かせるジフトから、次は暴れ回っている空賊の青年へ。
「彼はその従者、バートさんだ」
しかしやんごとなき身分の方を護衛するはずの青年は、逃げ惑ういたいけな少年達を、暴言吐きながら追い掛け回している。おらおらさっきまでの威勢はどうした、だの、恐れ慄け逃げ惑え、だの。さすがにこれは信用して貰えないだろうと危惧するジフト。案の定、耳打ちした取り巻きは半信半疑の眼をこちらに向けている。
こいつ、いや、この方が……? と、眉を寄せて凝視してくる少年を、ジフトも負けじと睨み返す。義憤に駆られる眼光が功を奏したのか、取り巻きは渋々納得したようだ。居心地悪そうに眼をそらすと、取り巻きの視線の先には他の少年達を追い掛け回すバートの姿が。
「ひゃははは! たっぷり味わえ――無力に追い詰められる者の恐怖をよぉ!」
「ごめんなさいっ、もうこんな事しませんっ」
金髪長身の眼帯つけた青年が、涙目の少年達を壁際まで追い込んでいる。まるで悪夢だ。
「な、なんであんなロザリア人が従者を……?」
大人気ない……と顔色悪く呟かれる。バートについては納得いかない取り巻きの少年に、エオニウスは大真面目な顔で説明した。
「彼らはドラクルの村出身だからな。あそこはロザリアとの国境が近い」
どうもこの偽の設定で押し切るつもりらしい。それに、彼は戦闘においては有能だ、と、本心か苦し紛れの付け足しか、エオニウスは続けた。
俯いている少年に、エオニウスが表情を改める。
「さて。今一度訊くぞ。先に仕掛けたのはどちらだ?」
うっ、と、取り巻きが息を詰まらせた。視線が泳ぐけれど、観念してその頭が垂れる。
「僕たちが先に手を出しました――」
ごめんなさい、と、がっくり床についた手と同じ位深々と低頭する。罰を下すならこの僕に、そう倒れた鎧の少年を庇う。エオニウスも、険しかった表情をすこし緩めた。
「そうか。これに懲りたら、もう同じ誤ちを犯さないようにするんだぞ」
シュウ君も、公爵に招かれた客人なのだから――そう、頷く少年に向けて、いくらか優しい声で諭す。すこし離れた所で、シュウはジフトから感激の言葉を浴びていた。剣吹っ飛ばすなんてすげーじゃん、とか、かっこよかった、とか言われ、照れたシュウが笑みを漏らしている。そこへエオニウスが近寄った。気付いたシュウが、不安そうな顔をする。デジェレ補佐官、と、シュウがエオニウスの氏を口にした。黒髪が揺れて、頭が垂れる。
「申し訳ありません。宮中で騒ぎを起こしてしまって」
目を伏せて沙汰を待つその様に、エオニウスの瞳が円くなった。そのまま瞼を閉じて首を横に振る彼の口元には、苦笑が浮かぶ。
「いや、こちらこそ。すまないね、弟達が迷惑をかけて。危うく刃傷沙汰になる所だった」
気絶だけで済ませてくれて助かったよ、と、鎧の少年が気を取り戻す様子を眺めつつ肩を竦める。どう返答していいか戸惑うシュウへ、エオニウスは意味深長な眼差しで目を細めた。
「君も、そんなに強いなら、もっと堂々としていればいいのに――」
そうすれば弟達も手出しできないさ、と、冗談で流そうとする。微笑むエオニウスと反対に、シュウは黙して俯いてしまった。会話が途切れたのをいいことに、ジフトがエオニウスに声を掛ける。
「おじさん、顔色良くなったね! 指はくっついた?」
「お、おじっ――?」
バネ仕掛けのように顔を跳ね上げ、シュウが隣に立つジフトを見る。
「ジフト! きみ、この方が誰だかわかってるの?」
「え? 公爵の部下のエオニウスだろ」
「部下って――それはそうだけど、そういうことじゃなくてね……!」
とにかく失礼だから謝って、と、必死で促すシュウの前で、ジフトは面倒臭そうに頭を掻いている。泥に釘を打ち込んでいるような手応えしかないジフトに対し、懸命にエオニウスの家柄やら職務上の位やら実年齢やらを説明するシュウ。当の本人は二人の目の前で、そうかぁおじさんか……と涙を飲んでいた。流石のジフトも言ってはいけないことを言ったと自覚してきたところで、エオニウスが口を開く。
「……心配してくれてありがとう。指は大丈夫だよ。医者が言うには、縫合痕が少し残るが、日常生活には支障無く治るそうだよ」
多少動かしても痛くないと、三角巾から固定処置された腕を出してみせる。はらはらと気を揉むシュウの隣で、ジフトはにんまりと笑って見せた。
「そっか、よかったな!」
「ああ――バートが適切な処置をしてくれたおかげだ。彼には感謝している」
屈託無い笑みを見せるジフトにつられ、エオニウスも口端を上げると振り返った。視線の先には、空賊の青年の姿――最後に残った長髪の少年を壁際に追い込むバートの姿があった。
「狩られる側の気分はどうだぁ?」
「わっ、悪かったよ。もうしないって言ってるだろ! 向こうへ行け!」
変な笑い声を上げながらじりじりとにじり寄っている。
「さっきまで尻込みしてたくせに……」
「大人気ない……」
呆れ顏で引いているジフトとシュウの前、それでもエオニウスは穏やかな笑みを浮かべたまま成り行きを見守っていた。
とうとう最後まで意地を張っていた長髪の少年も根負けしたらしい。散々追いかけ回されて涙目になった瞳で睨めつけながら、彼等は退散していった。鎧の少年を背負って逃げる取り巻きの一番後ろを、長髪の少年が捨て台詞を吐きながら追いかける。
「覚えてろよこの変態!」
「けっ、何時でもかかって来い! タイマンでな!」
年下相手に全力を出し切ったバートが、なんともいえない充実した表情で悦に入っている。そのままジフト達の方へ振り返ると、金色の眉がふと顰められた。青の瞳に映るのは、翻る黒の外套。刻むような音を立てて、エオニウスは空賊の青年の前まで進み、止まった。直立する公爵の部下を、バートはつま先から頭まで不躾に眺める。黒い靴に黒の装束、きっちりと纏められた髪。
先ほどまで満足感でにやついていたバートの顔から、表情が消えた。据えた目がエオニウスを射抜く。
「……よぉ、元気そうじゃねぇか」
その調子じゃ、応急処置は効いたみてぇだな。そう、バートが低く呟く。無遠慮な眼差しを、エオニウスも真っ直ぐ受け取った。ああ、と、僅かに髪が揺れて首肯する。
「おかげでヌワジの葬式にも出席できた」
バートの目の下に、薄く皺が寄った。赤錆色の瞳が揺れて、視線が床に落ちる。
「本当に、感謝している。何と礼を述べたらいいか――」
謝辞を口にするエオニウスに、バートはうんざりした様子で口角を下げた。手持ち無沙汰な両手を腰のベルトに預け、あのなぁ、と、溜息交じりにエオニウスの言葉を遮る。
「勘違いすんなよ? 取引相手が交渉途中で死んだら商売上がったりだから助けただけなんだぞ」
これみよがしに大げさな溜息をもう一つ吐くと、エオニウスが微笑を零した。
「そうだな」
「おい、笑うんじゃねーよ」
どうにも意図が曲解して伝わっていると理解したらしく、バートがこめかみをひくつかせ凄んでいる。イラつくその指が、ずいとエオニウスの前に突き出された。
「それと! てめぇの弟と悪友共に伝えとけ。相手の力量も見極められねぇうちはイキがるんじゃねえってな!」
腹のムカつきをそのまま吐き出すような激しい口振りで喚くと、バートの声が急に地を這う如く低くなった。
「次会った時は殺しちまうかもしれねぇからよォ。てめぇも家族を失いたくはないだろう?」
伏せていた赤錆色の目が、空賊の青年を捉える。隻眼の青い瞳は、ただ凄んでいるだけとは一線を画した昏い光を宿していた。側で成り行きを見ていたジフトが、ごくりと唾を呑む。『短剣』を撃ち殺した時の目に、似ている。
鳥肌を抑えて後退するジフトの耳に、エオニウスの声が聞こえた。
「――ああ、君の言う通りだ」
再び俯いてしまったエオニウスの表情は読めない。肯定を得たバートの目には狂気が戻り、嬉しそうにけたたましく笑い声を上げた。
「そうだろ! 家族は大切だもんなぁ! 惨たらしく死ぬとこなんざ見たくねぇよなァ?」
真っ白な犬歯を剥き出しに、いつもより狂気を増した様子で笑うその横を、喪服が通り過ぎる。すれ違いざま、エオニウスが呟いた。
「ヌワジが君に子どもたちを託した理由――今はそれが分かる気がする」
耳障りな笑い声が止む。金属的な残響音が鼓膜を揺らす中で、歩みを止めることなく、けれど言葉は続けられる。
「彼は、自らの意思で馬車に乗らないことを選択した」
バートの顔から笑みが消えた。虚勢を張る背中に、遠のいて行くエオニウスの言葉が降る。
「俺も、君の良心を信じたい」
ぴくりとバートの肩が震える。感情で振り返ろうとしたのを、理性で押さえ込んだからだ。角を曲がったエオニウスの姿は見えなくなり、足音も次第に小さくなった。黙してそれを聞いていたバートが、舌打ちする。忌々しそうに歪んだ隻眼の前に、己の手を出して眺めた。
「調子狂うぜ……。信じるだの、託すだの、この国の人間はお人好しが多すぎだ」
青い瞳に映るのは、幾度も朱を吸って黒く染まった手袋。窓から差し込む光は、掌に黒より深い影を落とす。暫しその影を見つめていたバートは、やがて諦念したように鼻で自嘲すると、その手を拳銃嚢の上に置いた。
「おまえもそう思うだろ? ハイウィンド――」
無機物に話しかけるその声は、まるで旧友に接するそれのようで。回転式銃を眺める目は、遥か遠くを見つめていた。