第二十六話 因子覚醒 後編
暮れなずむ空を、薄青の雲が横切る。肌寒い風が吹きはじめた東の草原を、エミール達は歩いていた。頭上で鳴る飛空挺の駆動音。それに紛れて、胸まである草むらの中からも、何かの唸り声が聞こえる。運搬する食料の匂いを、野犬が嗅ぎつけてきたようだ。襲われる前に荷物を船に上げなければ、と、班員達は口にこそ出さないものの皆同じことを考え、早足になる。進んだ距離に比例して、頭上の飛空挺が夕空いっぱいに視界に広がっていく。甲板の縁から、狙撃銃を構えた見張り兵の姿が見えるほど近づくと、向こうが手を振った。するすると、班員と食料を受け入れるための足場が降りてくる。それと同時に、非番のはずの兵士達がどっと降りてきた。
「おう! やっと戻ったか! もう待ちくたびれたぜ」
「何ヶ月ぶりかのまともなメシが食えるって本当? あ、運ぶの手伝うよ。ところでなにかいい土産はあった?」
わらわらと蟻のように群がってくる兵達は、マキナリーの食べ物がいち早く欲しくて手伝いに来たらしい。エミールが呆然としている間にも、班員と、船上で待機していた兵達の手によって、あっという間に荷物の半分ほどが上げられた。市場での出来事で強張っていた班員達の表情も、次第に無事帰還できた実感がわいてきたようで和らいでいく。あの気のいい青年が、――実は廃墟で見つかってからずっと側を離れず少し鬱陶しいとすら思いかけていたのだが――、その青年が、エミールの背中をぽんと叩いた。
「エミール、疲れてるだろ。ここは俺達とあの土産狙いの奴らに任せとけって。先に休んで来いよ」
班長には俺から言っとくから、と、青年が片目を瞑ってみせる。歩いてきた距離は同じだ。精神的に疲れることはあったものの、肉体的疲労は他の班員と変わりない。それなのに一人だけこの場から離れるのは少し気が引けたが、それより何より優先すべき事があるので、エミールはありがたく提案を受け入れることにした。そう、一刻も早く上官に、廃墟であったことを知らせなくては。気ばかりはやる身で、階段を駆け登る。硬質な金属音が小気味よく響く中で、急に誰かの大声がそれを遮った。
「おいお前達! 荷物は上げるな、キール中尉からの指令だ!」
最上段から身体を乗り出して叫ぶ男性にぶつかりかけて、エミールは急停止した。眼下の兵士達も、何事かとその手を止めている。緑の混じった青い目で、エミールは男性の階級を確かめた。少尉だ。反射的に道を空け敬礼すると、男性は一段降りてきて、もう一度同じ言葉を地上で固まっている兵達にかけた。すると甲板の方から、年配の軍曹が現れる。
「御言葉ですが少尉、この草原には野犬や熊、他にも雑食肉食の獣が数多く棲んでおります。せめて夜の間だけでも引き上げておかないと、折角の食料が奴らに食い荒らされてしまいますよ」
白髪交じりの翠の目の軍曹が、穏やかながらも簡潔に、荷物を引き上げる必要性を説いた。少尉が振り返り、くしゃりと顔を歪める。黄金色の髪を靡かせる真っ青な瞳の横顔は若く、多分エミールと変わらないくらいの歳だ。
「そんなことは重々承知だ。貴様らの上官は誰だ? いいか、これはキール中尉からの命令だ。上からの命を実行するのが貴様らの役目だろうが。誰でも分かる説明をしている暇があるなら、その頭を使ってどう命令をこなすかを考えろ」
こちらもこちらで譲歩する気もないようだ。肺活量に任せて一息で言い切ると、例えばそこに積んである土嚢袋を利用するとかしろ、と、一応は案を出している。老いた軍曹は肩を竦め、甲板上に残っていた手伝い要員に、今から土嚢袋とショベルを持って下に降りろと伝える。
「蛸壺掘って木箱ごと荷物埋めて、その上に蓋して来い。晩飯までには間に合うだろ」
「ええマジっすか……。俺らさっきまで肉体労働してきたばかりなのに……」
露骨に沈んだ声をだす兵の尻を蹴り上げ、軍曹自身もショベルと袋を担いで地上へ降りる。渋々それについて行く兵達。道を譲るだけで降りていかないエミールを、少尉が怪訝そうに見つめる。
「どうした、この俺の前で堂々とサボる気か」
「い、いえ! その、自分はキール中尉にお伝えしなければならないことがありまして」
真っ青な瞳に睨まれ、エミールは咄嗟にあの上官の名前を出した。この少尉も彼から指令を受けたのだし、と、つい安易に口にしてから後悔する。もしこの場で言伝してやると言われたら終わりだ。
しかし冷や汗を流すエミールの前で、険しかった少尉の眉間の皺が減った。
「ああ、エミール=ドレッド二等兵か。キール中尉が呼んでいた。すぐ行ってこい」
そう言って、今度は少尉が道を譲る。恐縮しながらも、あっさりと通されて拍子抜けする。はやく行け、と鋭く喝を入れられ、エミールは脱兎のごとくその場から走り出した。
錆と埃に塗れた廊下を過ぎ、将校らが住む居室に辿り着く。息つく間もなく扉をあけると、上官の部屋に飛び込んだ。入室許可を得るための三回ノックとほぼ同時にだ。
「中尉! 作戦を中止するよう大佐に進言してくださ――」
勢いよく叫んだ言葉は、しかし、全て言い終わる前に驚きに呑まれてしまった。その場に立ち尽くして目を白黒させるエミール。視線の先では、今日の無理難題を押し付けてきたあの上官が、悠々自適にティーカップに入った熱い液体を飲んでいる。
「戻ったか。首を長くして待っていたぞ」
エミール、と、非の打ち所がない造形の唇から名を呼ぶ声がする。硝子玉のような青い目がこちらを向き、それを追うかたちで顔全体が振り返る。
一度は見たその素顔。それでもエミールは無意識に、半歩後退りした。
「キール中尉……?」
覚えず声が上ずる。ちきちきと、決して人では出せない硬質で淡白な音が、静かな室内で鳴っている。音の出所は、エミールと相対する者、キール中尉そのもの。
澄ました上官の顔は、右半分の皮膚が外開きの扉のように剥かれ、皮下組織を露わにしていた。本来なら毛細血管が破れて血塗れのはずのその顔は、あるべき人としての組織の代わりに、金属光沢のある部品で構成されている。
戸惑うエミールの前で、上官の口元が僅かに緩んだ。剥き出しの眼窩、そこに納められた青い硬質硝子のレンズの上で、虹彩代わりの絞りが締まる。左は人、右は機械、別々のかたちをしたものが、同じ表情でエミールを見ていた。まるで微笑むようなその貌に、思考停止していたエミールがはっとする。急いで開けっ放しだった戸を厳重に閉じ、動揺収まらぬ勢いで上官のかたちをしたものに詰め寄る。
「もう! 何て格好してるんですか? さっさとそれ仕舞ってくださいよ!」
顔面蒼く機械側を指して喚くが、上官は涼しい表情のままだ。他の人間が入ってきたらどうするつもりなんですか、とか、こんなところ他人に見られたらタダじゃ済まないでしょう、とか、色々正論を並べ立てて責めるエミール。のそり、と、上官のかたちをしたものが席を立った。す、と白い手袋を着けた手が伸ばされる。
「キール中尉――!」
全く話を聴いていない素振りをみて上げた抗議の声は、最後まで言う前に物理的に中断された。口を塞がれて尚視線で不満をぶつける部下を、硝子の瞳が見下ろす。案ずるな、と、今度は見間違いようがなく、にやりと笑ってそう告げられた。うう、と、手のひらの下でエミールが呻く。
「でも、でも――さっきなんか錠も掛けてなかったし、不用心すぎますよ! あんな状態じゃ、いつ誰が入ってくるかわかんないんですよ、そこんところ理解してます?」
あまり驚いたせいかほとんど素のままの口調で話すエミールの首元を、手袋をした指が探っている。
「……少し離れた間に、妙なものを付けられたな」
「は?」
完全に意識の外だった場所に視線を動かす。緑混じりの青目が捉えたのは、上官の手に摘まれた小さな機械だった。不審な物体を訝しむエミールの前で、硝子の瞳が小さな同族を検分する。
「盗聴器か。これだけ小型は珍しい」
くくく、と、嬉しそうに喉を鳴らす上官の言葉にエミールが仰天する。
「と、盗聴っ?」
「そうだ。どうやら俺達の会話を盗み聞きしたい奴がいるようだな」
「って、何床に捨ててんですか! そんなものさっさと壊してくださいよ!」
摘んでいた機械を床に落とすだけ落として何もしない様子に、思わず声が大きくなる。中尉がやらないなら僕が、と、足を伸ばして踏み潰そうとすると、届かないところへ盗聴器が蹴り飛ばされてしまった。ふふ、と、不穏な笑い方で冷却液管が張り巡らされた顔が近付いてくる。
「壊す? じっくり聞かせてやろうじゃないか、俺達の話すことを――」
「はあ? 何言ってんです?」
まさかこのまま機密を喋り出すのかと、全力で渾身の疑問をぶつけるも、一笑に付されてしまった。機械の目元が笑うと同時に、剥がれた皮膚も、笑みの形を作っている。屍体に悪霊が憑いたような動きに、エミールの背中が粟立った。
「き、今日の中尉おかしいですよ。何かあったんで――」
少し黙れ、との言葉と共に、また口を塞がれてしまった。先程と違って、力が強い。人間のそれではない。多少の抵抗ではびくともしない拘束の下でもがもが声にならない叫びをあげると、青い硝子玉は地に落ちた盗聴器に視線を送った。
「反応をみるのも一興と思ったが、おまえがそんなに嫌がるならやめておこう。残念だ」
「――?」
息苦しいのを我慢して沈黙すると、上官が目配せした。
「今日のところはお引き取り願おうか、盗聴器の向こうのジョン=ドゥ、そして――」
戸の向こうで聴き耳を立てている君たち。
語気を強めた一声に、ガタンとよろける音が応えた。
「やばっ、気づかれてる」
「マジかよ! 逃げろー!」
数人が口々に慌てふためいて、ばたばたと廊下を駆けていく音がした。笑い声も混じっていたから、こちらは恐らくただの悪戯けだろう。しかし――
「……どうやら去ったらしいな」
盗聴器を分解しつつ、上官が感情のこもらない口調で呟く。ずるずるとへたり込むエミールへ、冷たい湖のような青い瞳が向けられた。
「任務に懸命な心意気は買う。だが、少しは周囲にも気を払え」
先程まで嘘臭いほど人間染みた笑みを浮かべていた顔は、見慣れた無表情に戻っていた。剥がれた皮膚を、上官の指が骨格の上へ押さえつける。なんとも言えない音を立てて、本物にしか見えない人工皮膚は吸着していった。これを見るのは二度目だが、それでもエミールは戦慄せずにはいられなかった。
「も、申し訳ありません……」
「さぁ立て。話の続きを聞かせろ」
差し出された手。一瞬躊躇するも、それしか縋るもののないエミールに、礼を言って立ち上がる以外の選択肢はなかった。
双方が席に着いて、エミールが今日起こった事を報告した後。思い出して血の気を引かせる部下の前で、機械仕掛けの上官は黙して一部始終を聴いていた。ふむ……、と、相槌とも溜息とも分からない声が漏れた。綺麗にプレスされたスラックスの折れ目を、人差し指がつうとなぞる。
「『花と短剣』――そうきたか、ミランダ……」
まるで人間のように、顎に手をやって思案する。わずかに眉をひそめる上官の前で、勢いを取り戻したエミールが感極まって立ち上がる。
「ど、どうしましょう? 相手は魔法を使える空賊に『花と短剣』ですよ?」
いてもたってもいられない、と、情けなく指示を仰ぐエミールに、上官は黙ったまま、座れと手を動かした。渋々席に着くと、今度は上官が口を開く。
「よく聞けエミール。『花と短剣』は我々の戦う相手ではない」
「え?」
「我々の相手は飽くまでも公爵とミランダだけだ」
首を傾げるエミールの前に、二本の指を立てて振ってみせる。当然と言えば当然だが冷静な上官に、それでも食い下がるエミール。
「で、でも『花と短剣』は僕たちロザリア人を毛嫌いしてるし――」
「奴らが嫌うのは異邦の侵略者だ。それはロザリア軍も、空賊も、アガシャも同じこと」
途中で遮ると、大分冷めた液体を作法の教本通りに口にする。エミールは円くなった目を瞬いた。
「は? なぜアガシャ側まで? 彼ら同郷じゃないんですか」
しかし疑問に答えは無く、カップを置くと上官は話を先に進めてしまう。
「とにかく、ミランダは『花と短剣』に宣戦布告した。奴らが黙っているはずがない。ミランダと公爵の陣営は、俺達と戦うと同時に『花と短剣』も相手にせねばならない」
空になったカップを眺める上官に気付き、エミールはポットから中身を注ぎ足した。金属製の、高保温の容器だ。とても飲めた温度ではない液体がなみなみとカップを満たす。
「……どうして、ミランダはそんな損しかないことをしたんでしょう?」
尋ねてみるも、これも返答はなかった。二杯目を飲む上官を上目で一瞥して、仕方なく一人考える。
「あ! もしかして――」
何かに思い至ったエミールが声を上げ、上官の硝子の目が愉快そうに眇められた。
「短剣は空を飛ぶ術を持たない――『双頭の黄金竜』には攻め込めない! だとしたら、彼らの矛先が向かうのは、公爵のもと、機械宮……!」
この戦い、ミランダの一人勝ちになるよう仕組まれている。思案の末の結論に困惑するエミールに、上官は実に酷薄な笑みをもって応えた。
「でも……よく公爵は許しましたね、こんな不利。もしかして気付いてないのかな?」
「場を指定したのは公爵だ。そも最初の一撃は公爵側の刺客が与えた。短剣と敵対する以上の利と、そして勝算があるのだろう」
この損も公爵にとってはミランダを参戦させるための取引材料の一つ、と、飲み干したカップを手放した。
「ロザリア軍と短剣を相手に勝算? ああ、魔法を使える空賊を使う気ですか。嫌な余裕ですね」
不快そうに鼻に皺を寄せるエミールは、空のカップを前に無言の催促をする上官に気付かない。わずかに眉を寄せると、上官は自分で液体を注いだ。
「いいや、公爵は――別の方法で来るだろう」
満たされていくカップを見て今更気がついたエミールが、多少勢いを落として尋ねる。
「まだ何か……あるんですか」
すみません、と謝って所在無さげに視線を泳がせる部下に、上官は怒ることも無く透き通った眼を向ける。
「おまえが見た赤光とそれを操る少年――あれは純魔動機械と、その操縦者だ」
説明を受け、エミールの脳裏に昼間の光景が蘇る。
「機械……。じゃああの光が、『意思を持つ壁』の?」
「近いが、別物だ。勇心機甲という単語に聞き覚えはあるか」
質問されて、エミールは眼を伏せる。
「いえ、あまり機械に詳しくないので」
そうか、と、上官は言葉の説明もせず次の質問を投げかける。
「では、『ブレイブハート』はどうだ?」
「そちらも、聞いたことないです。すみません、不勉強で……」
力なく首を横に振ると、上官は、ふむと言っただけで特に責めもしなかつわた。ただ視線を少し上げて、遠くを見つめるような仕草をしている。
「三竜の伝説はあっても、ブレイブハートまでは伝わっていないのだな……」
この言葉についても、上官は説明する気はなさそうだった。不安そうに見つめるエミールへ視線を戻し、上官は実に人間染みた笑みを浮かべる。
「ただの確認だ。知らないからといって気に病むことはない。公爵が従える者の正体さえわかっていれば、それでいいのだから」
くく……、と、再び喉を鳴らす上官。引っかかる言い回しに、エミールは思い切って一歩踏み込むことにした。
「正体――。あの少年、何者なんです? 正直、ただの一般市民にしか見えないんですが」
あの純魔動機械の扱いを見るに、多少は出来るみたいですけど、と付け加える。失笑の後、上官はその台詞を否定した。
「一般市民だと? とんでもない――彼こそが公爵の持つ最強の切り札なのだよ」
にぃ、と、完璧な造形の唇が両端を吊り上げ歪んでいく。真白な左右の犬歯はどこまでも左右対称で彼が人工物だと主張する。だというのに、その瞳の奥から、言い知れぬ邪悪さを感じてエミールはたじろいだ。エミールの脳内で、切り札と称された少年の姿が再生される。同じ年頃の短剣と相対し、何か苦悩した表情をしていた、あの少年。
「あんな子どもに――何をさせようって言うんですか」
訊かなくても、同士討ちをさせようとしているのは分かる。問題はどのようにそれを実行させるか。あれが純魔動機械だとしたら、あの場で使ったのはその力のほんの一部にすぎない。いくら機械に疎いエミールでも、兵器として運用される純魔動機械については、かじった程度だが知識はあった。このまま行けば、あの少年は筆舌に尽くしがたい残酷な暴力を、かつての仲間に向けることになる。たとえ操る機械が最も小さな規模のものだとしても。
空恐ろしくなるエミールの前に、幾つかの資料が置かれた。
「それについて、本部から追加資料が来ている。後で眼を通しておけ」
「えっ、……先に言ってくださいよ」
今迄の報告の三分の一が無駄だったことを知り、脱力するエミールに、上官は楽しそうに口先だけの謝罪をした。
「ああ、すまんな」
大変楽しそうである。どうにも昨日までの無表情と違いすぎる様子に、エミールは額を押さえた。
「……中尉、今日本当に変ですよ! 貴方らしくもない――」
「追加資料と共に俺の設定も更新されたからな。変化があるのは当然のことだ」
唐突な事実の出現に、狼狽した。
「そ、それって、前の人格と全然別人に変わっちゃったってことですか?」
顔色蒼く立ち上がるエミールの正面で、上官は首を横に振る。
「本部はそうしたかったようだがな」
「本部――って、じゃあやっぱり、今の貴方は昨日僕と話した中尉とは別人なんじゃ――」
衝撃を受けてよろめくエミール。上官は口の片端だけを上げると、椅子の腕掛けに肘をついて顔を傾けた。
「そう急くなエミール。更新されたのは感情の項目だけだ。再構成精記命令は消去させてもらったぞ」
硝子の青い目が面白そうにこちらを観察しているのを見て、エミールはひとまず席に着く。
「そうなんですか……。あ、でも、そんなことして本部から警戒されませんか?」
「隔離領域で展開して再構成後の人格を演算してある。欺くなど容易いものだ」
「はぁ……。何言ってんのかさっぱりわかんないですね」
本当に何を言っているのか理解できないが、取り敢えず人格の連続性は保たれていることを確認できて安堵する。エミールにしてみればあの夜の問答を繰り返すなど二度と御免被りたいから、ただただ胸を撫で下ろすだけだ。あれを記憶されたままというのは、それはそれで気恥ずかしいのだが、もう一度真意を問われるよりはましだと考える。
表情が無さすぎて部下達に気味悪がられると報告し続けて、やっと更新が届いたと思ったらこれだと、上官は上官でエミールの内心を無視して愚痴らしきものを呟いている。いつの間にか話が大幅にズレていることに気付いたエミールが、はっと面を上げた。
「って、こんなこと話してる場合じゃないですって。さっさと撤退しないと部隊は壊滅ですよ!」
拳を握りしめて力説すると、上官もわずかに眉を寄せて首肯した。
「本日正午に、本営と本部両方に撤退を進言しておいた。昨夜の時点においてミランダの裏切りはまだ確定していなかったが、蓋を開けてみれば正解だったわけだからな」
「そ、そうですね……。でもまだ返事は来てないですよね」
行動の速さに面食らいながらも、一応の確認を取る。昨日の今日で返答を出せるほど本部本営両陣柔軟ではないだろうと思ってのことだ。しかし、上官は静かに顔を俯けた。
「同じ命令が返ってきた――『撤退は認めない、予定通り作戦を遂行せよ』と」
告げられた言葉に、エミールが凍りつく。
「そんな――二つとも? 科学省まで? 僕達に死ねと言ったんですか? 滅茶苦茶だ、そんなの!」
せめて作戦の一旦中止、練り直しくらい……、このままでは皆犬死にですよ、と、息を切らして無駄な提案をするも、それらは本部にも本営にも届くことはない。取り乱すエミールの爪が机を抉る。その様子を、澄んだ硝子の瞳が見つめている。
「あの夜盗聴した録音情報を証拠として提出した。が、本営からは謹慎処分、本部からは再構成命令を喰らった」
冷静な上官をみて少し落ち着いたエミールが、科学省の上官への処遇を聞いて冷や汗を流す。
「そんなの、まるで粛清だ……。軍より酷いじゃないか」
敬語も忘れて絶句する部下の前で、上官がしてやったりとでも言うように鼻を鳴らす。
「ふん、だが失敗している。奴ら詰めが甘いからな」
くく、と低く笑い、上官は席を立った。隔離領域対策を忘れるとは笑わせてくれる、と、愉快そうに部屋を横切っていく。そんな背中の後ろ、エミールは膝の上で握った拳を震わせていた。
「逃げることも許されないなんて、どうすればいいんだよ……」
絞り出すように吐いた声を耳にして、上官が振り返った。唇を噛み締めて俯くエミールを、瞬きもしない青の瞳が映している。暫しの後、静かに上官はエミールの横に立った。
「敵前逃亡は兵の罪だが――戦艦の大破は指揮官の責任だ」
意味深な事を言い、上官はエミールを一瞥すると真っ直ぐ前を向いた。
「もし作戦の実行前に、不慮の事故によりヴィースが沈めば……本営も撤退を余儀なくされるだろう」
耳から入ってきた言葉に、エミールは瞳孔を円くした。
「え、――え? 沈める……? 飛空戦艦を? ロザリアの、たった一つの有効な、貴重な戦力を……?」
信じられないと非難にも似た視線を投げると、上官は正面を向いたまま肯いた。
「そうだ。ヴィースは王国への有効打になり得るが、それ以上に最高の囮になる」
上官の硝子の瞳は青く、赤く灼けた光差す卓上の地図を見つめている。
「くれてやるのだ、こんな戦艦など。どうせ機械宮の前ではよく燃える篝火にすぎんのだから」
船を失えば、さしものハンス中佐や上官らも無謀な戦を諦められるだろう、と、呆れたように呟く。でも、と、思わず大声でエミールは反駁した。
「そんなことしたら、侵攻作戦は二度と――」
口を挟もうとしたエミールへ、冷たい硝子の瞳が向けられる。
「ではこのまま作戦を続行し、ヴィースだけでなくミサイル艇、そして後続の戦艦サピエンティアも失うのか?」
「そ、それは……」
「上層部は逃亡を許さず、公爵側も空賊の密告で侵略を知った今、八方上手く抑えるにはヴィースを捨てるのが一番の安全策だろう」
黙するしかないエミールから視線を外し、彫刻のような貌が思案を巡らせる。
「必要なのは、リオナードとミランダを倒す戦力を揃えることだ」
「っ、だから、ヴィースを失ったら相手方との戦力差が開くばかりじゃ――」
我慢できず口を開いたエミールの言葉を背に受けつつ、上官が地図を広げた卓へ向かって歩く。
「代わりがあるとしたら?」
「え? あるんですか?」
拍子抜けして情けない声を出すと、上官は手袋を着けた腕を伸ばした。白い指が地図の上を滑る。
「科学省内部でもまだ極秘の事項――カエレスティス湖で発掘された、過去最大級の飛空挺テンタティオ。……本作戦が失敗したとき、議会に提示して科学省の発言力を増すための船だ。これに、ヴィースの主駆動機の魔石を移す」
藪から棒に出てきた新たな戦力。話を聞いていたエミールの頬を、汗が一筋伝った。
「は……。すごいですけど……、最初っからそれ出してくれれば良いじゃないですか」
そうすればこんなことで悩まなくたって済んだのに、と、悔いても仕方ないことを言及する。背を向けたままの上官は、地図の上に広げた手のひらで東の平原を覆った。
「テンタティオは今までの戦艦と規模が違う。持ち得る力を発揮するためには、従来のおよそ二倍の魔石が必要となる」
緑の混じった青い目が、時間をかけて数度瞬きした。
「えっと……、それじゃーどっちにしろ、ヴィースの魔石だけじゃ足りないですよね?」
「ああ。運用のためにはもう一隻分の鉱石が要る」
「でしょうね……って、ん?」
話の流れに躓いたエミールの前で、上官が机に両手をついた。
「――俺の任務は、成功しない侵攻作戦を見届け、ヴィースとサピエンティア、二隻分の魔石を回収することだ」
俯いたまま、しかし声だけは普段通り淡々と、吐露された真実。固まるエミールに、畳み掛けるように続きが語られる。
「科学省は初めから、空賊が軍の指揮下にないことを知っていた。傍受した通信を報告した時に告げられた。今回のことは、軍部の兵と装備を失わせ、議会への影響力を逆転させるため。そのために、見殺しにしろと。……奴らにとって、軍は敵。数は少なければ少ないほど良いらしい。自分たちの意のままに動く駒は例外だが――」
「は、はは……」
堰を切ったような独白は、乾いた笑い声で遮られた。ゆっくりと振り返る上官の目に、部下が全身を震わせる姿が映る。ぽたぽたと、つたい落ちる涙が机を濡らした。
「じゃあ――僕達、とっくに捨てられてたんですね」
噛み締めて白くなった唇から出る声も、同じように震えていた。潤む瞳に浮かぶのは、怒りに諦念に絶望、数えるのも諦めるほどの複雑な感情。それでも歯を食いしばり涙を拭う姿をみて、らしくなく上官は細く溜息を吐く。まるで人間のように。
「……話は最後まで聴け。何のために俺が軍部本営にも報告したと思ってるんだ」
ひら、と、卓上に広げた地図を手に取り、エミールの側へ歩き出す。
「いいか、エミール。撤退のために捨てるヴィースは目くらましだ。アガシャ側にも、ロザリア側にも。両者が派手な篝火に目を奪われているその間に、我々は山脈に沿って北に登る」
まだ涙の乾かぬ机の上へ、音を立てて地図が広がった。惑うエミールの前で、白い指が点と点を繋いでいく。
「アガシャの六血統が一つ、竜の子の村――ここに、新型戦艦を動かすだけの魔石がある」
語るその声はどこまでも揺らぐことなく、そして頼もしく聞こえた。涙を拭い、腫れた目でエミールが地図を覗き込む。
「ど、堂々とアガシャ領に入るんですね」
空白地帯の東の平原でさえこのざまなのに大丈夫なんですか、と尋ねる。
「あそこは廃村だ。以前の調査では周辺地域も含め、警備隊すらいない捨てられた土地だった。それは今も変わっていないだろう」
「だろうって……命がかかってるのに、えらく不確定な情報で動くんですね」
表情を曇らせるエミールと反対に、上官はどこか遠い目をして笑って見せた。
「人が住めないんだ、あの土地は。いや、住むどころではないな。十日と滞在することもできない。汚染が進みすぎているから」
だから普通の人間達から捨てられた土地なのだと、何度も調査されたのに移民や侵攻のルートから外されているのもこれが理由だと、上官は言った。
「あるのはただ、埋葬もされぬ屍だけ――」
不穏な説明を聞いて、エミールはさらに表情を険しくする。
「待ってくださいよ、誰も住んでいないんじゃあ、魔石だってないんじゃないてすか?」
「いいや、存在する。それも大量に。あのジフトという少年の存在が何よりの証左だ」
追加の資料と、何よりおまえの報告がそれを裏付けた、と、上官が労いの言葉をかける。状況がよくわからないエミールを置いて、上官はさらに先へ先へと進んでいく。
「この魔石が手に入れば、サピエンティアはそのまま、加えてテンタティオを動かすことが出来る。もともとヴィース、サピエンティア、そして空賊の船アジリタスの三隻でマキナリーを制圧する予定だった――これで、裏切ったアジリタス、放棄するヴィースの穴をテンタティオが補い、かつ戦力は公爵側を上回る。体勢立て直しに四十日近く掛かるが、本作戦と俺の任務の双方遂行可能となる。理論上は、な」
必要もないのに一息ついて、上官はエミールに目配せした。
「幸いにも、行軍に必要な物資は今日補充したばかりで充分にある。準備が整い次第、負け戦を仕掛けて北上を始めるぞ」
熱弁を振るっていた上官が、どうした、とエミールに声をかける。へなへなと椅子に座り込むと、エミールはぼそりと呟いた。
「なんで、……どうして、ここまでして僕達を助けようとするんですか」
この問いにも、返答は無かった。いや、上官は答える言葉を選べなかった。青い硝子玉が、金属の絞りの下で演算が終わるのを待っている。負荷だけが増していく。
「僕ら軍の兵を助けたって、あなたにとって何一つ良いこと無いのに。今日だって人格消されそうになって、……それって、殺されかけたってことですよね? それなのに! どうして……?」
僕は、と、震える唇から言葉が紡がれる。戦慄く両手が橙がかった金髪を掻き毟る。
「僕には、もうわからないんですよ! 何を信じればいいのか――」
混乱と疑心の極致で涙声になりながら、それでも心情を吐露するのを止められない。陽が落ちる一瞬、一日で一番長い影ができる瞬間。その長い影の中、上官がつくった黒い一筋の中で、エミールは最後の一言を絞り出した。
「あなたを、信じてもいいのか――」
後に残るは、薄暗い宵闇。自動的に点灯した明かりに照らされ、機械仕掛けの、上官のかたちをしたものは、瞬きも忘れてその場に立ち尽くしていた。はなから答えなど期待していない。これは壮大な自問自答なんだと、机に突っ伏したまま自嘲するエミールの耳に、すうと息を吸い込む音が聞こえる。
「そうか……。それは――『心外』だな」
無限に繰り返す演算。最後の一言は、そのループを強制終了させるには十分な言葉だった。あえて心などという単語を選択して、ふ、と上官の口元が歪む。
「エミール、理由を知りたいと思うなら、おまえがそれで納得できるか、俺には測れないが――」
片手を預けていた椅子の背もたれを、その手が強く握っている。布と布が擦れて軋む。
「俺は、作られたばかりの個体だ。稼働期間も一年にも満たない。……必要な知識は情報領域に、生まれた時から刻まれている。が、実際の経験などまだ数えるほどしかない」
今名乗っているこの名も、死んだ人間の身分をそのまま引き継いだだけだ、と。一任務を遂行するには、ただ一人の協力者に開示するには行き過ぎた情報を伝えている。
「この戦が、俺の初陣だ」
言うべきことではない。現にこの協力者がこちら側に折れたのも、頼りになる母集団と分かりやすい英雄像を望んでいたからだ。理想も思想も高く強く語るその人が、作られたばかりの機械では、その言葉のなんと軽いことか。まして作成者の受け売りとあれば。
人の言葉より抽象化された、それでいて少しの齟齬も許されない言語で、人のかたちをしたものは答えを出していた。そしてそれを人間の言葉として出力しようと努めていた。
合成繊維に縁取られた硝子玉が、俯く一人の青年を映す。
「俺は、人間が死ぬさまをこの瞳で観測たことがない」
そして、と、言葉は続く。椅子の背を掴む手の指が、布を突き破り綿に食い込む。
「俺は――今はまだ、それを見たくないんだ」
信じてくれないか、と、機械が青年の名を呼ぶ。
「これが、赦されるものならば――」
とっぷりと日の暮れた機械宮。窓から差し込む二つの月明りと、一定間隔で設置された明りが、冷たい廊下を照らしている。そんな場所を一人、ジフトは歩いていた。足音が響いては、仄暗い闇に吸い込まれる。
『きみに真実を知ってほしいんだ。一緒に来てくれ、ジフト――』
交互に見えるつま先を眺めるジフトが、少し前に聞いた言葉を反芻する。音声と共に、必死で説得するシュウの顔も思い出す。
「うぅー、なんか……してはいけない約束をしてしまったよーな気がする……」
勢いにのせられた――? と、後頭部を掻く。長いながい廊下を歩くにつれ、段々と冷静さを取り戻してきたのだ。どう考えても、さっきはまともな思考が出来る状態じゃなかった。はたして下した判断は、シュウとの約束はしてもいいことだったのだろうか。
ぴたりと足が止まる。窓の外の星が瞬く。
「でもこのままだと、俺もキアラもどうしようもないし――」
誰もいない廊下で腕を組んで、うんうん唸りながら独り言を漏らす。立ち止まっても仕方ないと自分に言い聞かせ、再び歩み始める。それに、と、無意識に顎に手を遣りながら思考は続いた。
――公爵が俺にさせようとしてることの、手掛かりが見つかるかもしれないし……。
「あ、この部屋だっけ」
ほとんど自動的に歩いていたジフトは、今日出てきた部屋の前に来て顔を上げた。扉に刻まれた植物の葉の数を確認。間違いないようだ。ポケットの中を探り、四角い金属の鍵を然るべき場所に押し込むと、解錠の音が聞こえた。
すっかり遅くなって、キアラに心配かけてしまったな。そう思いつつ、扉に手をかける。二、三度頭を振って、疲れた表情を払い落とすと、ジフトはなるべく普段通りの顔を取り繕った。
「ただいまー、キアラ。遅くなってごめんな――」
勢いよく開けた扉の向こうは、廊下より深い宵闇に包まれていた。やっと安心できる場所に帰ってこれたと、知らず上がっていた声音。全て言い切る前に、それが尻すぼみに小さくなっていく。
「おう、クソガキ。やっと帰ったか」
明りも付けない暗闇の中、椅子に座るでもなく床の方から空賊の青年、バートの声がした。そちらに視線を向ければ、壁際に座り込んで身を凭せ掛けている姿が見える。
廊下のかすかな光で出来た自分の影の上へ踏み込んで、ジフトはきょろきょろと部屋を見回した。
「あれ……キアラ、もう寝ちゃった?」
自分でも驚くくらい心細そうな声。思わず口元を押さえて、気まずい足取りで入室する。空賊の青年は、ジフトの声色など一々気にも留めていないようである。
「さあな。知らねぇ」
壁に無気力に頭を預け、ぶっきらぼうな返答をする。何を持っているのか、白い粒が連なった根付けのようなものを自分の眼前にぶら下げて、それを眺めていた。
若干さっきの態度が恥ずかしかったジフトも、全然気にされてないことに安堵して平静を装いながら部屋を横切る。机の前を通るとき、ちらりとバートへ眼を向けた。何を眺めているのか、少し好奇心が沸いたのだ。黒い手袋に摘まれたそれは、何かの歯を、丈夫な黒糸で連ねたものだった。持ってるものが何なのか気付いたジフトが、眼を逸らす。大小様々な、丸みを帯びた白い歯が、柔らかく月明りを反射していた。空賊の青年はジフトが自分を観察していたこともどうでもいいらしく、先程からまるで変わらない姿勢のままだった。
足早に部屋の中央を通り過ぎ、寝室へと続く扉に手が届いた。ひんやりとした金属の感触を手のひらで受け止めて、ほっと息が漏れる。
――キアラ、昨日の夜からずっと看病してくれてたし、きっと疲れて寝ちゃったんだろうな。
扉の向こうでは、キアラが寝台の上で静かな寝息を立てている。そんな様子を想像して、くすりと笑みを浮かべて手を伸ばした。油を注した扉は無音で開く。果たして視界に飛び込んできたのは、無人の寝室だった。
綺麗に整えられた寝台は、真っ平らな線を描いて鎮座している。
目の前の光景に数秒立ち尽くすと、ジフトは寝台に近寄った。上掛けをめくって一応温度を確かめるが、当然整えられてから誰も横たわらなかったそこは何のあたたかみもない。知らず、眉間に皺が刻まれた。
「バート! キアラは――」
そのまま身を翻し叫ぶと、空賊の青年が気怠い視線を投げてよこした。そこに駆け寄り、キアラがいない、と状況を説明するジフト。
「どっかに行くとか、……何か聞いてないか?」
「あぁ?」
なり振り構わず息を切らして尋ねるジフトへ、バートは怪訝そうな眼と低い声を返した。青い目を数回瞬きして、質問の意味を理解したバートが、面倒臭そうに耳の裏を掻く。
「どこ行くも何も、小娘なら自分の部屋に帰ったぞ」
どうやら両者の間には決定的な思い違いがあったようだ。バートはそれを理解したが、未だわからないジフトは、返事をきいても不思議そうな顔をするだけだ。
「えっ、ここが俺とキアラの部屋じゃないの」
「はぁ? ――小娘でも一応女だろ、さすがに同じ部屋じゃマズいだろうがよ」
幸い機械宮にゃ部屋は幾らでもあるしな、と、眺めていたものを懐に仕舞うバート。面倒極まりないという態度だが相手はしてくれる空賊の青年の前で、ジフトは困惑し通しだ。
「まずいって? 何が? どうして?」
「いや、だって小娘も嫌がるだろ。ベッド一つしかないんだぞ」
まるで分かっていないジフトに、バートが片眉を上げて寝室を指してみせる。振り返って自分で散らかした寝台を一瞥すると、ジフトは首を傾げた。
「それの何がダメなんだ?」
本気でぶつけられる質問に、バートの方が息をつめた。半目の中の青い瞳がくるくる思案に対応して回る。おいおい……、と、暫く相手の感情を推し量っていた空賊の青年は、下卑た眼で冷やかすように笑った。
「おまえ、もしかしてあの小娘と寝てんのかよ?」
茶化す言葉に、ジフトは心配そうな表情を崩さず大真面目に頷く。
「うん、いつも――」
狼狽させて遊んでやろうと目論んでいた空賊の青年の方が、その言葉を聞いて動揺した。
「い、いつも、だと……? な、なかなかやるなクソガキ――」
っつーかマセガキ、と、口元を引きつらせている。その反応を見て、流石のジフトも、さっきの寝るはもしかして何か別の意味が含まれていたのかと思い至った。が、とくに今関係のないことなので追求しない。
なんとなく敗北感を味わう羽目になったバートの前に、ジフトが身を屈めて首を傾げる。
「ところで、バートは部屋に戻らないのか?」
話の流れからすれば当然の疑問である。腐る程余っている部屋の一つがバートにも割り当てられているはず、と思ったからだ。人懐っこい焦げ茶の目を正面に見据えて、バートが不服そうに顔を顰める。
「建前上おまえの従者だからな。俺とおまえは同じ部屋だ」
「えぇ?」
対するジフトも同程度に表情を崩して素っ頓狂な声を上げた。ぞわぞわと鳥肌を立てて後退りする姿に、空賊の青年がこめかみをひくつかせる。
「――テメェ……、俺だって望んでやってんじゃねーんだぞ!」
深夜だからか最初は低く抑えた声が、それでもやはり我慢出来なかったらしく、後半裏返った。用が済んだらさっさと眠れ、ガキの就寝時間はとっくに過ぎてんぞ、等々小言をのたまい始めたバートを苦笑いで宥めつつ、ジフトは寝室へ向かう。
戸口まできたところで、ふとジフトが振り返った。
「あれ、来ないの?」
はぁ? と、今度はバートが情けない声を出す。
「何でだよ!」
当然の突っ込みが飛んでくるも、ジフトは小首を傾げるとひらひらと手を振った。
「じゃ、開けとくから」
真意のよくわからない返答に毒気を抜かれ、バートが困惑する。
「お、おう……別に閉めてもいいんだぞ……?」
俺はおまえを監視する仕事があるが、始終見張ってるつもりもないしな、と。言わなくてもわかるだろうと、そういう含みをもっての言葉だったのだが、ジフトはまた疑問符を浮かべた。
「えっ、だって後で来るんだろ」
「んなわきゃねーだろが! 俺はここで寝るんだよ!」
「……ふーん? まあいいや。おやすみ」
全身全霊をもって否定するバートを、ジフトは不思議そうな目で見た後身を翻した。まったく噛み合わない会話がやっと終わり、バートががくりと項垂れる。
「ったく、何がしたいんだよあのガキは」
どっと押し寄せる疲れに任せて膝に顔を埋める。開いた扉の向こう、直線上の寝台では、上掛けの中に潜り込んだジフトが律儀に寄った皺を伸ばしていた。皺一つない真っ白なシーツがくしゃくしゃになるのが、少しもったいないような気がしたからだ。
寝台は、朝と同様に、やはりいい寝心地だった。長屋の腐りかけた床板とは雲泥の差だ。ふとその光景が蘇り、いつも隣で眠っているキアラがいないことに顔を曇らせる。かたく目を瞑ると、ジフトは上掛けを掴んでどさりと身を横たえた。一刻もはやく、睡眠に落ちて意識を逸らしたかった。ふと目を開ければ、寝台横の小さな机の上に、看病してくれたあとがそのまま残っている。その隣に脱ぎ捨てた機械を操る手袋。甲に煌めく赤い石。二つのものがまるで違う世界にあるようで、胸が締め付けられる。
「……寒っ――」
身震いすると、ジフトは両手に息を吹きかけた。手袋を外した、血の通った自分の手。今はそれが悴んで白んでいる。無意識に握りしめた拳の中にあるのは、ただの虚空。ここには誰もいない。暖かい焚き火を囲む気のいい運送機械組合の男性達も、くだらないことを言い合って笑うことのできる仲間も、そして誰よりも大切な――
「おやすみ、キアラ――」
あるはずのない拳の中の温もりを想いながら、ジフトはそっと瞼を閉じた。
帳が下りたはずの瞳に、静かに緑の炎を燃やして。