第二十五話 因子覚醒 前編
夕暮れに染まる貧困街。橙色の光が舐める建物の外壁。腐食の進んだその板の穴から、何か甲高い音が聞こえる。少女の、がなり立てる声。
「だからぁ! あたしは手ぇなんか抜いてませんってば! 補佐としての役割をきちんと果たしたのよ! 作戦にはなかったけど、クラウが失敗しそうだったから、攻撃側にだってまわったのにぃ……」
なのに、降格なんて信じられない。声を荒げて主張していた少女が、不服そうに唇を噛んで俯いた。長い髪が、さらりと肩を流れて落ちる。艶やかな髪に、僅かばかり部屋の中が映り込んでいる。貧困街の中でも特に入り組んだ小路の、迷路の中央にある建物。その中に、ジフトを襲った二人の短剣、クラウとアスエは居た。無論、そこにいるのは二人だけではない。俯くアスエの艶やかな髪に、相対する人影が映り込んでいる。
沈黙が続く空間で、アスエが大きく息を吸い込んだ。不満で頬を膨らませ、再び抗議しようとする少女の眼前に、すいと手が翳される。静かにしろとの合図に、アスエは顔を歪めて吐き出しかけた悪態を止めた。唇の間から、少しだけ空気が漏れた。恨みがましい眼を浴びて、正面に立つ人影が少女をなだめる。
「まあまあ、そう怒るな、アスエ。今回の失敗については、フレン婆様も理解を示してくれているから。不測の事態があっちゃあ仕方が無い。そうだよなぁ、クラウ?」
人影から出た声は、音だけ聞けば耳当たりの良い青年の声だった。話を振られたクラウが、閉じていた灰赤の目を薄く開く。壁に凭れていた身体を起こし、蒼隈のできた下瞼に皺を寄せた。
「ジフト、あの裏切り者……」
心底忌々しそうに、ぼそりと呟くクラウ。ぎり、と音がして、皮の手袋に欠けた爪が食い込んだ。憎悪の炎を充血した目に宿すクラウを見て、人影はやれやれと首を振った。裏をかかれて悔しいのは分かるが、冷静を保てなくては次の仕事も任せられないぞ、と、人影が未熟な暗殺者を諌める。敵意の籠った視線を向けられ、影の男は、それにしても、と話題を逸らした。
「あいつにも困ったもんだなぁ。どれだけ罰与えても組合外の浮浪児にエサやるし。商品連れて逃げ出した挙句、俺達に牙剥いてくるとは。前も逃げ出してたし、二度もするかぁ? 罰が軽すぎたのかな」
ぽりぽりとあたまを掻いてとぼける男。そこへ、フレン婆様はキアラのことをただの商品としては考えてないわよ、とアスエが口を挟む。ふぅん、と、妙に納得したような声が出る。
「まぁ確かに商品にしちゃ、みせに出すのが遅いとは思ってたんだ。ってことはあれか、人質か? ジフトをあの長屋に繋いでおくための。しかし一緒に逃げられたら世話ぁ無えよな」
逃げる場所ができたからな、と、今度はクラウが割り込んでくる。
「制圧で雪崩れ込んできたのは公爵の私兵だった。あいつ、俺達を売ったんだ」
苛々と擦り傷の上にできた瘡蓋を一つひとつ剥がし、クラウが断言する。まだ治っていない傷口から、じわりと血が滲んだ。それはどうかなぁ、と、アスエが異を唱えた。何が違うというんだと、怒りに燃える灰赤の瞳がアスエを睨めつける。それを受け止めて、アスエは長い髪を手櫛で何度かすいた。
「んん、だから……あんたがご自慢の紐刃をとられちゃったときぃ、ジフト言ってたじゃない。『動くな、頼む、動かないでくれ』って」
あれ多分、あんたを傷つけたく無かったからでしょう? と、さらさらの髪を指で弄びつつ分析めいたことをしてみせる。どうだか、と、クラウも負けじと反駁した。
「昨夜のことを忘れたのか? あいつがキアラを長屋から連れ出したとき、仲間が五人も殺されたんだぞ。そのうち三人はあいつの友人だった。殺された奴らも似たような言葉をかけられたんじゃあないのか? ……そして馬鹿正直に奴の言うことを聴いて、殺された」
じゃなきゃ争った跡もなく一発の銃弾で斃されるはずがない、と。握る拳に血を滲ませて力説するクラウに、アスエは白けた視線を送った。あんた相当『短剣』の考え方に毒されてきてるわね、と茶化され、クラウはますます深く眉間に皺を刻んだ。
影の中で二人の話を聞いていた男が、のそりと動いてアスエを指した。
「まあとにかく……アスエ、お前はデジェレ子爵のところへ行ってこい。一週間だ。先方はそれだけ望んでる」
男からの指示を聞いて、アスエの黒目がちな目がこれでもかと円く見開かれる。次いで怒りに顔を真っ赤にして、両拳を構え振り返った。長い髪が、空中に広がる。
「――ッ、だから、何もわかってない!」
降格と、それに合わせて付いて来る新たな任務なんかしたくない。駄々をこねる幼児のように地団駄を踏むアスエの元へ、影の中から男が一歩踏み出した。男が自分に向かって動いたことに気付いて、アスエがぴたりと止まる。不満気な、それでいて怯えたアスエの視線の先には、声の通り人の良さそうな、しかし若干軽そうな青年の姿があった。短くざんばらの茶髪を、作業用眼鏡を額当て代わりにして纏めてある。眠そうに見える若干垂れ気味の茶色い目が、じっとアスエを見つめる。
びくつくアスエの頭へ、手袋をした青年の腕が伸びた。機械を操る手袋。機能だけを重視した武骨なそれが、わしわしとアスエの頭を撫でる。年季の入って擦り切れた革と、埋め込まれた銀線の間に、いくつか髪が巻き込まれた。なぁアスエ、と、顔をしかめるアスエに、青年が幼子をあやすような声音で言い聞かせる。
「かしこいお前ならわかるだろ。紐刃は燃えちまった。もう一度作るには、大量の魔石が要る」
金が要るんだ、大量にな。撫でていた手を止めて、青年が目を細めた。頭に置かれた手は、そのまま動かない。青年が身を屈め、その眼をアスエに近づけた。ぐ、と、頭を押さえる手に力が入る。革の軋む音がする。
「おまえが一番、金を稼げる」
青年を見上げるアスエの顔を、影が覆っている。青年から伸びる腕の影と、己の内側から出る絶望の影と。見開いたまま逸らすことも瞬くことも出来ない瞳が、じわりと潤んだ。震える頬の輪郭を、涙が伝う。手は、離れない。声も出さず泣く少女を押さえつけたまま。
「ほんの一週間だ――丈夫なお前なら、多少のことなら無事で帰ってこれるだろ」
子爵にも今度は壊さないように話はつけてあるから、と。目を細めたまま、青年はアスエの瞳を覗き込んだ。アスエ、と、耳当たりの良い声が、あくまで穏やかに少女の名を呼ぶ。聞き分けの悪い妹を諭す兄のような口調で。
「組合のためなんだ。――わがまま、言うなよ」
有無も是非も問うていない言葉だった。それを吐いて、青年が屈めていた身を起こす。ぐ、と、押さえていた腕がひときわ強く頭を押して離れた。震えるアスエの視線が、影の中へ戻ろうとする青年を追う。爪が白むほど握りしめた拳が微かに揺れ、上ずった声がその唇から漏れた。あ、あ、と言葉にならない音。白を通り越して蒼くなった唇を噛み締めて、アスエは俯いた。
「あたしのほうが、クラウより強いもん……」
やっとの想いで紡いだ精一杯の強がりの言葉。それだけを口にして、アスエは黙った。握りしめた紗のスカートに、汗が滲んでいる。切れ込みから、毒々しい原色の刺青がその存在を主張していた。振りかざされた短剣と、それに散らされる花。
半身を影の世界に踏み込んだ青年が、呆れたような哀れんでいるような、温い視線を投げつけた。
「短剣使いの代わりはいくらでもいる」
だが紐刃を扱えるのは、クラウだけだ。僅かに残った自尊心すら叩き壊す台詞を聞いて、アスエの俯いていた頭はさらに沈んだ。腐蝕の進んだ床板を、涙が濡らす。遠くで、野犬狩りの声と不運な犬の断末魔が聞こえた。廃墟の中は、沈黙に満ちている。
「要は、魔石さえ集まればいいんだろう」
静寂を、クラウが破った。屈辱に震えるアスエの背中を眺めていたままだったクラウが、影の中の青年を睨んだ。青年は片眉を上げて、しかし飄々とした雰囲気は崩さずにその様子を見守っている。灰赤の瞳を逸らして、クラウは腰掛けていた廃材から立ち上がった。ぱらぱらと、剥離した木片が床に散乱する。
「金を稼ぐ必要は無い。俺が魔石を揃えてくる」
そのかわり、と、クラウは右手を握り締めた。軽い火傷を負った掌が、包帯を巻き込んで音を立てる。
「あの裏切り者――ジフトは、必ず俺が殺す」
俯いていた灰赤の瞳が正面を見据えた。その先に居る青年が、ふぅと短く溜息をついて肩を竦める。だがクラウの視線は青年に向けられてはいなかった。その先の、廃墟の壁も大通りもこえた先にある、機械宮。左心の手袋で勇心機甲を操る、公爵の手先。アガシャの狗、ジフト――。
爛々と殺意を燃やす灰赤の瞳。隣に立つアスエが、そんなクラウを不安気に見つめていた。
暮れゆく夕空の下、橙に染まる機械宮。その一室、シュウの宿泊している部屋で。ジフトは、小さな円卓の席の一つについていた。正面にはもう一つの椅子とそれに座るシュウの姿。中庭に面した窓が開け放たれていて、レースのカーテンを揺らしている。すこし、涼しかった。
向かい合って座る二人の間には、美味しそうな焼き菓子が置いてある。おそらく血苺製品だろう、独特のあの甘い香りがした。黙って座っているジフト達に、これまた血苺の干した実を煎じた茶が配膳されてきた。噎せ返るほどの甘い匂いに、ジフトはきゅっと目を瞑り、くらくらする頭を左右に振った。シュウが作法を守って茶を飲み、それを見てジフトも口をつける。熱い飲み物を嚥下して、ほっと一息つくジフトへ、シュウが気遣わしげに問いかけた。
「……落ち着いた? ジフト――」
「……う、うん」
やや間を置いて、困惑した表情のままジフトが首肯した。空になった茶器を皿に下ろすと、傍らで控えていた質素な服を着た女性が間髪をいれず二杯目を注ぐ。淹れられたら飲むものだと思っているジフトはそれも飲んだ。器を空けると、皿に置いた途端また女性が茶を注いだ。逡巡の後、半分だけ飲むとジフトは茶器を下ろした。注ぎ足されて満杯にされた。
「……」
ちろりと脇に立つ女性を見上げると、優し気な灰色の瞳がこちらに向かって微笑んでいた。その微笑みからなんとなくもっと飲め、という無言の圧力を感じ、しょうがなくジフトは三杯目に口をつけた。空けてこれもなお、おかわりを注がれる。飲んでも飲んでもキリが無いと悟ったジフトは、飲みたいときだけ飲むようにしよう、と決意した。視線を茶器からずらすと、卓上に置いてある手鏡が見えた。さっき馬車の中でシュウが使った手鏡だ。そこに映る目は、もうはっきりと緑にはならず、よく見れば瞳孔と虹彩の境界が僅かに変色しているのみのところまで、戻っていた。
「目の色も、ほとんど元通りだし」
鏡に映る瞳を見て、胸を撫で下ろしながらジフトが言った。卓上の鏡を覗き込んだままのジフトの正面で、シュウが懐から金の懐中時計を取り出す。
「治るのに、だいたい半刻かかったね」
「それって遅いの? それとも速いの?」
瞳の色が戻ったことで安心したジフトが、両腕を卓の上に預け、体重を掛けて前のめりに尋ねる。沈黙して、ふいと視線を逸らすシュウ。あー、遅いんだ……、と、ジフトが冷や汗をかきつつ苦笑する。金時計を懐に仕舞うと、シュウは空色の目を伏せた。
「普通の適応者なら、数秒か数分ってところだからね」
馬車の中で魔石を操ってみせたシュウの様子を、ジフトは思い出す。
「確かに。シュウの目は一瞬で光がおさまったもんな」
納得するジフトの脳裏を、東の市裏の廃墟以降のできごとが駆けていく。馬車で魔石を、それを扱う様を、そして自分の瞳の変色を見せられたときは、ジフトは動揺のあまりそのまま馬車から飛び降りて逃げ出そうとさえした。慌ててそれを取り押さえたシュウから、瞳の変色は時間が経てば元に戻ると教えられ、そこでなんとか正気を取り戻した。後は機械宮に到着するまで、正面で宥めすかしの言葉を掛けてくるシュウに生返事をするばかりだった。
そして今、シュウは約束通りに、魔力と瞳の関係について話してくれている。
つう、と、シュウの指が茶器の縁を撫でた。飲み口が少し濡れたそれが、撫でられたことで振動して、りぃん、と澄んだ音を出す。祭りのときに、そんな原理で鳴る楽器を見たなぁ、と、ジフトは胸中独り言ちた。もっとも、あれはもっと沢山の大きさのものが並んでいて、しかも薄い真鍮でできていたのだが。
――というより、と、シュウが茶器の縁から指を離して続ける。
「きみが特殊なんだ。普通の人は、魔力の色と瞳の色が同じだから、目立たないんだよ」
「どうして俺のは色が違うんだ?」
目立つじゃん、と、迷惑そうに眉を寄せてジフトが口を尖らせる。それは……、と言い掛けて、シュウは空色の瞳をするりと脇へ向けた。身を乗り出して答えを待つジフトの前で、シュウが目をきつく瞑る。眉間には、微かに苦悩が刻まれていた。
「ジフト、きみ昨日、親指に怪我したよね」
僅かな間の後、シュウが思い切って顔を上げ、尋ねる。急に振られた話題に、ジフトは取り繕う暇もなく椅子の上でびくりと跳ねた。
「えっ、そ、そうだったっけー?」
「ごまかそうとしなくていいよ、治ってるって知ってるから」
白々しい上ずった声を出すジフトへ、シュウが呆れ気味に釘を刺す。焦げ茶の円い目を何度か瞬くと、ジフトは合点がいったとでもいうように、明るい表情でシュウを指差した。
「もしかして、シュウも傷治るの速いんだ? 歩くの速いもんな!」
「違うよ。何言ってるんだきみは」
「えっ……」
間髪入れずに否定され、ジフトの顔から一瞬で血の気が引いた。しまった。これじゃ認めたと同じだ。どっと吹き出す汗を拭うようにズボンの膝頭を握りしめる。俯いて揺れる紅い液面だけを見つめるジフトへ、シュウは若干気を遣った声で答えた。
「きみの目の色の治りが遅いのはね、変色した瞳を治癒で元に戻してるからなんだよ」
え、と、シュウの説明を聴いてジフトが面を上げる。
「じゃあ、俺――魔力使う度に目に怪我してるようなもんなの?」
つまり魔力と相性が悪いってこと? と、疑問符を大量に飛ばす。シュウは、飲み終わった茶器を横へ退け、卓の上で指を組んだ。前髪が顔に黒い影を落とす。
「……正確には、魔力で損傷しているわけじゃない」
適性だって低いわけじゃない、むしろある一点においてはずば抜けてるはずだ。そう、シュウは唇を動かし紡ぐ。組んだ指を解くと、シュウは懐から何か取り出した。手のひらの上で、赤く輝く。さっきの魔石、と、ジフトが呟く。シュウが頷く。
「うん。……実はこれ、地下の迷宮で拾ったものなんだ」
ジフトの頭上にまた疑問符が浮かんだ。
「あれ? いつの間にそんなの見つけたんだよ?」
落下直後の怖がってたときか、バートに捕まる直前か、それとも小舟に乗る寸前か? 記憶を掘り返しながら考えるジフトの耳に、シュウの抑えた囁きが入る。
「きみが、『意思を持つ壁』と契約する、直前」
「 ――!」
囁く声は小さかったが、それでも記憶を呼び覚ますには充分だった。あの時か、と、嫌な汗がジフトの頬を伝う。見開いた焦げ茶の瞳に映るシュウが、すう、と大きく息を吸い込んだ。
「魔力をためた鉱石、通称『魔石』は、特定の年代の地層から大量に発掘されている」
唐突に堅い言葉で喋り出したシュウへ、ジフトは怪訝な顔をしてみせた。おそらくこれはシュウの言葉ではないな、と、ジフトが思案する。さっき説明をするときに、沢山本を読んでいたと言っていたし、その中からの引用かなにかなのだろう。
推察するジフトの前で、シュウは息を吸った勢いのままさらに言葉を続けた。
「特定の年代――その一つは、竜が生きていたと言われる数億年前。クヌト山のような海底隆起で出来た山、水の都の北部、カナン砂漠などから、強力で巨大な魔石が出土している。発掘された魔石には、火、水、そして光、何れか一つの属性が必ず確認される。現行の魔術で扱われる他の属性を持つものはそこからは発見されないんだ。何故、この三属性なのか――理由も見つけられぬまま、いつしか民間では『伝説の三竜』というそれらしき理由付けが成された」
「でんせつのさんりゅー?」
聞いたことない、と、後頭部で腕を組んで、ジフトは椅子の背もたれに身を任せた。密度の高い木で組まれたそれは、絹織りの背凭れで勢いを受け止め、前脚が軽く宙に浮くだけですぐに戻った。その三竜って言うのは、と、シュウが説明する。
「それぞれ火、水、光の属性を持っているんだって。――でも、実際は魔石ばかり見つかって、本体の化石が一つも見つからないから、竜は空想の生き物っていうのが定説なんだけどね」
見つかる魔石も、骨格ではあり得ない形をしたものばかりだし、と。一息つくシュウの前で、ジフトはぽりぽりと鼻の頭を掻く。えーと、だとか、つまり……だとか、散々考え込んだあげく、わかんないや、とジフトは投げた。
焼き菓子に手を伸ばすジフトの前で、シュウは真剣な表情を崩さない。
「……この話は、続きがあるんだ」
理解が追いつくのを待つように、一呼吸置く。焼き菓子を齧ったジフトが、言葉に惹かれて眼を上げた。サクサクの皮の中から、どろりとした甘い糖蜜が出て、ジフトの顔を冷や汗が伝う。あまり好きな味ではない。
もう一つ――と、シュウの指が卓上を掻いた。
「もうひとつの年代。最近調査が進められている地層。二百年前の、英雄アガシャ王が歩んだ道程から、未知の生物の骨格と共に、大量の魔石がみつかったんだ」
みちのせいぶつ、と、鸚鵡返しにジフトが言う。今まで知られていなかった生き物のことだよ、と、一応砕けて言い直すシュウ。糖蜜を飲み込めず微妙な表情をしていたジフトが、傍らの茶に気付いて無理矢理流し込んだ。でも二百年前の生き物なんだろ、と、額の汗を拭いてシュウを見る。空色の瞳は、こちらの様子を窺うように、まっすぐだ。よく聴いて欲しい、と、わざわざ前置きしてシュウが口を開く。
「その生き物の大きさは人大から小山ほどと、まちまちだったんだけどね。特徴が、ほぼ当てはまるんだ」
あの、伝説上の竜と――
確かに、シュウはそう言った。
ジフトの頬を、汗が伝う。
向かい合うふたりの視線は、互いを見つめていた。空色の瞳が冴えた月光を受けて冷たく輝いている。陽は、とうに落ちていた。ひくりと口元を痙攣させると、ジフトはそれから眼を逸らした。卓上に握りしめた自分の拳へ視線を逃がす。はは、と、乾いた笑いが喉を鳴らす。
何を言っているのかわからない。――最初は、そう思考した。しかし、馬車から今の話までの間でくどい程撒かれてきた謎を、点でなく線と見るなら。婉曲した言の葉を一つ一つ繋げるのなら。
意味は通る。
しかし、それに気付いてはいけない。気付かれては、いけない。
外気が窓から忍び込み、ジフトの日に焼けた肩が、震えた。拳に握り込んだ親指に、意識が自然と向かう。『壁』と契約するために傷つけた親指。公爵に検められたときには既に、完治していた。それを随分速いの一言で片付けた公爵。傷が治ったと知っていると言うシュウ。
魔石を魔石だと教えられた、馬車の中でのこと。何故『花と短剣』が自分を支配したがったのか、そのわけを理解した。どうして、定期的に痛め付けられるのか。罰だと思っていた。大人は気付いていないと思っていた。いや、望んでいたんだ。
視線が、白くて円い卓の上を彷徨う。
ジフト、と、シュウが呼ぶ声がする。眼は上げられなかった。
人間にも魔石と同じ成分を体内に持ち、魔力を操るものがいると、シュウも言っていたじゃないか。そう思いながら、高まる鼓動を聞き流そうとする。それだけなら、まだ大丈夫だ。平気なんだ。
――違う、それじゃ終わらない。
シュウが示唆した点は、まだ残っている。引かれた線の先に待つ――
がたりと、大きな音をたてて、ジフトは席を立った。
「……あー、ごめん。そろそろ帰んなくちゃ。キアラが心配する」
「きみには王家の血が流れてる」
くるりと向けた背に、立ち上がる音とともにシュウの言葉が浴びせられた。冷や水を被ったように、ジフトの身体が硬直する。恐る恐る振り返った先に、まっすぐこちらを見つめる空色の瞳。やめろ、と、ジフトの中で何かが警告する。点と点を繋ぐな。その先を知るな。
もし、それを知ってしまえば――
布に巻かれた左腕が震えた。真剣な視線に抗いきれず、ジフトはため息を一つつくと、後頭部を掻いた。
「んん……、何言ってるか、全然わかんねーけど。一応訊くぞ」
おどけているように、気にもかけていないというように。
そう在ろうとするのに、声は低くなり、目付きは鋭くなっていく。
「――どうして、そう思った?」
返答によっては――そこまで考えて、ジフトは我に返った。一体、何をしようというんだ、と。シュウはただ、知識を教えてくれているだけなのに。片手で顔を覆うジフトへ、宵闇を切り裂くようにはっきりと、シュウが答える。
「アガシャの秘密を知ったから」
聴いて、ジフトが俯く。シュウはおそらく点を点と見ない。既に線が出来上がっているのだ。己の頭の中で。……できれば、気付かずにいて欲しかったのに。
ジフト、と、切実な様子でシュウが呼ぶ。
「ぼくは、……ぼくは、きみに知ってもらいたいんだ。アガシャの秘密を、真実を――」
明日の朝、と、続ける。
「共和国へ留学するブラッドベリー女史を見送るため、セシル公爵は機械宮を離れる。監視が少なくなるはずなんだ。そのとき、きみに今まで話したことの証拠を見せる。……一緒に来てくれ、ジフト!」
向けられた空色の瞳は、どこまでも真直ぐで澄んでいた。
永い沈黙。
凍りついた部屋の中で、ジフトの表情だけが時間とともに変化していった。少しずつ、すこしずつ、凶悪な顔から戸惑った顔へ。早鐘の如く脈打つ心臓に、胸の上から爪を立てる。わからない、と、荒れた唇から言葉がこぼれた。秘密を知ったシュウを消そうとする狂暴な衝動と、全てを打ち明けたい、頼りにしたいという思い。どちらが、素の自分なのか。どちらが、自分を守るために創った仮面なのか。公爵との会話が脳裏に瞬き、足元が揺らぐ。後から付け足した方こそ偽物のはずだ。では何故こんなに迷うのか、それは……。瞬く記憶の欠片の中で、キアラの顔がちらつく。ひりひりと爪を立てた皮膚が痛んだ。――均衡が崩れかけている。
「ジフト、ぼくは……っ」
様子がおかしくなってきたジフトへ、シュウが口を開く。おそらく説得のために発したであろうその言葉は、しかし、限界にいたジフトの意識を決壊させてしまった。
震える右手が、ジフトの顔を覆う。表情を隠そうと。わかんねー、と、絞り出すような声が聞こえる。
「――どうすりゃいいか、もう、全然わかんねーんだよ!」
語気を荒げて混乱を吐露するジフトの前で、シュウがびくりと一瞬たじろぐ。冷たい夜気がカーテンを激しく揺らした。
「自分が『何』かなんて、知りたくない、だけど――だけど、俺はッ」
抑えた額からどっと汗が噴き出るのを、ジフトは自覚した。全身の震えが止まらない。吹き込む夜風のせいではない。芯が凍えているからだ。感情の根源が、こころが、その存在を脅かされているからだ。
たった一つの思い出と、それを忘れぬよう想起させるための像。傷つけたくない。恐れられるのは嫌だ。離れたくない。
側に居るだけで、ただそれだけで――。
「俺は……、あいつの、そばに居たい。だから……」
そのためには、どんな事だってすると、決めたから。嗚咽まじりに言うジフト。俯き影を濃くする姿を見て、シュウが気遣わしげにジフトの名を呼ぶ。
震える右手が、顔を離れた。薄茶の前髪の間から、緑の光が透けている。
「――俺は、俺の正体を確かめる」
風が凪ぐ。
内燃する魔力で変色した瞳から、涙が一筋、伝い落ちた。
機械宮の廊下。昇りはじめた二つの月が、窓から青い光を差し込んでいる。所々灯るあかりに照らされて、白衣の女性が一人、ある一室の鍵を解錠していた。金属板の上に翳した指先を、光がひとつひとつ舐めて通っていく。生体認証が完了しました、と、頭上から合成音声が降り注ぐ。扉が自動で開き、女医は部屋の中に一歩踏み込んだ。真直ぐ見つめた視線の先に、背を向けた長椅子と、そこにぐったりと身をもたせかける人影があった。
「フォクス伯との対談は無事終わったかしら、リオナード?」
人影に声をかけると、もぞりとそれが動いた。天井を仰ぐ額に乗せていた手を下ろし、黄緑の瞳が気怠げに女医に向けられる。
「……やぁ、君か……キュベレー」
にこりと微笑んで見せる公爵の、声には疲労が滲んでいた。くす、と、キュベレーが笑って、つかつかと長椅子に歩み寄る。
「その様子だと、なかなか大変だったみたいね」
席には座らず、その場でくるくると戯けてみせる。長い髪が弧を描いて、甘い匂いが香った。それを大きく吸い込んでから、公爵が椅子から身を起こす。勢いそのままに額に手を当て俯くと、張り詰めていた息を吐いた。
「ああ……ついムキになってしまってね……」
長く座っていてよれた服のしわを伸ばしながら、弱々しい声を漏らす。俯く公爵の正面、低い卓の上に広げられたものを見つけて、キュベレーが動きを止めた。あら、陣戦棋してたの、と、駒の散らばった盤の近くへしゃがみこんだ。
「ふーん、どれどれ――っと」
楽しげに盤を眺めて対局の筋を遡ろうとするキュベレーの前で、リオナードが二度目の溜息をつく。額に当てた手で前髪を何度も掻きあげて、乱れたそれが幾筋か垂れる。しばらくも経たないうちに、キュベレーは大体の流れを読んだようだ。紅を引いた唇に細い指を当てて、なるほどね、と呟いた。
「――この感じだと、焦って陣を拡げようと出た白が、左右の黒に挟み撃ち……いえ、白が陣を拡げることすら誘導されているわね」
白い指先が、同じく白い駒を摘まむ。
「中盤までは互角だった争いも、それで均衡が崩れて白の大敗。ってとこかしら」
途中で投降したのだろう、最後の一手を打つと、キュベレーは駒から指を離した。その通りだ、と、リオナードが三度目の溜息をつく。浮かない顔の公爵に気付いて、キュベレーは慌てて明るい声を出した。
「ま、まぁ……いいじゃない別に、一回くらい負けたって気にすることないわ! あなたいつもわたしに勝ってるし」
それにきっと手を抜いて打ってあげたんでしょう? と、落ち込むリオナードの肩に手を触れ慰める。終局した盤を前に、違うんだよキュベレー、と公爵が口を開いた。気持ちは有難いんだが、と、前置きを置いて。
「勝ったのは僕だ」
肩越しに二人の視線のが絡む。キュベレーが数度、まばたきする。絶句の後。
「て……手加減しなさいよ、あなた……」
これ接待試合だったんでしょう、と、完膚無きまで白を叩きのめした盤面を見下ろし、キュベレーが冷や汗を流す。わかってる、と、呻きながらリオナードが綺麗に撫でつけた髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「わかってたんだが、つい――!」
そのまま俯くリオナードの、顔を覆う指の間から漏れ出る呻き声を、キュベレーは呆れ果てた表情で聞いていた。