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第二十二話 花と短剣、そして天下無敵 前編

 傾き始めた日の光が、廃墟の割れた窓から降り注ぐ。空中を揺蕩う埃がそれを反射して、橙色の天につながる梯子が現れては消えることを繰り返す、茫洋として朦朧とした午後。

 熱に浮かされるように前へまえへと進みながら、ジフトは自分を虜にしている人型の機械へと手を伸ばしていた。


 遠く、会話の音が聞こえる。

 

 音。人の声だと認識はできている。公爵の部下エオニウスと、空賊頭領のミランダの声。しかしその内容は、一片たりとも理解できなかった。――理解するための理性は今、麻痺している。


 焚き火に誘われる夜の蛾が如く、光るものを求めて地に降りる鳥が如く。


――駄目だ、今動いたら……せっかくあの二人と話し合ったのに――


「これは……ここに書かれていることは、本当なのか」


 前に立っていたはずのエオニウスの声が後ろから聞こえる。黄金に輝く人の形をした機械が、もう数歩歩いたら届く距離に来ていた。元いた場所に戻ろうと試みるが、足の指一つまともに動かせない。うぅ、と、情けない呻き声がわずかに開いた口から出ただけだった。


 固定された視線の先で、機械の首に下がる何かが怪しい光を強くする。

 瞬きも許されずそれを見つめさせられて、胸中渦巻く焦燥すらも霞がかった酩酊感に覆い隠されていく。


――あれ……どうしたんだよ、俺……?


 さっきまで考えていたことは何だったっけ、と、じりじりと動き続けながらジフトは微かな疑問を抱いた。


――足が勝手に……? 何だよこれ、これじゃまるで、いやいや……というか俺って、そうか操られてるのか!


 思考が現実にようやく追いついたそのとき、ジフトの身体は目の前の金属の壁にぶつかった。反動で倒れそうになるジフトの肩をひんやりとした腕が捕まえる。視界からあの輝く謎の物体が消えたジフトの目に光が戻った。警戒してすぐには離れようとせず様子を伺うジフトの視線が、麻の外套の袖口からのぞく鱗を連ねたような指に注がれた。刺々しい意匠のそれは、人の肌などいともたやすく切り裂いてしまえそうである。

 戦慄とともに、自分を捕らえるものを分解したいという衝動が背中を駆け上がった。恍惚の表情を浮かべたまま生唾を飲み込み、そろそろと機械へ手を伸ばすジフトの耳に、再び公爵の部下エオニウスの声が聞こえる。


「こ、こんな内容を――信じろと言うのか」


 そのあまりにも切迫した物言いに、ジフトの焦げ茶の目が肩越しに視線を送る。


 エオニウスは、公爵から全権を任された代理交渉人は、震えていた。ミランダから渡された一通の手紙を握り締めて。

 抉るような嫌疑の視線を、空賊頭領ミランダは静かに、しかし真っ直ぐに受け止めていた。


「信じるかどうかは、あなた達次第よ」


「ふ、ふざけるな」


 自らは肯定せず相手に判断をさせようとするミランダに、エオニウスが声を荒らげる。一歩進み出ると同時に、彼の背後の、階段下から小さな物音が聞こえた。一瞬エオニウスの勢いが削げ、その場に踏みとどまる。ミランダも、青緑色の瞳を数度、まばたきで覆ってみせた。






 三階建ての廃墟、階段下。次第に蒸し暑くなってきた暗い空間の中で、ロザリア軍兵士のエミールは両膝を抱えながら事の成り行きを固唾を飲んで監視していた。汗のにおいに惹かれて来たのか、割れた窓から入った小蝿が迷惑な羽音を撒き散らし不愉快な軌道を描いてエミールの周りを飛ぶ。寒すぎても体力が減るが、暑すぎるのもそれと同等かそれ以上に気力体力を削られるのだ、と、エミールは下唇を噛み締めつつ思考した。ぬるみを帯びた汗が、顎から滴り落ちて服に染みを作る。

 ちっ、と、らしくなくエミールは音を出さず舌打ちした。


 明るい室内では、ミランダが公爵の部下に何か手渡している。何か、としか判断できないのは、こちらからでは公爵の部下の背中に隠れて何が渡されたのか視認できなかったからだった。つい先ほどまで皆適当にばらけて、監視しやすい位置だったのに、ミランダと公爵の部下が移動したのだ。丁度、エミールの視線の直線上へ並ぶように。


――勘付かれたか? いや、まさかな……。


 一応事前に室内を調べてみたが、ここはどこからも死角になっている。もともと倉庫か何かだったのか、この階段下は奥行がかなりあり、照明をつけなければ中にあるものが人か荷物か影になって見分けることもできない。ついでに階段壁側のタペストリーが腐食して落ちてきて、カーテンのように入口の上半分を覆っているので、入射角の鋭い夕日が奥まで入り込むこともない。まさに隠れるにはうってつけの場所なのだ。……あまりにも最適な場所すぎて、逆に誰かが忍び込んでるならここだろう、と思われるとまでは、エミールは考えることができなかったのだが。

 執拗に目のふちにとまって体液を舐めようとする小蝿を追い払いつつ、エミールは少しだけ身体を傾けて二人の間で交わされた言葉へ耳をそばだてる。


 ロザリア軍上層部からの通達、という単語を聞き取って、エミールの背筋が凍った。


――あ、あの手紙は、昨日少佐が渡した――? まずい!


 マキナリー側に、作戦が知られてしまう。


 しかし階段の暗がりで膝を抱える一兵士に成すすべもないまま、機密事項は敵方に伝わってしまった。

 鷹揚一辺倒だった公爵の部下が、背中だけ見ても判るほどに動揺している。絶望で目もくらむ中、唯一の救いは作戦の内容の信憑性について公爵の部下が疑っていることだけだった。それもそうだろう、エミール自身も例のあの上官から作戦の全容を聞かされたときは我が耳を疑ったほどだ。――が、だからこそ、不意打ちでなければ成功率がぐっと下がってしまうものだからこそ、機密の漏洩は最大の痛手なのだ。それだけでない、今は……。


 とにかく上官に全てを報告するため、一言も聞き漏らすまいと、エミールは膝を抱えていた腕をほどいた。ほんの少しだけ前に進もうと床に手をつく。それがまずかった。みしり、と、釘の抜けかけた床板が軋む。先ほどとは別の意味でエミールの背筋に冷感が走る。ごくりと生唾を飲み込み外の様子をうかがえば、ミランダも公爵の部下も、沈黙して周囲へ耳をそばだてている。

 鼓動が、一気に速くなった。先ほどから続いてる静寂が憎い。市についたときは耳を塞いでもまだうるさいほどの喧騒があったというのに、廃墟の外は今や完全な無音に徹していた。人の声どころか犬の鳴き声もせず、風は凪いでいる。

 耳に入るのはただ、鼓動の音と蠅の羽音、木材の軋み――。


――軋む、音?


 はっ、と、エミールは視線を床についた自分の手に落とした。失態をやらかした手は、あれから少しも動かしていない。重心の移動さえもしていない。軋むはずがない。音は出ない。それは不可能だ。しかし音は、聞こえる。

 まばたきすら止め、エミールは聴覚に全神経を集中させた。床下を何かが移動している。丁度、エミールの真下あたりを。いや、それだけでない。天井からも梁を軋ませて何かが迫っていた。

 ちゅうちゅうと、甲高く詰まった鳴き声がする。それを聞いて、エミールの腕に鳥肌が立った。


――鼠じゃない。


 断じて鼠なんかではない。この軋みは、そんな小さな生き物が出すものではありえない。そして、鼠はこんな鳴き方なんてしない。こんな――軍で使う符丁のような鳴き方は。

 それは一定の規則性に従っていた。動物の思考ではない。人間の考えた、作り出した、長短を組み合わせて意味を生む暗号の一種だ。


 前進することも後退することもできず、エミールは情けない姿勢のまま、震えだそうとする身体を必死で制していた。


 汗でへばりついた髪の下、頭蓋のなかに浮かぶ脳で繰り返されるのは、船を降りる直前に老練の兵から言われた忠告。


『機械の都は華やかなところだ。世界の富の半分がそこにあると言っても過言ではない。だがな、これだけは決して忘れるな。いいか――雪のすぐ傍に咲く華を、何故儂らはこれだけ長い間手折れなかったのか。それは――』


 不可視の結界。機械の防壁。


 刻まれたばかりの記憶の中で、老兵が枯れ枝のごとき指をひとつふたつと折る。


「……は、……」


 『花と短剣』。


 だらだらと垂れる汗に濡れた顎が下がり、からからに乾いた喉からわずかばかりの息が漏れる。

 緑の混じった青い瞳を苦しげに歪めて、エミールは数刻前の自分を呪った。何故、見逃した。あの前兆を。花の刺青を。死神の影を。

 いいやそれだけじゃない。市場が沈黙した理由を、深く考えるべきだった。


 すえた腐木のにおいに混じって、甘い香りがかすかに漂う。


――嫌だ。こんなところで死にたくない。


 故郷から遠く離れた土地で。家族に再会することも叶わずにだなんて。

 

 一際大きく、梁が鳴った。ぱらぱらと朽ちた木材の欠片が床に降る様子を見つめるエミールにできることは、胸中で祈りの詞を唱えること、ただそれだけだった。






 機械の腕に拘束され身動きとれずにいたジフトは、頭上から響く鼠のような何かの声に身を固くしていた。


――動いた。


 さきほどまで感じていた陶酔からはすっかり覚めた。氷水のような血流がどくどくと、体中に冷寒を巡らせている。指先が冷えていくにつれて、頭脳に血液が集められる。これから起こる事態に備えるために。


 首を動かせる範囲で廃墟の中の、皆の立ち位置を確認する。……大丈夫だ、と、ジフトは早鐘のごとくうつ胸を鎮めようと自分に言い聞かせた。皆、ちゃんと教えた通りに『仕掛け』の線上からは外れて立っている。もちろん、この黄金の人型機械と、それに捕まえられている自分も。とりあえず初撃は回避できそうだ。だけど。


 ちゅうちゅう、と、今度は床下から声が聞こえる。より鼠らしい自然な鳴き声。

 その音に、ジフトはわずかに顔をしかめた。

 

 相手は複数。それも、『誰』が来るのか、わからない。『仕掛け』から、一人は特定しているが、あとは全くの未知だ。

 知らない奴が来てくれれば、と、願う反面、よく知った相手ならば対処もできると考える。汗でじっとりと濡れた手の平が、拳を作る。


――この拳は、


 固く瞑った目。瞼に映るは月影に瞬く短剣、鮮血。


――俺の、この手は――


 そのさらに奥に浮かぶ、幼馴染キアラの笑顔。


 みしり、と、梁が軋む。それを合図に、ジフトは目を見開いた。轟音を立てて、天井板が崩れ落ちる。砂埃とともに、何かが落下する音が聞こえた。同時に、発砲音。


「――ッ」


 反射でナイフに伸ばそうとした手を黄金の機械が邪魔する。放せと暴れるとますます拘束が強くなる。無理矢理首をひねって背後を見れば、煙の中で人頭大のものが転がっていた。さらにその向こうには、硝煙立ち上る銃を構えたバートの姿が。険しく細められた隻眼、その上の金色の眉が怪訝そうにぴくりと動く。瞳孔が拡大する。


「なん……だと……」


 煙が晴れる。視界が開ける。公爵の部下エオニウスが、ヌワジ、と、喉奥で息を引きつらせて誰かの名を呼んだ。ジフトがその名を聞くのは初めてだったが、それでも誰のことを指しているのか、理解してしまった。

 床に転がる無残な肉塊は、僅かだが昨夜の護衛の面影を残していた。


「うっ――く」


 身動きできないまま、ジフトが嗚咽を上げる。胃の内容物が喉までせり上がってくる。過酷な拷問の痕が残る頭部だけの死骸から眼をそらし、ジフトは首を二、三度振った。それでも吐き気が収まらない。皮を剥がれ晒された筋繊維が目に焼きついて、生きていた頃の顔と交互に明滅してしまう。かつてヒトだった死骸は、脳が認識を拒否するほど壊れていた。

 あまりにもむごいその様に耐えかねたのか。エオニウスが動いた。胸元の大判ハンカチを取り出し広げる。おそらく骸を覆うためだろう。歩み寄ろうとする公爵の部下へ、ジフトは、動いては駄目だと声をあげようとした。――が、既に遅かった。

 飛び散る赤。短い呻き声。


「何事だっ?」


 ぱたぱたと音を立てて指だった肉片が床に落ちるとほぼ時を違えずに、空賊頭領ミランダが腰に下げた剣に手をかけた。


「――動くな」


 頭上から降る声に、ジフトの身が震える。慈悲の欠片もないそれは、持ち主の性格を如実に表現していた。天井の残りが崩壊し、吹き抜けの上階が露わになる。侵入のため切り取った壁から注ぐ陽光を背負い、濃い影の中、声の主はジフトたちを見下ろしていた。

 茶鼠の髪。灰赤の目。分厚い黒革の手袋の上に、いくつも嵌めた銀色の指輪がぎらぎらと煌めいている。ついと手を動かせば、指輪から一本ずつ伸びた細いほそい紐刃が廃墟の宙で揺れる。その一つは、今まさに切り落とした指の血で赤い弧を描いていた。


 クラウ、と、頭上を見上げるジフトの口から言葉が出る。梁の上に立つ影の名。茶鼠の髪の下からのぞく灰赤の瞳は鋭いが、その顔はまだ少年のものだった。そう、ジフトと同じくらいに。


 かすかな囁き声すらもみみざとく聞きつけて、クラウと呼ばれた少年の赤い瞳がちらとジフトを一瞥する。不快そうに下瞼を歪めて皺をつくると、灰赤の瞳をもつ少年は視線を空賊頭領と公爵の部下へ落とした。


「少しでも動いたら、殺す」


 脅しではない。事実を伝えているだけだ。空間中に張り巡らされた紐刃は、少年の意思ひとつで如何様にもどんなものでも切り裂くだろう。ただ、ジフト達が立っている場所を除いて。

 彼こそが、『仕掛け』を設置した人間。ジフトが予見した襲来者――紐刃と鉄爪使いのクラウ。


「……っ、貴様が、……を……よくも……ッ!」


 震える手を押さえるエオニウスが、姿を現した刺客を睨めつける。ぽたぽたと止血しきれなかった血液が床に落ちて、腐敗しかけた肉の臭いに鉄のそれが混じる。脂汗を流し肩を上下させている公爵の部下へ、少年はこれ以上ないほど冷たい視線で応じてみせた。


「先に手を出してきたのは、お前達の方だ」


 荒れて乾いた唇が、怒りを押し殺した言葉を紡ぐ。その男は仲間を二人殺した。そこの眼帯は三人を殺した。訥々と、少年は灰赤の瞳をぎらつかせて一方的に喋る。


「その男は報いを受けた。だがそれだけでは『足りない』。わかるな? 俺達が殺した数はまだ一人だけだ。あと四人――」


 少年の視線が、廃墟一階で身動きできないジフト達一人ひとりの上を舐めるように通り過ぎていく。

 これで丁度四人になる、と、赤い舌が上唇の輪郭をなぞる。血に飢えた眼差しは、まさに夜陰に生きる肉食獣。


 剥き出しの殺意に当てられて、ジフトの頬を冷や汗が伝った。知らず、足が震える。梁の上に居るのは、数年前までともに遊んでいた少年のはずだ。だが、今は当時の面影など消え去って、完全な殺し屋の容貌だけがこちらを見下ろしている。

 ちら、と、ジフトの怯えた視線が廃墟に投げ捨てられた死体へ向く。ただ投げ落とされたように見えるそれは、しかし恐ろしい程正確に狙って落とされたものだとジフトにはわかっていた。ジフト達の誰もが、死体に向かって動こうとすれば、紐刃の射程距離に入る。先ほどのエオニウスのように。放り投げられた首は、餌だ。人間の感情を計算して仕掛けられた罠だ。


 寒気が背筋を這い上がり、ジフトの全身に鳥肌が立った。左腕にあるはずの烙印が疼く。

 ヒトをヒトと思わない――。『仲間』以外は物も同然、いや、それ以下の扱い。それをあの夜、嫌というほど教えられた。腐敗しきった尊厳、堕落しきった理。道を誤った力。ジフト達を所有し、貧困街に暮らす人々に枷をつけ、支配する組織――


「――『花と短剣』」


 灼熱の陽光降り注ぐ廃墟に、空賊頭領ミランダの険しい声が響き渡った。

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