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第二十話 眠れる竜、誘惑する狐 後編

 気がつくと、暗闇だった。

 

 ああ、これは幻だ、と、何も見えない空間をみつめながら頭中で思考が瞬く。いつもそうだ。夢を見て、覚める直前、弾指の間に訪れる、現と夢が溶け合う世界。

 

 真黒な虚無の中に、意識が浮き沈みを繰り返す。奇妙な酩酊と共に薄ら寒いおそれを感じて、深層から表層へ精一杯に手を伸ばした。目を刺す僅かな痛み、そして。


「――っ」


「あっ、ジフト! 気がついたのね!」


 眼前いっぱいに幼馴染の顔と、見上げる天井が映った。心底ほっとしたという表情を浮かべるキアラ。その姿を、どこから差し込むのか爽やかな陽光が照らしている。部屋の中は、どこもかしこも白銀色で光を反射して、とにかく眩しかった。ついさっき闇の中から覚醒してきたジフトが、まだ慣れなくて眼底がちくちく痛む目を瞬かせている。


「……え、っと? あれ、ここは……?」


 尋ねながら、ジフトはここが機械宮の一室だということに薄々感づいていた。白銀の壁に刻まれた植物の模様や、見覚えのある柄の絨毯。大きな二人掛けの長椅子が見当たらないから、絨毯は同じでも公爵の部屋ではないようだ。ということは、昨日鍵を渡された部屋だろうか?


 きょろきょろと落ち着き無く視線を泳がせるジフトの額を、何かが撫でる。すぐ横に居るキアラが伸ばした、乾布だった。目で追うと、視界の下半分を見たこともない純白な布に占拠される。どうやら自分は凄まじく寝心地の良い寝台に横になっているらしいことを、ジフトはここでやっと理解した。普段、木が腐って土の露出した長屋の床で寝ているジフトにとって、この寝台の柔らかさはまるで空中に浮いているような錯覚に陥るほどだ。なんとなく馬車酔いに似たものを感じて、ジフトは起き上がろうとした。

 と、それをキアラが阻止しようとする。


「あらダメよ。まだ寝てないと――」


「うう、頭痛ぇー」


 右手で額を抑えるジフトに、ほら言ったでしょう、とキアラが口を尖らせる。こめかみを生温い汗が伝うのを、キアラは腕を伸ばして乾布で拭った。見ると、寝台の横に小さな卓があり、その上に氷が溶け切った透明な氷嚢と、なにやら湿った布が何枚か置いてあった。どうもつきっきりで看病してくれていたようだ。盃に注いだぬるくて薄い塩水を渡してくるキアラに礼を言うと、それでもやっぱり納得いかないという顔でジフトが眉根を寄せた。


「どーいう状況か、全くわからないんだけど……」


 困惑した様子で後頭部を掻きつつ見慣れない部屋を見回すジフトに、キアラも心配そうに整えた眉を寄せた。


「もしかして、覚えてないの? 昨日、ここに、機械宮に戻る途中で馬車が野盗に襲われたでしょ? ……あの後、ジフト、熱出して倒れちゃったんだよ」


 探るような声音。その一言で、ジフトは焦げ茶の目を見開いた。キアラが乾布を握りしめて椅子の上でもじもじしている横で、ジフトは固まっていた。肌にまとわりつくぬるい汗の下から、どっと冷や汗が吹き出す。


――そうだ、あの時。


 震える手が寝台のシーツを掴んだ。見開いた目には、昨日の夜見た光景が。機械宮へ向かう馬車を『仲間』が襲い、それを――あの空賊の青年、バートが撃ち殺した。……多分、一人残らず。そして自分は見てしまったのだ。よく知った少年が、凶弾に貫かれ倒れる瞬間を。


 ろくに食べていないはずなのに、臓腑が逆流して吐き気がした。


 震える手で口元を押さえると、キアラが慌てて背中をさすった。


「顔色が真っ青よ。やっぱりまだ休んでたほうがいいわ」


 お腹すいたでしょ、暖かい食べ物を持ってくるね、と、ジフトの手を握りそれが冷え切っていることに気付いたキアラが、椅子から立ち上がる。気丈に振舞っているのかとジフトは思ったが、どうもそうではなく、昨日のことはもう割り切ってしまったようだ。言動のどれをとってみても、ただ病人を気遣っている以外は、普段のキアラそのままだった。


「そっか、キアラは……」


 自分とキアラの違いに気付いたジフトは、背中を眺めながら呟いていた。それに気付いたキアラが振り返り、小さく首をかしげている。


「どうしたの?」


――キアラは知らないんだ。撃たれたのが、誰だったのか……。


 沈痛な面持ちで目を伏せるジフトの顔を、キアラが覗き込む。ジフトの脳裏に、銃声と、主の手を離れて月光に瞬く短剣の記憶が閃光のように蘇った。しかしそれは刹那の間だけで、すぐ現実に意識を戻すと、ジフトは眼を上げた。じっとこちらを見ていたキアラとみつめあうかたちになり、キアラが頬をそめて気まずそうに顔をそむける。

 日常に戻ろうとしているキアラの精神を慮り、ジフトは言いかけた言葉を飲み込んだ。あの街で、身寄りのない子供にまともな仕事などほとんど回ってこない。仕事が無いということは生活の糧を得られないわけで、運良く気前のいい誰かに恵んででももらわない限り、当然衣食住全てに不便する。食うに困って徒党を組んで強盗する子供だけの組織があることは、キアラも知っているはずだ。ただしかし、その組織、自分たちを所有する組合についてキアラがそれほど知識を持っていないことに、ジフトは今、胸中で溜息を吐きつつ安堵した。


「え、えっと……」


「なんでもないよ。――キアラ、ありがと」


 夜通し看病してくれたことに礼を言って、無理に笑顔をつくってみせると、キアラはますます赤面して頑なに眼を合わせなかった。


「べっ、べつに、お礼言われるようなことしてないわよ。お、幼馴染が困ってたら、助けてあげるのがわたしの信条なだけだから!」


「いやー、わけがわからないってそれ」


 そそくさと食事を取りに部屋から出ていこうとするキアラを、寝台からのそのそと降りてきたジフトが後から追う。振り返ったキアラは眉を八の字にした。寝起きで少しふらつくジフトが隣に来るまで待って、まったくしょうがないんだから、とだけ言って扉を開ける。扉の向こうはお馴染み機械宮の白い廊下かと思いきや、また別の部屋への入口になっていた。

 戸惑うジフトの鼻を、嗅いだことのない匂いがくすぐる。部屋の中央には四人掛けの食卓と椅子が置いてあって、その上で銀の皿に乗った料理が湯気を立てていた。どれも初めて見るものだ。そして、その湯気の向こう側には――何故か、空賊の青年が不機嫌絶頂の仏頂面を下げて椅子に腰掛けていた。空賊の青年、バートは二人を見るなり金髪を翻す勢いで顎を上げ、遅い! と一喝した。


「おそい、遅いぞクソガキども! てめぇらが隣の部屋でよろしくやってる間に、見ろ! 火傷しそうなほど出来立てだった料理が丁度良い加減に冷めちまっただろうが」


 何が気に食わないのか、バートは両手で食卓をばんばん叩いて喚き散らした。昨日の夜と比べてあまりにも子供っぽい態度に毒気を抜かれ、ジフトの強ばっていた肩が下がる。こいつは友人を撃った張本人なのだが、あまりに言動が常軌を逸していて、もはや憎悪を抱くような普通の感情では付き合うことができそうにない。……それに。


「だからお先にどうぞって、言ったんだけど……」


 キアラも半分呆れているようだ。片方の眉を吊り上げて、青年の斜向かいの席に腰掛ける。キアラが席に着くのを見て、同じようにジフトが隣に座った。

 きょろきょろと部屋の中を見回したジフトが、シュウとアールは? と、かすれた声で尋ねる。


「シュウさんは調べ物があるって、自分の部屋に帰ったわよ。アールちゃんは、その……彼女も体調が悪いみたいで、機械宮に着いたらすぐ公爵様に連れられて、お医者様のところへ行ったわ」


 そっか、とジフトは息を漏らした。あのシュウが、話を聞くに行動するだけ元気がありそうなのは意外だった。機械宮の地下であれだけ恐怖によって取り乱していたのに、と。でもよくよく思い出してみれば、バートが公爵を撃とうとしたときいち早く動いたのはシュウだった。それに馬車の襲撃時、シュウは最初発砲があった時こそ悲鳴を上げたが、それ以降は無駄に騒いだりなど一切しなかった。どころか意気消沈している自分や、怯えているキアラやアールを慰めていたような……。


 曖昧になってきた記憶を辿ることを一次中断しつつも、幽霊とか怪談話さえ絡まなければ案外あいつ(シュウ)のほうが精神的に強いのかもしれない、とジフトは一人そう考えていた。

 はからずもぼーっと食事の盛られた皿を眺めるジフトの耳に、キアラの声が入る。


「ね、ジフト大丈夫? 食欲ありそう?」


 そこで初めて皿の上の物体に焦点があった。が、食欲など湧きそうにもない。弱々しく首を横に振ると、そう……、とキアラがしゅんと肩を落とした。ちらと目の端で盗み見たが、ジフトに尋ねるキアラ本人も、あまり食は進んでいないようだ。通夜のように静まり返るこちら側とは反対に、対岸ではバートがうるさい音を立てながら延々と食べ物を口に入れては噛んで飲み込むの繰り返しをしていた。あんな乱暴な食い方じゃ、味も食感もわからないだろうなぁ、などと、完全にずれたことを考えながら呆けているジフトと、バートの片方しかない眼がかちあう。

 おいおまえは、と、バートは食べ物を口に掻っ込むことすら止めず、そのまま喋りだした。


「いつまで沈んだ顔してんだ? あぁん? 食わなけりゃカナシイ気持ちが収まるとでも思ってんのか? 違うぜ! せっかくこんな大量の餌があるんだ、今食わずしていつ食う! てめぇも詰め込めるだけ詰め込んどけ。いいか、身体が大事なんだ。資本なんだ。心の傷ぅ? そんなもん放っとけ。たらふく食ってるうちにどーでも良くなってきて、今感じてる気持ちなんて忘れちまうさ。――人の心なんて、そんなもんだ」


 最後は顰め面になりながら、バートは一方的な講釈を垂れた。かぁっ、と、ほぼ条件反射にジフトは己の後頭部に血が上ってきて熱くなるのを感じた。こいつの言ってることは、まぁ間違いではない。それが人間の一面でもあるだろう。――だが、それをこいつが今言うのは、どう考えても『間違ってる』。

 卓上に置いた両の拳に血管が浮かぶのとほぼ同時に、ちょっとやめなさいよ、と、キアラが批難の声を上げた。


「あなたがジフトにそんなこと言う資格なんてないはずだわ。もうちょっと人の気持ちを推し量ってくれてもいいんじゃないの」


 けっ、と、バートは顔を歪めて口に溜まった鳥の骨を吐き出した。


「ほほぉー、資格ねぇ。そりゃあ人類誰だって、他人にモノ言う資格なんか持ってないだろうなぁ。それに、そっちが察して欲しいと言うんなら、俺だっておまえらクソガキどもを悪漢の手から救ったことを感謝されたいもんだがな」


 手の届く範囲の料理をあらかた食いつくし、バートは鳥の骨の山から一番細いものを取り出して二つに折った。それでしーしーと歯に詰まった食べ滓を取り始める。

 それは、その、と、キアラはさっきまでの勢いをひそめて口篭った。


「……か、感謝はしてるわ。あなたがいたから、わたしたち無事に機械宮に着けたんだし……」


「ほうほう。それで? だから?」


 言い淀むキアラに嗜虐的な眼差しを寄越し、バートは楽しそうに煽った。くぅ、と顔を赤くして唇を噛むキアラ。両者の様子を見たジフトは、急に目の前の皿に手を伸ばすと、がつがつと音を立てて食べ物を貪った。

 唐突に暴食しはじめたジフトを、キアラは驚きながらも心配そうに、バートは少し感心したような表情で暫し見守った。やがて、手の止まっていたキアラも、あまり気乗りしていないようだが、一口ずつ料理を食していった。


 キアラは一皿空けると満腹だといって食器を置いたが、ジフトはひたすら眼前に広がる食べ物の山を腹に詰め込んだ。バートの言うように沢山食えば傷心も癒えるということを期待しないでもないが、本心はもっと別にあった。苦く哀しい感情と共に、消えない焦燥感があったのだ。


『有能な駒で有り続けろ、ジフト』


 昨日鼓膜を震わせ脳に伝わった、公爵のあの命令が頭の中で反響している。


『君が私にとって使える人材である限り、私はキアラをあの組合から護ろう。忌々(いまいま)しいあの組合だけでなく、ありとあらゆる敵意から彼女を護ろう。キアラを救うために、努力し続けろ。己が身を鍛え、研鑽けんさんを積め。私が望む通りの働きをしてみせろ』


――そうだ、その通りだ。


 今抱えている何もできなかった悔しさが消えることなど無いだろう。けれど傷心に沈んでいる場合ではないのも確かだ。

 ただ気持ちを奮い立たせ、思考を研ぎ澄ますことだけを考えていなければ。

 隣に座る幼馴染を護るために。

 失われたあの日の団欒の、遺された面影だけでも護るために。


『有能な駒で有り続けろ』


 傷ついている暇など、無い。


 分厚い肉の筋に、犬歯を突き立てて噛みちぎった。思い切り咀嚼する中、今、自分が凶悪な表情をしていることを、どうかキアラに気づかれませんように、と、ジフトは願った。






 機械宮の一室、シュウの部屋。首都ガイアから持ってきた書物で溢れている空間は、しっかりと閉ざされていた。

 爽やかな朝日注ぐ出窓は厚いカーテンで覆われ、机の上では電気の灯が煌々と、何かを読みふけるシュウを照らしている。じっと古びた巻物を凝視する目は、充血して赤い。古文書を傷めないよう、絹の手袋を着けた指が慎重に巻物をまた一巻き、解く。ハンカチで押さえた口元から、震える息が漏れた。


「――まさか、まさかそんな――」


 自分以外誰も居ない部屋で、シュウは思わず独り言を呟いた。ハンカチを持つ手が小刻みに震えている。充血した目が潤んでいるのは、疲労以外の理由がありそうだった。すぐ傍に置いてあったペンを掴み、シュウが紙に何か書き付ける。うそだ、信じたくない、でももし本当だったら――うわ言のように、口が勝手に喋り続けて止められない。人工の闇の中、浅く速くなってきた呼吸の音だけに包まれて、シュウはひたすらに古文書の内容を書き写した。


 扉を、叩く音がする。


 びくりとシュウの肩が痙攣した。ペン先が紙に引っかかり、短く嫌な音がする。

 荒れた息を抑え、泳ぐ視線を扉に定めると、シュウは平静を装った。


「……アンナ、何か用? 朝食なら、もう少しあとで食べるよ」


 息を整えながら、シュウは乳母のいつもの穏やかな声が聞こえてくるのを待った。大丈夫、アンナは自分が入って来ていいと言うまで部屋に入って来ることはない。そう自分に言い聞かせ、ハンカチを置いて胸に手を当てた。


「彼女なら、用事があると出て行ったよ」


「――!」


 扉の向こうから聞こえた声に、シュウは全身の毛が逆立った。手の下の心臓が、網に掛かった魚のように暴れて跳ね回る。


「シュウ、少し君と話がしたいんだ。ここを開けてもらえるかな」


 どうしてこんな時間にあなたがこの部屋に、と、シュウが口を動かした。が、喉が張り付いて声にならない。視線を扉に釘付けにしたまま、シュウは手探りで巻物を仕舞おうとした。インク壺が指に引っかかり、音を立てて紙束の上に落下する。昨日の夜、馬車を下りて皆と別れたあとからずっと作業していた成果が、真黒なインクで一色に染められてしまった。思わず呻き声を上げると、扉の向こう側でも動く気配がした。


 シュウ? と、もう一度、よく聞いた男性の声がこちらに呼びかける。残骸から視線を引き剥がし、シュウは扉へ怯えと警戒の混じった表情を向けた。


――アンナが用事で出て行った?


 嘘だ。本当に用事があるなら、主の自分に何も言わずに部屋を出るわけがない。それに今朝は、誰か来たなら一度廊下で待たせて取次してくれと伝えてある。生まれた時から自分を育ててくれた乳母に、シュウは父母に向けるのと同じくらい絶対の信頼を寄せていた。そう、扉の向こうにいる男性よりも。


「扉を開けてくれないか。君も、話したいことがあるんだろう?」


 柔らかく落ち着いた男性の声が、優しくシュウに再度呼びかけた。扉の外は、彼以外の人の気配が全く無い。乳母の身を案じるシュウの背中を冷たい汗が伝った。

 つう、と微かな音が扉を越えて聞こえる。指で扉に触れているのだろう。藍色の絨毯に、一筋の白い光が差した。


「なんだ――」


 刹那の間、シュウは自分の背後を一瞥した。駄目だ、間に合わない。間に合うはずがない。寝台には、こっそり機械宮の書庫から持ち出した古文書と遺物がぎっしりと、関係ごとに並べてある。

 眩しい光に、シュウは固く目を閉じた。噛み締めた唇から、鉄の味が広がる。乳母を信用していたことがこんなところで裏目に出るとは――シュウは胸中で悔恨にまみれながら俯いた。


「――鍵は掛かっていなかったんだね」


 扉が、開く。

 足元に伸びた長い影をうすく開いた瞼の隙間から見て、シュウは両の手を拳に握った。影の首が左右に振れる。部屋の中を、見回している。


 セシル公爵、と、恐怖でかすれたシュウの声が影の主の名を呼んだ。どんな弁解も子供じみた言い訳も、この人には通用しないだろう。歯の根の合わない顔を上げながら、本能的にそう察していた。それでも、できる限りの手を考えねば。実行しなければ。


 ぱらぱらと、紙の捲れる音がした。公爵が、シュウの書き付けたものを読んでいる。ふふ、と短い笑い声が聞こえた。


「驚いたよ。たった一晩でここまで調べがつくとはね。君は本当に筋がいい」


 服がインクで汚れるのも構わずに、紙束を懐へ入れる。親とはぐれた雛鳥のように情けなく震えるしかないシュウの肩に、公爵の手が触れる。


「でも残念だな――僕は、君がこんなに深入りするとは思わなかった」


 にこりと微笑みながら、公爵はシュウの顔を覗き込んだ。一点を凝視するシュウの目に、公爵の表情が映る。卓上灯に照らされたそれは、普段と変わらない柔和なものだった。ただ、蛇の如く鋭い双眸を除いて。血苺の匂いが、ほのかに空気に漂った。


「あ――」


 あなたが、調べるように仕向けたんじゃないか。

 そう言いたくて口を開けたが、言葉が続かなかった。


 種は、確かに少しずつ撒かれていた。機械宮の設計図の写しを渡されたこと、『虚ろの間』の話。特別待遇として、自分だけ城の重要物品保管庫や書庫に出入りが許されていたこと。夕食に招かれる度、公爵が教えてくれた古い伝承。

 興味を持って当然だった。

 知識は既に与えられていた。

 

 この後に続く台詞も、既に予想している。


「怖がる必要なんて無いんだよ、シュウ。……僕に協力してくれるね」


 触れる公爵の手は、静かに、けれど万力のようにシュウの肩を締め付けた。血の気が引いて、体温が自覚できるほど低下していく。半開きの震える唇の隙間から、こらえきれない息が微かに漏れた。


――ここでうなずいちゃ、だめだ――


 冷たい爬虫類の双眸に感情を監視されながらも、シュウはその目を睨み返した。氷のようだった公爵の瞳が、わずかながらに見開かれる。視線の呪縛が解かれた一瞬を突いて、シュウはすかさず口を開いた。


「あなたが首都ガイアでライン家の後ろ盾になると、確約してくださいますか」


 実らぬ種を撒くほど、彼は酔狂ではあるまい。

 目的があるはずだ。自分を手の内に引き込もうとする、何かが。


「――ほう」


 肩を握る手の力が、緩んだ。冷酷な瞳には何故か喜色が浮かんでいる。


 不確実なことは嫌いだけど、と、シュウは胸の内で呟いた。顎を引いて、視線はそのまま公爵の表情を少しも見逃すまいと固定している。

 こんな回りくどいことをしなくても、自分を味方に誘うことはできたはずだ。狩りの如くじわじわと退路を断ち、もう逃げることも引き返すこともできない状況に追い込んだのは、どうしても自分が必要だったのではないだろうか。公爵の、未知の計画に。


――驕ってもいいですか、セシル公爵……。


 これは危険な賭けだ。自分の価値が、公爵の中でどれほどに評されているのか。協力を条件に引き出す好機だ。一歩間違えれば、この部屋を満たす闇に呑まれて二度と光を浴びれぬことにもなるが。


 果たして――シュウが空色の目を眇めると、公爵は満足気に彼を見下ろしていた。その手が肩から離れ、す、と上に上がる。

 思わず眼を瞑って肩をすくめるシュウの頭へ、暖かい手の平が置かれた。


「面白い。君は将来有望だな」


 はは、と軽い声を上げて、将来と言えば――と、公爵は続けた。


「シュウ、君は空が好きだと言ったね。それはつまり、下から大空を眺めているのが好きなのかな。それとも飛空艇のように天空を飛んでみたいのかい?」


「ぼくは、空を飛ぶことに興味があります」


 汗ばんだ拳を握り直し、シュウは答えた。そうか、と、公爵が目を細める。眼差しは幾分和らいでいた。微笑んだ形のまま、公爵の口が言葉を紡ぐ。


「王国直属軍では、近く大規模な新編成が行われるそうじゃないか。陸軍、海軍に続いて、ロザリアの飛空艇に対抗するため新たに空軍を創設するとか」


 公爵の言葉にシュウが首肯する。でも、と、空色の瞳に陰りが見えた。空軍士官になるためには、王国士官訓練学校を卒業していなければならないんです、と、眉間に深い苦悩のしわを寄せて、シュウが語る。

 唇を噛んで俯くシュウの前で、逆光に照らされた公爵の目が細くなった。


「何を悩むことがあるんだい? 君は士官学校の優秀な生徒じゃないか」


「――でも、ぼくは……学籍を抹消されて」


 絞り出すように言った台詞を、公爵は鼻で笑った。


「シュウ、それは学校側の手違いだったんだよ。君は、学校の長期休暇に、この機械の都マキナリーへ行楽に来たんだ。忘れてしまったのかな」


 ほら、ここに君宛ての手紙があるから読んでごらん。そう言って、公爵は懐から封筒を取り出した。受け取ったシュウが、押された封蝋を見て目を見開く。急いで封を切り中の紙を開くと、それは士官学校からの再編入認可書と外泊許可証だった。思わず口元を抑えて感涙と嗚咽を隠そうとするシュウへ、公爵はさらに囁きかける。


「これで君は首都に戻ったら今まで通りの生活ができる。勿論、今すぐ君の父上のもとへ帰っても構わない――けれど、もう少し機械の都ここに留まって、僕の手伝いをしてくれないかな? 実は、ジフトにも既に同じことを頼んでいてね。君たち二人が僕に協力してくれたら、とても助かるんだ」


 手紙を握りしめて有頂天になっていたシュウが、はたと我に返った。脳裏に、昨日の夜馬車に乗ったときのジフトの様子が再生される。

 あれが、公爵と取引した後だとしたら。


 シュウの眉間にまたしわが寄った。


「……彼は、どんな条件で協力すると言ったのですか」


 返答は、無かった。

 逆光に照らされた公爵の輪郭が、僅かに揺れる。首を、横に振ったようだ。僕がそれを君に話す権利は無い、と、公爵が静かに言った。開いた扉から差し込む光の中央に背を向けた公爵の表情は、暗い影に覆われてよく見えない。

 影の輪郭が動き、何かがシュウの前に差し出された。公爵の右手だ。手の平を上に向け、シュウを部屋の外へいざなっている。


 暫しの沈黙、そして。

 藍色の絨毯の上を、シュウの足が一歩進んだ。


「その気になってくれた、と取っていいのかな」


 薄影の中、公爵が微笑む。


「出来うる限りの力を尽くせるよう、善処します」


 差し伸べられた公爵の手を、シュウは臆面もなく握った。かたい握手を交わしつつ、公爵はシュウを見下ろし口の端で呟く。そう、それでいい、と。

 機をうかがっていたのか、公爵が左手を上げると同時に部下たちが音もなく部屋へ入ってきた。回収されていく古文書と遺物、それに制作した訳書を見ても動じないシュウへ、公爵が耳打ちする。


「そうそう、アンナは中庭の噴水のあたりで休憩すると言っていたよ。まだ寝ているんじゃないかな、少し様子を見に行ってあげたらどうだい」


 強ばっていたシュウの表情が、はっと崩れて公爵を見た。空色の瞳は心配そうに揺れている。公爵が背中を押すと、シュウは脇目も振らず中庭へ駆け出していった。






「――取引?」


 朝食を採り終えたジフトは、バートに襟首を掴まれ廊下に引っ張り出されていた。それから一方的に喋られた話の内容の、断片的な言葉をオウム返しにする。

 おう、と、バートは襟を掴んでいた手を離す。急に解放されたジフトが着地に失敗してよろけた。足を挫いて涙目になるジフトを、そんなことは一切関心せずバートが見下ろす。


「で、そこにおまえもついて来い。これは決定事項な」


「な、なんで俺が? 取引するのは公爵とおまえたち空賊の頭領なんだろ。それに、公爵が俺を連れて行くならまだ話はわかるけど、どうして空賊のおまえにそんなこと要求されなきゃならないんだ」


 挫いた足首をしゃがんでさするジフトを、バートは高身長を利用して見下した。ばぁーか、と、犬歯を剥きだして嘲笑する。表情が崩れすぎて歯茎まで見えた。


「決定事項だって言っただろ。説明する気なんかねーぞ。とにかく一緒に来い。いいか、話は、それからだ」


 最後の部分を妙に強調して、バートは再びジフトの襟首を掴み無理矢理立ち上がらせた。首が締まって苦痛の声を上げるのを解放する。噎せるジフトの焦げ茶の目があからさまな敵意の視線を出すと、バートは片方しかない青い目を嬉しそうに歪めた。ちったぁマシな目するようになったじゃねぇか、と不気味な笑みを顔に貼り付けたまま、ぺしぺしとジフトの頬を手の甲で叩く。その手を、ジフトは思い切り払い除けた。痛そうな音が金属の廊下に響く。


「……俺は、公爵の命令がない限り動く気はない」


 だからおまえなんかには従わない。無意識に戦う構えを取るジフトの口が、そう発した。険しく寄る眉の下で、焦げ茶の瞳はいっそう敵愾心に燃えていた。

 一触即発な雰囲気を纏うジフトから、バートが一歩後退する。しかし顔に張り付いた笑みはそのままだ。一つしかない目で頭からつま先まで相手を観察すると、鼻に皺をよせて牙を剥き出した。


「へっ、許可が無くちゃ外にも出られないってか。犬かよ、おまえは? 情けねぇ奴だな……」


 それも短時間ですっかり飼いならされちまってやがる、と、口角をあげたまま、バートは溜息を吐いた。そうして左目を覆う眼帯に爪を立てる。だがまぁいい、と、低い声を出す。


「どう足掻いてもおまえは取引の場所に行くことになるんだ。ああ、そんな面白い顔こっちに向けんなよ。可笑しくって喋れなくなるだろ。ほら、てめぇの首輪の持ち主がやってくるぜ、『命令』を伝えにな」


 顎をしゃくって廊下の角を示すバートにつられ、ジフトの視線が動いた。遅れて足音が聞こえ始め、次第に大きく近づいてくる。二人分の足音だ。


 注視するジフトの視界に、廊下の角を曲がる二人の男性の姿が入った。一人はリオナード、もう一人は――ジフトの知らない大人だった。

 向かいの壁に寄りかかっているバートを、ジフトが盗み見る。金髪の下に変わらず存在している革の眼帯は、今は特に光を発するなど奇妙なことにはなっていない。ということは、この空賊の青年は耳がかなり良いのか。もしくは、物を見透すことだけならば、常時できるということなのか――


 逡巡の後、今は推測しかできないと悟ったジフトは視線を廊下の角に戻した。公爵と見知らぬ男性は並んで、……いや、男性は少し後ろを歩いている。どちらも装飾は少ないが一目でわかる高級な服に身を包んでいた。昨日、ジフト達の護衛を任された男性よりも身分は上そうだが、それでもやはり今公爵と共にいるのは彼の部下なのだろう。


 様子を見守るジフトと公爵の視線がぶつかる。警戒するジフトに、リオナードは手を振って、特に急ぐこともなく悠々と歩いてきて数歩前で立ち止まった。真横で壁に寄りかかっているバートに、リオナードの視線が一瞬注がれ、ジフトへ直る。


「やぁ、ジフト。大分顔色が良くなったね。昨日とは見違えるようだ。朝食はたくさん食べたかい?」


「……」


 甥にでも話しかけるような声で尋ねる公爵の前で、ジフトは憮然とした表情を崩さなかった。公爵は少し眉を上げて、微笑んだ形のまま息を吐くと、自らの懐に手を入れた。その手が着けているのは、昨日回収されたあの手袋だった。驚いて眼を見開くジフトの前で、リオナードが何か一人で言っている。


「――試行の結果、基本的な機能だけなら利用者登録がなくても使えることがわかったからね。少し借りさせてもらったよ」


 そして君にはこれを、と、公爵が懐から別の手袋を取り出した。差し出されたそれも、どうやら何か機械を操作するためのもののようだった。どう見ても高級な装飾用手袋にしか見えないが、甲に埋め込まれた赤石とそれを囲む模様が、ジフトが持っていた手袋とよく似ている。そして渡されたそれは、見間違いでなければ昨日公爵が着けていたものだった。


 眉を顰めるジフトに、権限の委任が必要だから、それを身に着けるように、とリオナードが促す。よくわからないが、逆らうわけにもいかないのでジフトは手袋に手を通した。

 公爵の肩越しに、バートが青い目を皿のように円くして口を半開きにしている。嘘だろ……、と、何故か蚊のなくような声で髪の毛を掻き毟るバートを無視して、公爵は誰かに命令した。


「管理者権限の委任を行う。私リオナード=セシルから、現在左心の手袋を着用しているものへ、機関十五番に対する全ての権限を委任する」


 誰に宣言したのかわからなくて、公爵の後ろで控えている男性をジフトが見るが、彼はぴくりとも動かなかった。疑問符を浮かべるジフトの手が、赤く光った。驚くジフトのまえで、赤い光が正方形に収斂していく。甲の赤石が、あのときのように光を出しているのだ。

 合成音声が、白い金属の廊下に降り注いだ。


『委任を受け付けました。代理人の登録を行います。――静脈型の登録が終わりました。声紋の登録を行います。代理人は姓名を名乗ってください。声紋の登録を行わない場合は、動作二を実行してください』


 聞こえた合成音声は女性のようだったが、地下の迷宮で聞いた声とは違った。昨日公爵が連れていた女性の声に少し似ているな、と、ジフトは思った。言われた通り姓名を名乗ると、降り注ぐ声が登録完了と言った。呆気にとられていたジフトが、はっと我に返る。


「い、今の――何なんだよ。機関十五番って? それにこの手袋――」


 質問するジフトを、公爵が手で遮る。回答を得る権限がありません、と、頭上からつんとした女性の声が降った。むっと頬を膨らませるジフトに、公爵が仕切り直す。


「……さて、これで私から君への委任は終わった。今度は君の番だ」


「俺の?」


 自分を指差して尋ねるジフト。リオナードが頷く。その黄緑の瞳は、また得体の知れないぎらぎらとした光を出していた。気圧されたジフトが後退りし、壁に背中をつける。


「つまり、『権限の委任』をすればいいってことか?」


 そうだ、と、リオナードが微笑する。針で突いた点のように収縮している瞳孔を見て、ジフトは生唾を飲み込んだ。それってどのくらい、と、尻込みしながらジフトが訊く。

 その言葉を待っていたように、リオナードは微笑した唇の間から歯を見せた。


「全ての、権限を」


「なっ――」


 絶句したジフトは、一瞬自分が声を出したのかと混乱した。が、すぐ違うことがわかった。公爵の背後でバートが驚愕の表情を浮かべて、口を抑えていたからだ。バートも驚くということは、この要求は空賊側にも何か悪影響を及ぼす可能性があるのだろうか。公爵越しにバートに視線を送ると、要求を断れとバートが全力で喚き始めたので、ジフトはそれを確信した。

 背後でうるさく騒ぐ空賊を気にも止めず、リオナードはジフトを再度促した。

 逡巡の後、ジフトが口を開く。


「……嫌だって、言ったら?」


 蛇の瞳を、瞼が瞬きで数度覆った。ふ、と、鼻で笑う音がする。


「面白い質問だ、ジフト。しかしあまり私を失望させないでくれないか。拒否してどうなるかがわからないほど、愚かなのだとは思いたくない」


 微笑んだ表情を崩さずに、公爵は言葉を切った。わざとらしい咳払いの後、ジフトから視線を横にずらす。


「キアラ、ここは機械宮だ。立ち聞きは止してもらいたいな」


「あ、ごめんなさい、わたし――」


 幼馴染の声が耳に入り、ジフトは全身の血が凍る思いをした。金縛りのように動けなくなった身体の、眼だけを限界まで横に向けて、キアラの姿を探す。キアラは、幼馴染は、半開きの扉からもじもじと顔だけを出していた。ばつが悪そうに、扉を開けて廊下に出てくる。

 キアラ、と、公爵が呆れ混じりの溜息とともにたしなめた。


「き、キアラ――いつから聞いていたんだよ――」


 引き攣った喉から搾り出した言葉に、キアラは俯いてスカートの裾をいじっている。


「だって、すぐ話終わるって言ってたのに、なかなか帰ってこないから……心配だったんだもん」


 唇を尖らせて言った言葉は、全く答えになっていなかった。


 公爵が再度注意して、ますますキアラが背中を丸める。しゅんとするキアラに、公爵はジフトに向けるものより大分刺の取れた声音で部屋に戻るように告げた。ちらちらと視線を送ってジフトの顔をうかがいながら、渋々キアラが扉の向こうに消える。


 扉が完全に閉まったことを確認する公爵の前で、ジフトは緊張の解けた口を動かした。


「……わかった。あんたの言う通りにする」


「なっ、やめろこの馬鹿ッ!」


 声を上げるバートを一瞥してから、公爵はジフトに笑顔を向けた。いい判断だ、と褒められたが、全く嬉しくはなかった。先ほどの公爵の言葉を真似て、ジフトも宣言する。聞こえているかはわからないが、地下の迷宮で契約を交わした『意思を持つ壁』に対して。


「やめろ、やめろって言ってんのが聞こえねーのかこの愚図! それを渡しちまったら――っつ」


 説得から実力行使に移ろうとしたバートを、公爵の部下が取り押さえた。今度も、シュウがバートの発砲を阻止したときのように電光石火の動きだった。技を決められて成すすべもなく拘束されるバートが、それでもまだ諦めずもがいているのを、言葉を紡ぐジフトの眼が捉えている。委任の対象を特定する言葉がよくわからなかったため言葉につまると、右心の手袋を着用している者へ、と、公爵が補った。気乗りしないが、ジフトがそれに習う。

 宣言が、終わった。


 息を止めて『壁』からの反応を待つジフト。

 刹那、白銀の廊下に閃光が走った。


「――!」


 思わず顔を手で庇うジフトの耳に、地下の迷宮で聞いたあの声が聞こえてくる。


『――委任を受け付けました』


 声は、それだけしか言わなかった。閃光が過ぎ、廊下は朝日に照らされて平穏な光景に戻っている。採光窓の向こう側で、屋根で休んでいた小鳥が空に羽ばたいた。

 沈黙が支配する廊下に、ふむ、と、リオナードの声が小さく響く。


「殆ど設定の変更はしていないのか……まぁ、片手だけでは満足な操作もできないか」


 口元に拳を当て、ぶつぶつと呟いただけなので何を言ったのかジフトには聞こえなかった。これで大丈夫なのかと不安そうに探る表情のジフトへ、よくやった、とリオナードが言う。それと、と、もう一言付け加える声が聞こえた。

 目線が同じ高さになるまで身をかがめ、リオナードがまた懐から何か取り出した。赤い液体の入った小瓶だ。流線型の硝子の小瓶が出てくるときに、インクまみれの紙片が見えた。


「君の危機を救うモノだ。何時でも使えるよう持っておきたまえ」


「……血苺酒?」


 怪訝な顔をして小瓶を振って中身を眺めるジフト。小瓶に入ったその液体は黒みがかった深紅で、バートが持っていた『竜の血』に似ている。が、蓋を開けなくても香る強烈な甘い匂いで、それが血苺酒だとわかった。生の血苺は酸味が効いて美味だったから野生のものをよく食べていたが、精製された血苺製品は甘味が強すぎてあまり好きではなかった。なんでこんな果実酒を――と、腑に落ちないでいるジフトから、公爵が退く。


「さて、どうかな。あるいは竜の血肉かもしれない」


 薄氷の笑みを浮かべてこちらを見たリオナードの瞳が、一瞬本当に爬虫類のそれに見えた。慌てて目をこするジフトが再び凝視しても、そこには普段の公爵の顔があるだけだ。困惑しながらもベルトに着けた道具入れの中へ小瓶を放り込む。それを見届けて、公爵はその場で踵を返し、バートのほうへ向き直った。

 技を解かれて自由の身になったバートが、頭を抱えて廊下に座り込んでいる。

 

「意気消沈しているところ悪いんだが、ジフトを頼むよ。それと、私は取引の場所へ行くことができないのでね。交渉は全てここにいるエオニウスに任せるよ」


 手を広げ、公爵が背後の部下を示した。部下の男性が軽く会釈する。この場に来て初めて、男性が人間らしい動きをみせた瞬間だった。

 ぴくり、と、頭を抱えていたバートの指が動く。

 では私はこれで、と、踵を返す公爵の背後で、ゆらりとバートが立ち上がった。


「おい……待てよ……」


 拳を握ったバートの手が怒りに震えている。しかしその声が聞こえても、公爵の歩に何ら変化も見えなかった。そのまま去って行く公爵の背中に、バートは怒号をぶつけた。


「逃げんのかよ? 危険事は他人に任せて、自分は安全地帯で見物ってか?」


 リオナードの、足が止まった。


 微かに首が動き、冷ややかな眼が送られる。


「――そうさ。かしらが死んだら、身体は機能しない」


 突き放した口振り。視線は、完全に相手を見下していた。耳を貸すつもりも、譲歩するつもりもない眼差しだった。

 爛々と眼をぎらつかせるバートが、ぎりりと奥歯を噛み締める。ああ、そうかい、と、地鳴りのように低い声。


「……わかったよ。けどなァ、これだけは覚えとけ」


 すぅ、と息を吸い込み、バートは拳を突き出した。


「てめぇのためだか、てめぇが目指してるもののためだか知らねぇけど、てめぇの部下達は命を捧げる覚悟ができてんだ。頭に死ねとは言わねぇ。でも、覚悟を実行に移した身体やつらの御蔭で、頭は天辺にいられるってことを忘れんじゃねぇぞ」


 嫌悪の念が滲む言葉、鋭利な視線。それらを浴びても、リオナードは臆しもせず直立している。バートが拳を下ろしたのを見て、リオナードは無言のまま懐から何か取り出した。懐中時計だ。


 金属音とともに懐中時計の蓋が開き、リオナードの黄緑の瞳がそれを一瞥する。時間を確認したリオナードは、出したとき同様黙したまま懐中時計をしまい、歩き出した。


「――くそッ」


 公爵の姿が廊下の角に消え、バートが壁を殴った。ジフトはというと、手袋を着けたままどうすればいいのかわからずただ突っ立っている。エオニウスと呼ばれた部下の男性が咳払いして、ジフトは驚いて彼のほうを見た。


「約束の時刻が迫っている。こんなところで油を売っている暇はない、すぐに移動を開始しよう」


 濃い茶色の髪の下で、赤錆色の目が素早くジフトとバートへ向けられた。語勢に負けて思わず頷いてしまうジフトの横で、バートが犬歯剥き出しの顔で何か不満をぶつぶつと垂れ流している。二人の間を通って馬場へ向かう部下。ぶつくさ文句を言いながら、それにバートが付いていく。ジフトも後を追おうとしたが、キアラに一言ことわってから出かけようと思い直して扉に手をかけた。


「キアラ、俺東の市のほうに……あれ? キアラ? 」


 入口から顔だけ覗き込んでみた部屋の中には、空の食器が並ぶ食卓があるだけで、誰もいない。どうしたのかと心配になって中に入ると、キアラが座っていた席に一枚の紙があった。拾い上げ、それを読み上げる。


「き、を、つ、け、て、い、って、らっしゃ、い……か。やっぱりあいつ話聞いてたのかな――」


 後頭部を掻きつつ、ジフトは隣の部屋へ視線を動かした。そこも、扉が閉まっていいる。いってくる、とだけ声をかけると、ジフトは紙切れを破れていないほうのポケットに突っ込んだ。廊下のほうから、クソガキ早くついて来い、とバートの叫ぶ声が聞こえる。もういちど頭を掻いて、ジフトは部屋を後にした。






 機械宮の、貴賓室。贅を尽くした調度品に囲まれて、高そうな椅子に深々と腰掛けて茶を啜る老年の男性の姿があった。閉じた扉の向こうから、失礼します、と声が聞こえ、男性がカップを机に置く。


「やっと来たかね。茶で腹がいっぱいになるところだったぞ」


「少し用事に手間取ってしまいまして」


 一人でに開いた扉から、リオナードの姿が現れた。その両手は手袋の甲の石から出た光に包まれている。僅かに手を動かしただけで、一人掛けの椅子が公爵のため移動した。


 機械の都の茶葉はお気に召しましたか、と、男性の正面に座ったリオナードが尋ねた。立派な髭を蓄えた老年の男性は、若竹色の目を細めて笑う。


「ほっほっ……。大勢たいせいを決める交渉に遅刻してくるとは、肝が座っているのか抜けているのか……。何にせよ、八年前の洟垂れ小僧からは見違えるほどだわい。どれ、久しぶりに対局しようじゃないか、リオナード」


 老人が指を鳴らし、後ろに控えていた召使たちが卓の上に盤を置き駒を並べる。話をするのではなかったのですか、と、呆れ気味に言うリオナードへ、老人は食えない表情を見せた。


「なぁに、君の力量を見たいだけだよ。八年前は儂の圧勝だったかな。どれほど打てるようになったか、みせてもらおうか」


「……では、対局しながら交渉を進めるということでよろしいですか。僕も貴方も、時間に余裕はないでしょう」


 意味深な笑顔で頷く老人が、正方形に近い駒を四つ握って盤上に落とした。君が先攻だ、と、老人が駒を見て言う。赤光に包まれた手で、リオナードは駒を摘んだ。無難な手を打つリオナードを眺めつつ、老人が口端を上げる。


「そう言えば君の父上とも、よくこうやって談話したものだ。君の父上は実に話の分かる御人だったなぁ」


 駒から離れるリオナードの手が微かに揺れた。老獪な目と、警戒に満ちた目が、互いに視線をぶつけ合う。賭けをしないか、と、老人が公爵にもちかけた。何を、と、訝しむリオナードの前で、老人は声を出さず笑う。


「もし儂が勝ったら、君が儂の孫を娶る、というのはどうかな」


 老人が駒を動かした。中盤を荒らすつもりなのが丸分かりの一手だ。またその話ですか、と、リオナードが盤上に手を伸ばす。老人が髭を震わせた。


「ははは、何度でも繰り返すよ、君が屈するまでね」


 機械の都ここは居心地が良い、と、老人が肘掛を撫でた。駒を手にとったリオナードへ、老人はさらに付け加えた。


「なぁ、リオナード、ここは本当にいい土地だ。しかし恵まれた場所というのは、守るだけでも大変に骨が折れる。特に君のような青二才では、周囲の手練手管の餌食になる。父上がそうしたように、先人の知恵を借りるというのも、一計だぞ」


 目を伏せるリオナード。

 逡巡。そして。


「貴方がお望みならば、この勝負受けて立ちましょう。フォクス侯爵」


 闘志を燃やし打ち下ろした一手は、高らかな音を立てて火蓋を切った。

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